高木大塚城

ホースランドパークを北上すると高台に作られた朝日ヶ丘団地に出ます。この団地の一角に高木大塚城があります。ここも天正7年(1579)に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つです。この辺りは高台で見晴らしもよかったため高木古墳群がありました。城の真ん中にある高木1号墳を櫓台にしています。周りにだいぶ低くなっていますが土塁が巡っています。

高木大塚城
高木大塚城

高木大塚城は団地の中にありながら、保存状態がよく、土塁や虎口がいまも残っています。城からは高木大山付城に向かって2本の土塁が伸びており、一部が残っています。三木城をぐるっと土塁で囲み、籠城攻めをしていたことがよく分かります。

高木大山付城

高木大山付城
高木大山付城

三木ホースランドという乗馬教室などができる大きな公園があるのですが、ここの入口近くにあるのが高木大山付城です。ここも織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで、誰が守っていたかは分かっていません。道路のすぐそばにあり、土塁などは長年の風化で低くなっていますが、形は分かります。主郭の虎口が食い違いになっていたり、けっこう技巧的な縄張りになっています。

シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城
シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城跡も小林八幡神社付城や明石道峯構付城と同様に天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つのようです。誰が守っていたかはわかっていません。3つの郭から構成され郭を囲む土塁などが残っていました。案内板もあって分かりやすいし虎口も残っていました。

三木城攻めでは3回に分けて付城が造られましたがシクノ谷峯構付城跡は第二期に築かれた陣城群の一つになります。

明石道峯構付城

明石道峯構付城
明石道峯構付城

明石道が直下を通過する尾根の先端にあるのが、明石道峯構付城です。パターゴルフ場があって、ゴルフ場の横の山道を登っていくと3つの郭で構成された城に入れます。織田信忠が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたのかは不明です。東に広大な副郭があるので、ここに兵が駐屯したのでしょう。

主郭は土塁が全部をとりかこんでいて、虎口は東西にあり、西側の虎口には櫓台もありました。ここも「三木城跡及び付城跡・土塁」として国指定史跡となっていて、説明版などが充実しています。

小林八幡神社付城

城攻めでは拠点となる付城(陣城)を造るのがパターンですが、信長、秀吉は大々的な付城を造っていました。よく残っているのが三木です。天正6年(1578)~天正8年(1580)三木城主・別所長治と秀吉が戦った三木合戦です。三木城を取り囲むように約40ヵ所築かれたようですが、半分の20ヵ所が現存しています。こんなに残っているのは珍しいですね。

小林八幡神社付城
小林八幡神社付城

ということで新開地から神戸電鉄に乗り込んで志染駅へ。ここからちょっと行ったところにあるのが小林八幡神社付城です。主郭になっていたところが社殿になっていて、土塁はさすがに低くなったいますが、きちんと残っています。少し高くなっているところがあり、ここが櫓台だったようです。4つの郭で構成されていました。正7年(1579)4月に織田信忠の軍勢が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたかは伝わっていません。

塚口城 荒木村重vs織田信長

塚口で専門家派遣のお仕事だったので、仕事終わりに塚口城へ

塚口城

阪急塚口駅の北東側一帯に塚口城はあります。もともとは塚口御坊という浄土真宗の寺内町で一向一揆の拠点でした。荒木村重が有岡城の出城として整備し、水堀と土塁が造られます。織田信長軍が塚口城を攻略して有岡城攻め付け付城としました。丹羽長秀などが布陣します。

塚口城は南西に南町門、東に東町門、北東に清水町門、北西に北町門と四ヶ所に門がありました。城跡はすっかり市街地となっていますが、それぞれの門のところには祠が建てられ、祠の所だけ土塁が残っています。また北側と東側の堀は細い水路として名残を残しています。

古代・城山城

唐が新羅を支援して百済を攻撃し660年に百済は滅亡します。百済の王族や遺臣たちは倭国と連携し百済復興運動を起こします。日本・百済遺臣の連合軍が唐・新羅連合軍に挑みますが、663年に白村江の戦いで大敗します。昔、日本史で習いましたね。

これにあわてたのが天智天皇。唐・新羅による日本侵攻を想定して防衛網強化に動きます。百済遺臣の協力で朝鮮式古代山城の防衛砦を整備、また防人制度を整備します。大宰府には水城や大宰府全体を取り巻く羅城が作られました。岡山の鬼ノ城、大阪の高安城などが造られましたが、この時と共に造られたのが播磨の城山城。

古代・城山城
古代・城山城

■古代・城山城
中世には赤松氏の山城となりましたが城山城には古代山城の遺構がいくつか残っています。城山城を「きのやまじょう」と呼びますが、岡山の鬼ノ城も「きのじょう」で、大宰府の基肄城「きいじょう」ですから「き」は城をさす古語だったようです。

山を石塁が取り囲んでいますが、1300年前の石塁が一部残っています。大阪の高安城も城山城と同様に古代山城、中世山城として利用されました。

播磨・城山城 嘉吉の乱の舞台

播磨国・龍野にあるのが城山城。「きのやまじょう」とよみます。

城山城
城山城

築城したのが赤松則祐で10年以上かけて整備した山城です。赤松則祐の孫が赤松満祐で嘉吉の乱を起こした人物です。将軍が殺された幕府は統制がとれず、なかなか討伐軍を組織できませんでしたが、ようやく播磨へ出立。最後に立てこもったのが城山城ですが山名一族の大軍に包囲され、一族70人近くが自刃して果てました。

城山城は亀山(きのやま)の山頂にあり、麓から1時間ほどで登れます。土橋や竪堀などの他、屋敷跡の削平地がたくさんあります。山の上なのに水の手もあり籠城するにはもってこいの城です。城跡はきれいに整備され、瀬戸内海や姫路の街を一望できます。

有岡城 北ノ口砦址

有岡城は総構えになっていました。総構えとは城だけでなく城下町も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだもので、後北条氏の小田原城が堅固な総構で秀吉の小田原攻めに対抗しました。

北ノ口砦址
北ノ口砦址

有岡城は伊丹礫層(れきそう)の上にありました。古武庫川の氾濫した原っぱや三角州の堆積物で花崗岩の礫を多数含んでいます。伊丹段丘はこの伊丹礫層が堆積した地形面で、伊丹段丘北端では標高40mを越えます。この高台に有岡城や城下町が造られ守りやすい地形になります。

ですので伊丹の街を歩いていると、この高低差が楽しめ総構えの中にいるのかどうか判断できます。この総構の北側にあったのが北ノ口砦址です。けっこうな高台になっているので守るには最適ですね。現在は住宅地になっています。

斉藤利三屋敷跡

黒井城の麓に城主の館があります。黒井城は詰城で奥の山上に見えるのが黒井城です。

斉藤利三屋敷跡
斉藤利三屋敷跡

館跡は現在は興禅寺になっていますが、堀や石垣が残っています。赤井氏を滅ぼした後、光秀が統治することになり黒井城に入ったのが斉藤利三。そう「本能寺の変」の主要人物です。この館跡に入りました。

■斉藤利三
斉藤利三の兄が近年発見されて有名になった石谷家文書(長宗我部との交渉)の石谷頼辰で、兄や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身です。斎藤義龍に仕え織田氏に寝返った稲葉一鉄の家来か与力だったようです。ところが稲葉一鉄と衝突して出奔、光秀が召し抱えることになります。大河ドラマ「麒麟がくる」でも、このシーンが出てきました。

■春日局出生地
反対に光秀が斉藤利三をヘッドハンディングしたという話もあり、これは当時の御法度で、信長が斉藤利三を稲葉に返せと言っても光秀が聞かず、それなら切腹させろと言ったのが「本能寺の変」につながったという説もあります。斉藤利三はできる人物だったのは間違いなかったようです。家族は坂本城にいましたが、黒井の屋敷に移り、生まれたのが春日局です。興禅寺の門前には春日局出生地の碑が建っています。