JR明石駅の目の前に見えるのが明石城。2つの櫓が見えるお城です。
築城したのは小笠原忠真で、最初は高山右近の船上城に入りましたが、新たに築城するよう徳川秀忠に言われ明石城を造ります。船上城から使える部材を運び、現存している巽櫓は船上城の移築櫓といわれています。
4つの櫓と天守閣がある豪勢な本丸でしたが、現在残っているのは2つの櫓です。ただ天守閣は結局、建てられませんでした。築城と並行して城下町の町割りが実施されます。小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したといわれています。
カテゴリー: 兵庫県の山城
船上城(明石)
キリシタン大名・高山右近といえば高槻城が有名ですが、高槻の後に築城したのが明石の船上城(ふなげじょう)で明石川の河口に造られた水城です。
吉が関白になった時に全国的に国替えが行われ、高山右近は高槻から明石に国替えとなりました。明石は目の前が淡路島で現在は明石海峡大橋がかかるぐらい狭いところなので瀬戸内航路を監視するにはもってこいの場所です。当時は堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていました。
船上城ですが堀跡が小さな水路として残っているだけで、住宅地に埋没してしまいました。主郭のあったところだけは、こんもりとして丘になっています。近くの児童公園に船上城の説明版がありました。一国一城令が出て明石城が造られる時に船上城の部材がリサイクルで使われました。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓といわれています。
高山右近ですが、この船上城時代にバテレン追放令が出ます。
その後、右近は天正15年(1587年)に発令されたによって船上城を追放されてしまった。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地などを捨てることを選んで、世間を驚かせます。
姫路城
姫路城へ、ウチの奥さんと行ってきました。
山城は、誘っても絶対についてこないので(笑)
平山城である姫路城はシルバーウイークということもあり、すごい人。入場券を買うまでに1時間でした。並んでいる間に熱中症で誰か倒れたのか、救急車もきていました。すごい列なので天守閣はあきらめて西の丸などを巡ってきましたが、白いですねえ。
もともとは黒田官兵衛で有名な黒田時代に姫路城が作られ、西の丸にはNHKが作った黒田時代の姫路城ジオラマが展示されていました。秀吉が中国攻めに来た時に秀吉の居城となりましたが、当時の石垣が残っていて、本丸のすぐ下に野面積みがありました。
現在の縄張になったのは池田輝政の時。小牧・長久手の戦いで、父の池田恒興と兄の元助が討死したため家督を継ぐことになり、家康の婿となり西国大名のおさえとして造ったのが姫路城です。
諏訪城跡(神戸 諏訪山公園)
今日は午後から専門家派遣だったので、午前中に諏訪山公園へ行ってきました。神戸のJR元町駅から坂をずっと登ったところにあります。神戸は本当に坂の町ですね。諏訪山公園は高台で神戸の街が一望。ここが室町時代に赤松範資が築いた諏訪城跡といわれています。残念ながら遺構は残っていなく、公園なのでスーツ姿で登れる山城です。
戦国時代になると織田信長に謀反を起こした荒木村重が花隈城にこもり、信長の乳兄弟である池田恒興が陣所を諏訪山におきました。公園から見ると神戸ポートタワーから港が一望で花隈城跡もよく眺められます。
諏訪山に陣をおいたのは池田恒興と嫡男の元助、次男の輝政は生田神社の森に、紀伊雑賀衆の援軍は大倉山に花隈城を囲むようそれぞれ陣をおいて攻めます。荒木軍は敗れ、荒木村重は毛利へと落ちていき花隈城は廃城となります。
池田恒興は荒木の旧領をまかされ新たに兵庫城を築城します。地下鉄・中央市場前駅近くにあります。本能寺の変の後、清州会議では秀吉に味方します。小牧・長久手の戦いでは迂回して家康の本拠の岡崎を攻めるよう進言して実行しますが、家康に察知され攻撃を受け、嫡男の元助と共に討死してしまいます。岐阜県・多治見市にある池田城跡へ行くと池田恒興、元助の墓標がありました。
池田家の後を継いだのが次男の池田輝政。そう、あの姫路城を造った人物です。
楠正成の阪本城(小倉山公園)
昨日、八宮神社へ行ったついでに坂を登ったところにある大倉山公園へ行ってきました。
明治時代に大倉財閥を作った大倉喜八郎の別荘があり、後に神戸市に寄贈されたので大倉山公園という名前になっています。今は神戸市中央図書館や野球場があります。
大倉喜八郎は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館や帝国ホテルを作り、他にもいろいろな会社を設立していますが、大倉火災海上保険が今の「あいおいニッセイ同和損害保険」になっています。
この大倉山公園ですが、高台にあり、楠正成が造った阪本城跡と言われています。九州から攻め上ってくる足利尊氏に備えるために造ったそうなんですが、詳しいことは分かりません。実際に坂を上がってみると、山城の郭のような部分がけっこうあり、十分に攻城戦ができそうです。
徳川光圀が正成の墓に碑を建て、後に湊川神社となったところは坂を降りたすぐの所にありますが、すぐ近くに攻城戦ができる丘があるので湊川の戦いは大倉山公園で行われたのでしょう。太平記の映画やドラマで、海岸沿いで足利軍と楠軍が戦うシーンが出てきますが、湊川神社近くが戦いの舞台なら、城攻めだったんでしょうね。
戦国時代、荒木村重が織田信長を裏切った時、荒木村重の花隈城を攻めるため、信長側の池田信輝が砦を構えた場所でもあります。今は何も残っていません。
足利義昭も訪れたかもしれない越水城
西宮・廣田神社の南側にあったのが越水城。今も城山や、麓には城ケ堀町という地名が残っています。
近くを西国街道が通っており、交通の要衝でした。瓦林城や芦屋の鷹尾城を造った瓦林正頼が本城として越水城を造り、瓦林城を支城にしたようです。城跡は残っておらず現在は住宅街になっていますが、けっこうきつい急坂。ここに郭を配置したのでしょう。こんなところを自転車で登るのはめちゃくちゃ大変。瀬戸内海を見下ろせる高台で、いかにも空堀だったという跡が道路に残っています。 こんな住宅街をアチコチ見ながら歩いていますので、相当に怪しいオジサンです。(笑)
交通の要衝だったので、よく戦いに巻き込まれ、城は取ったり、取られたり。三好長慶が頭角をあらわすと越水城は三好長慶の拠点になります。三好長慶の地盤である阿波と京都を結ぶ途中にありました。三好長慶は高槻にある芥川山城を新しい拠点にし、信長より先に天下布武を果たします。13代将軍・足利義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害され、擁立された足利義栄は越水城に入城し、やがて摂津富田に移って14代将軍に就任します。
ところが足利義昭を擁した織田信長が岐阜を出立。近江の六角氏をけちらして摂津に進軍してきます。松永久秀は信長につき、三好三人衆勢は四国へと追っ払われます。越水城は義昭家臣の和田惟政が守ることになりました。義昭自身も入城したとの説があります。その後も越水城は戦乱に巻き込まれ、さすがに嫌気がさした住人が信長に頼んで廃城にしてもらい、これが西宮発展につながったようです。
瓦林城
午後から尼崎で仕事でしたので、少し早い目に出て西宮へ。
阪急・西宮北口から線路沿いに15分ほど歩くと武庫川の手前に日野神社があります。ここが瓦林城跡。阪急の線路のすぐ脇です。
城跡は何も残っていませんが昭和初期まで周辺に陣場、城ノ前、城ノ東などの字名が残っていたので、このあたりが城跡だったことは間違いないようです。境内の林が戦国時代から続く原生林になっています。
赤松氏の家臣である貴志義氏がこの城で戦った記録があり鎌倉時代末期には城があったようです。貴志氏は現在の三田市にあった貴志荘出身の武将になります。
やがて菅原道真を祖とする河原林氏(瓦林氏)が三河から移住してきました。河原林氏は足利尊氏の家臣でいた。河原林氏は、この瓦林城と近くにある越水城、芦屋にある高尾城、尼崎の富松城のあたりを支配していました。
日野神社は瓦林城の鎮守として城内に作られたようです。そこへ織田信長が摂津に進攻してきます。河原林氏は織田方を選びましたが、信長と敵対する阿波の三好勢に攻められ瓦林城は落城してしまいます。
七松城 荒木村重の舞台
尼崎のJR立花駅近く商店街を向けた住宅地にあるのが七松八幡神社。境内には「荒木村重ゆかりの地」という幟がひるがえっています。
昨年、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、信長に精神的に追い詰められた荒木村重が謀反したように描かれていましたが、戦国時代に領主の独断専行だけで事をすすめられるわけがなく、中川清秀や高山右近など摂津衆の突き上げと十分に勝機があったため、摂津衆の総意のもとでの信長に対する謀反だったのでしょう。
ところが中川清秀や高山右近をいち早く荒木村重から遺脱させ取り込んでしまった信長が一枚上手でした。信長によって伊丹にある有岡城と有岡城の支城である尼崎城攻めが始まります。尼崎城攻めの付城として織田信忠が作ったのが七松城。城は現在の七松八幡神社一帯にありました。奈良などに多い、環濠型の城で近くの住宅地には水路が残っています。
■荒木村重の家臣などを処刑
荒木村重が神戸の花隈城へ、毛利の後詰を依頼するために有岡城から脱出しますが、その後、落城した有岡城の家臣や家族が処刑されたのが、この七松城。七松八幡神社境内に慰霊碑が建っています。
荒木村重につき従い花隈城に向かった荒木五郎右衛門という武将が、自分の妻が処刑されるのが分かり、身代りになると明智光秀に申し出ましたが、信長は許さず夫婦ともども処刑されたと信長公記に出てきます。七松八幡神社は商店街のすぐ近くにあり、住人は400年ほど前にそんな歴史があったとは、ほとんど知らないでしょうね。
富松城
今日は午後から尼崎で仕事でしたので少し早い目に出て富松城へ。
富松城は阪急・神戸線の武庫之荘駅から少し歩いた交差点のすぐ横にあります。阪神地域の古称を武庫と言いますが、ヤマト朝廷から見て大阪湾の向こう側にある山を「むこうやま」と呼んだ説と神宮皇后が武器をおさめた武庫に由来するという説があります。
住宅地のど真ん中に富松城の土塁の一部と堀跡が残っています。住民の方々がしっかり保存しており、近くのバス停は富松城跡。交差点の名前も富松城跡になっています。
富松城は伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、たびたび戦火に見舞われています。城主はころころと変わり、細川高国やら三好長慶など戦国時代の中心地でした。