-
20代の頃、阪急・上新庄駅近くに住んでいたので、休みになるとハイキングに出かけていました。よく行ったのが阪急・芦屋川駅から高級住宅街を歩き、城山(鷹尾山)、岩梯子、荒地山、雨ヶ峠、東お多福山から六甲山を超えて有馬温泉へ向ける縦走ルート。有馬温泉で市営の有馬温泉会館に行って、金泉、銀泉に入り、帰りは六甲ロープウェイとケーブルで帰ってきました。最後に温泉でさっぱりできるので、なかなかおすすめのハイキング・コースです。
城山(鷹尾山)は芦屋の住宅街から見えている小山で何度も登っているのですが、ここに城跡があったとは全然気づかず、先日確かめるために登ってきました。山頂近くのハイキングコースの近くにあったのが二重の堀切。土橋もしっかり残っていました。何度も通っている道なのに全然、気がつかないものなんですね。人は見たいものしか見ないというのはまさしくです。
室町幕府の時代、摂津守護の細川高国が1511年に瓦林正頼に命じて造らせた城で、築城後すぐに赤松氏に攻められ(芦屋河原の合戦)、落ち延びることになります。
カテゴリー: 兵庫県の山城
太平記の舞台 摩耶山城
暮もおしつまっているのに山城に登ってきました(笑)
場所は神戸にある摩耶山。王子公園駅で降りて、坂道をひたすら上がり、上野道という登山道を登ってきました。摩耶ケーブルの終着点「虹の駅」あたりから、ずっと城跡になっています。と言っても見た目は単なる山道です。山道横の丘を登ると、そこが曲輪跡になっていて、山道を上から攻撃できるようになっています。
大晦日前日なのに歩いているハイカーが多いですね。もっとも皆さん、山歩きを楽しんでいるようで山城跡を見ているような酔狂な人物はおりませんでした。山道からは六甲アイランドやポートアイランドなどが一望できます。
摩耶山城を造ったのは赤松則村。南北朝時代に活躍した人物で、鎌倉幕府(京都の六波羅探題)を倒すため播磨国で挙兵。摩耶山麓に陣を構える六波羅探題軍を破り、摩耶合戦として太平記に書かれています。足利尊氏の湊川の戦にも協力し、足利幕府を支えることになります。
この赤松氏ですが室町幕府6代将軍足利義教を暗殺します。日本史で習った嘉吉の変(かきつのへん)ですが、恐怖政治を行っていた将軍でしたので、自分の側についてくるものがいるだろうという目算もありました。結局、誰も賛同せず幕府方討伐軍に敗れて討たれてしまいました。
新神戸駅裏にある戦国時代のお城
三木の干殺し 戦を土木に変える
豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。
いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。
神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。
戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと
尼崎城
神戸の大都会にある花隈城
ひょうご産業活性化センターで窓口相談。
お昼休みに三宮駅からJR沿いに元町駅の方へ歩きました。元町駅の途中ぐらいから2階建分ぐらいの思いっきり坂になります。ずっと高台になっていて、少し行くと花隈公園。片道20分ぐらいですね。吉野家の牛丼を食べたらぴったし1時間でした。
花隈は鼻隈と言ったそうで、六甲山の丘陵が海に突き出ている様子を「鼻」と言ったそうです。ここが花隈城跡。誰が築いたかは分かりませんが織田信長が毛利氏対策として荒木村重に命じて築城させたようです。本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城で元町駅あたりはずっと城でした。
荒木村重が織田信長を裏切って有岡城の戦いが起きます。来年の大河ドラマが黒田官兵衛ですが、荒木村重を説得に行った黒田官兵衛ですが、うまくいかず、城の中に幽閉される事件が起きた戦いです。
花隈城も荒木村重の支城でしたので、織田方に攻められ落城。その後は兵庫城が海沿いに作られ花隈城は廃城になりました。城跡といっても碑しかなく模擬石垣や模擬天守があるだけです。ですが、けっこうな高台ですので、今はビルで見えませんが当時は海もよく見えたでしょうね。神戸ポートタワーの先が見えていました。
有岡城(伊丹城)
法事が伊丹市であったので朝から出かけてきました。法事が終わってからJR伊丹駅の目の前にある有岡城へ。
織田信長に所属していた荒木村重が突然謀反を起こし、伊丹城の戦いとなりましたが、この舞台となったのが有岡城です。と言っても本丸跡が公園として少し残っているぐらいですが、堀跡や土塁跡を見ることができます。都会のど真ん中によく残っていますね。
荒木村重を説得に有岡城へ行った黒田官兵衛が捕えられてしまい城の中の牢獄に1年間投獄されてしまいます。黒田官兵衛は息子の黒田長政を信長に人
質に出していましたが、信長はなかなか帰ってこない黒田官兵衛を裏切ったのではないかと考え秀吉に、人質の黒田長政を殺すように言います。この時、竹中半
兵衛が信長の命に逆らって黒田長政を匿うというシーンはよく時代劇などで描かれています。
有岡城は城下町を含めた惣構えになっていて、町の周りが土塁や堀で囲まれた大きな城でした。今のところ日本最初の惣構えのようです。さすがの信長も攻めあぐね、最後は城内からの裏切りで落城します。
北の端には「岸の砦」があり、現在の猪名野神社と考えられています。行ってみると神社の中には土塁跡が残っていました。JR伊丹駅と阪急伊丹駅のちょうど真ん中が惣構えの範囲にすっぽり入っています。
姫路城
いつもは新幹線で通過する姫路駅に初めて下車。駅前商店街が長く、よく賑わっていました。商店街が元気な町はいいですねえ。姫路で午前中は仕事でしたが、午後は予定がなかったので国宝・姫路城へ行ってきました。
2014
年まで大天守保存修理工事ですので、外観は見えませんが天守閣にフードがかぶっていて、エレベーターで上まであがり修理の様子を見ることができます。天守
閣の屋根を外から見るというのは、修理中でないと見られないのでお値打ちです。ただし月曜でも、まあまあ観光客がいましたので土日はけっこう混むでしょう
ね。
巨大な城ですが、町に遺構がよく残っています。お城から少し行ったところに国道2号線が走っているのですが、ここが中堀跡。堀は道路
になっていますが土塁がずっと続いて、ところどころに門跡が残っています。ここまで外部の遺構が残っている城は見たことがないですねえ。家老屋敷跡が公園
になっていたり姫路の町は見どころ満載です。
姫路から長浜行きのJR新快速で大阪へ戻ってきましたが、秀吉はよくこの距離を大返ししましたね。山崎の合戦跡を越えて、秀吉の居城があった長浜までJRが走っているのは、なかなか面白いですなあ。