太田城

太田城

丸勘城から山裾を進んでいくと太田集落に城があります。尾根の先端に作られたなかなか規模の大きな城でした。事前に調べると太田城へ行くには王田神社を目指せと書いてあるんですが、神社への急な階段は崩落していて通行止めになっていました。脇に道があったので登っていくと、これが堀道になっていてようやく郭に到達。堀切で遮断された郭が続きます。王田神社も高台にあり出城になっているようです。

城を堪能した後に、近くに別の城があるということで池横をずっと進んでいきます。隣の尾根先の春日社にも城があり、郭が連続していました。春日社が主郭で一城別郭になっているようです。それにしても大きな城ですねえ。城主は地元の松井氏といわれていますが詳しいことは分かっていません。明智光秀の丹波攻略では光秀に従ったようで本能寺の変の後に帰農したようです。

丸勘城

丸勘城

亀岡市稗田野町鹿谷(ろくや)に丸勘城という平山城があります。別名を鹿谷城ともいいます。北面の武士だった竹岡氏が野武士となり、南北朝時代には丸勘城に移り住んだようです。八木城の南側を守る位置にあり明智光秀の丹波攻略で落城します。

丸ヶ条集落の小高い丘に築かれていて、とても分かりにくい民家の間の細道を登っていくと小さな祠があり、ここが郭になっています。虎口があり、ここから主郭に入ることができます。主郭はけっこうな広さで周りを帯郭が巡っていました。あまり技巧的ではなく、縄張りはわりと単純ですが、集落の中によく残っています。

井内城

井内城

湯の花温泉の峠を越えて今度は下っていきます。目指すは井内城です。城への行き方を事前に調べると372号線から小道に入ってしばらく行ったところに獣害防止フェンスの入口があると記載がありました。

着いてからいろいろと探しますが、なかなか見つかりません。ようやく見つけたのがビニールテープで結んだ簡易的な入口です。こりゃ、分かりませんでえ!とりあえずテープをはずして中に入り、もう一度結び治します。なんとかフェンスの中に入れましたが、その先はいきなり崖になっています。

■井内城
もともとの城の虎口は山の反対側にあり、こちらは一番高い主郭になっています。何とかよじ登り始めると竪堀に入れました。あとは竪堀に沿って登っていくと、主郭に到達します。主郭はなかなか広く、主格から4つの郭が連続していて、土塁や堀跡がしっかり残っていました。

今は藪だらけで外が見えませんが篠山街道を見張るには最適な城でした。もともとはこのあたりの豪族だった井内氏の居城だったようです。明智光秀による丹波攻めで天正6年に攻め落とされました。

大河原城

2025年初山城は大河原城へ

大和街道(関宿から伊賀上野を経由して奈良へ至る道)沿いにある山城で、木津川の支流である渋久川がすぐそばを流れています。貞観元年(896)年の記録に出ている古社・国津神社の東側に春光寺があります。寺の前の道を東に進むとグランドの北側に公園があり、この公園を横切ると山裾にお墓があります。このあたりから堀切になっているようで登っていくと土橋らしきものに出て、ここから尾根まで斜めに登れる道があり郭に入れます。

三日月状の郭になっていて、郭がいくつも連なっています。周りを土塁に囲まれた大きな郭があり、ここが主郭だったようです。南西方向に350mにも延びる連郭式と言われる大きな城で、JR関西線や大和街道などによって城域が途切れています。

武衛陣(二条城)

武衛陣

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、信長が岐阜に戻ると本国寺を御座所にしていた足利義昭を三好三人衆が襲います。大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀が足利義昭を守って戦うシーンが出てきます。岐阜にいた信長は大雪の中、わずか10騎で救援に駆け出します。三好三人衆の攻撃をなんとかしのぎましたが、守りを固めるため信長は武衛陣があったところに二条城を建設します。

■武衛とは
武衛とは天子を守る武官で、将軍のことです。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で頼朝が豪族から、最初は「佐殿(すけどの)」と呼ばれます。これは右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に頼朝がついていたからです。ところが平治の乱が起きたため、わずか15日で解任されます。「佐」が位をあらわし伊豆に流された時に官位はありませんが坂東武者たちは敬意を込めて佐殿と呼んでいます。

坂東の支配が確立していくと坂東武者たちは頼朝を「武衛」と呼ぶようになります。実質的に兵衛府(唐名が武衛)のトップ(督)だと、いう意味です。頼朝も悪い気はしなかったでしょう。

■武衛陣
室町時代になると兵衛権佐の官職は斯波氏の当主が任じられるようになり、同家を武衛家と称するようになりました。斯波氏の館があったところが武衛陣と呼ばれるようになります。館と言いながら櫓を備え堀もあった城郭でした。斯波氏は管領として室町幕府を支えましたが応仁・文明の乱の頃から弱体化しました。尾張の守護でもありましたが、補佐する守護代の織田氏にやられるようになり、やがて守護代の家来だった織田信長が台頭していくことになります。信長にとって武衛陣に二条城を建てる時、感慨深いものがあったでしょうね。

妙顕寺城の遺構が発見される

妙顕寺城の遺構が初めて確認されたと報道がありました。

大政奉還の舞台となったのが現在の二条城ですが、この前にいろいろと二条城があり妙顕寺城は秀吉が築いた二条城です。まずは武衛陣という、もともとは斯波氏の屋敷で将軍御所となった場所があります。武衛陣の近くに作られたのが織田信長が足利義昭のために築いた二条城です。ルイス・フロイスが初めて織田信長と出会ったのが、この二条城の工事現場でした。信長が足利義昭と敵対した後に作ったのが二条新御所になります。

■妙顕寺城
本能寺の辺の後、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城でした。今回、遺構が見つかったのが、この城になります。

二条という土地は足利将軍の武衛陣があったこともあり、武家政権の聖地になっていました。ですので信長、秀吉、家康はこの地に城を作ることになります。

山科本願寺から石山本願寺へ

山科本願寺跡

イスラム教のスンニ派とシーア派との対立、またキリスト教でもカトリックとプロテスタントの対立があり世界中で宗教戦争があります。日本もかっては同様でした。特に一向宗と法華宗が争っており、政治的な話もからんでグチャグチャの状況です。

■大谷本願寺
本願寺が京都の大谷にあった頃、蓮如がやり手で、御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)という、庶民が分かる書簡を使った教化を行い全国に信者を増やしていきます。近江に力をいれて布教しており、怖れをいだいた比叡山が京都に僧兵を送りこんで大谷本願寺を壊してしまいます。

■山科から大坂へ
そこで新しく造られたのが山科本願寺。寺と言いながら、二重の土塁と堀で囲まれた、ふつうの城です。ところが、ここも細川春元が率いる法華宗、近江守護六角氏の連合軍により焼き討ちにあいます。鉄壁の守りですが油断をついて攻め込まれました。次に移ったのが石山本願寺。いままでの経験をいかし徹底的に防備を固め、出城をいくつも作ったため、さしもの信長も攻めあぐね10年戦争(石山合戦)になりました。

最後は和睦して大阪を立ち退き紀州(鷺森本願寺)へ移ります。信長亡き後、秀吉と和睦して天満へ移り、その後に京都へ移ります。信長、秀吉、家康が宗教を非武装化したことにより、世界でも珍しく日本では宗教戦争がなくなっていきます。

山科本願寺公園

山科本願寺公園

先週のブラタモリを見ていたら山科が舞台で、山科本願寺の土塁跡が取り上げられていました。山科中央公園の一角に土塁跡が残っていて、そちらが紹介されていましたが、その後に出てきたのが本願寺跡にあった風呂設備の遺構です。

当時のお風呂は湯船タイプではなく、いわゆる蒸し風呂、つまりサウナです。そういえば先週の「どうする家康」でも蒸し風呂に入っている家康のシーンが出ていました。湯船タイプは江戸時代からになります。山科中央公園の土塁跡は昔、行ったのですが、風

呂設備についてははじめてで、さっそく山科本願寺公園へ出かけてきました。史跡公園として、できたのは2021年、つい最近なんですね。公園は山科本願寺の中枢である宗主空間があったところで、建物跡や堀跡が示されています。すぐ近くを新幹線が走っていますので、新幹線の窓からも見えます。山科の街を通り過ぎる北側になります。

京都新城から移された飛雲閣

そうだ 京都、行こう。

飛雲閣

ゴールデンウィークの最終日だし、おまけに朝から雨が降っている。飛雲閣なんてインバウンドの観光客は絶対に知らないはずだ!
そうだ 京都、行こう。というわけで京都へ。西本願寺で特別公開している飛雲閣を見てきました。雨の中、人は、ほとんどおらず、ゆっくり見てきました。

飛雲閣は三層柿葺(こけらぶき)の楼閣建築で、秀吉の聚楽第から移されたと伝わっています。1595年に豊臣秀次事件が起きて、聚楽第は破却されました。当時、西本願寺の前身が出来ていたので、辻褄はあいます。ところが1617年に西本願寺の伽藍が全焼したという記録が見つかって、移転説はほんまかいなということになっています。

■飛雲閣は京都新城から移転?
と思っていたら幻だった京都新城が発見されます。京都新城には秀吉没後に北政所が住み続けていました。北政所が亡くなり、寛永4年(1626年)に後水尾天皇の譲位にあわせて、仙洞御所を作ることになり、京都新城が破却されることになります。この頃に西本願寺へ移した可能性があります。知らんけど。

周山西城

周山西城 堀切

周山城の西側にも山城があり、周山城の小姓丸と呼ばれる一番西の郭から尾根を600mほど行くと周山西城があります。途中の尾根筋を、でかい堀切2つで遮断していて、これがなかなか見事です。周山城は基本、石垣の城ですが周山西城は土の城になっています。5つほどの郭で構成されていて、周山城ができる前からあった城のようです。ただ虎口などが改修されたようで、周山城を造る時に詰の城として整備しなおし、この時に巨大な堀切を造ったのかもしれません。

周山城から周山西城へが京都一周トレイル・京北コースになっていて、こんな過酷な山道を走るんですね。堀切は迂回するようになっています。