二条城 その2 二条新御所

二条新御所跡です。場所は烏丸御池駅近くで京都国際マンガミュージアムがあり、二条殿町という町名が残っています。信長が足利義昭のために造った二条城ですが、武田信玄が挙兵すると、信長が負けると、まずいと思った足利義昭が挙兵し槇島城の戦いで敗れます。足利義昭は京都を追放され若江城へ退きますが、二条城を守備した三淵藤英(「麒麟がくる」では谷原章介が演じていました)は切腹、二條城は廃城となります。

二条新御所跡
二条新御所跡

信長は上洛した時に妙覚寺を使っていましたが、二条晴良から二条邸を譲り受けたため新しく二条城を造ります。主殿は松永久秀の多聞山城から移築しました。信長は新しい二条城を宿泊地に使っていましたが、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、二条城は親王家の御所となります。これで二条新御所となります。

■本能寺の変の舞台
本能寺の変が起きた時、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺が既に落ちたことを知り、防御能力に優れた二条新御所へ移ります。誠仁親王には内裏に移ってもらい、ここで明智軍と戦い、亡くなります。織田信忠と一緒に戦っていたのが弥助です。モザンビーク出身で南蛮人が連れてきたのを信長が譲り受けて侍にした黒人です。弥助は捕縛されましたが明智光秀は日本人ではないからと許し、南蛮寺へ行くことになります。本能寺の変の詳細がイエズス会からヨーロッパに報告されます。

この二条新御所には大きな庭園があり龍躍池(りゅうやくち)と呼ばれる池がありました。これが御池通りの由来となります。

二条城 その1

大政奉還の舞台となった現在の二条城ができる前に、いろいろと二条城がありました。まずは足利義昭の二条城です。織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭は将軍に就任し仮の御所である本圀寺に入ります。信長が岐阜に帰ったすきをついて三好三人衆らが将軍を襲撃します(本圀寺の変)。

二条城
二条城

「麒麟がくる」では十兵衛(明智光秀)が米蔵の地下にある部屋に義昭を匿っていました。義昭の側近らが必死に奮戦し撃退します。信長もかけつけ足利義昭の無事を確認。城が必要だと認識した信長が造ったのが二条城です。武衛陣の跡地を中心に堀などをもうけた本格的な城を造ります。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとります。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが初めて織田信長とあったのが、この二条城の工事現場。信長は堀の橋の上で待っていたと著書「日本史」に書いています。よくドラマや映画などで描かれるシーンです。二条城には二重の堀があったとも記載されており、2012年に内堀跡が発見されフロイスの記載通りでした。

武衛陣

「鎌倉殿の13人」で上総広常(佐藤浩市)が源頼朝を「武衛ぶえい)」と呼ぶシーンがあり、頼朝が喜んでいますが、武衛とは天子を守る武官を唐名で呼んだ時の言葉で「佐殿(すけどの)」より尊称になります。ちなみに中納言の唐名は黄門で、中納言の官職をえていた水戸光圀は水戸黄門と呼ばれていました。鎌倉時代の後、室町時代に御所警衛や京内巡視などを担当していた斯波氏が武衛と呼ばれていました。

武衛陣
武衛陣

この斯波氏の邸宅が現在の京都御所のすぐ近くにあり武衛陣と呼ばれていました。今も武衛陣町という地名が残っています。応仁の乱の頃になると武衛陣は数多くの櫓を備え、堀を巡らした城となります。戦国期になると斯波氏は守護だった尾張へと移り、跡地は将軍御所として使われました。「麒麟がくる」では剣豪でもあった将軍・足利義輝を向井理が演じ、三好軍の襲撃を受けて最後を遂げますが、その場所になります。

開田城

勝龍寺城のあった西岡の地にはたくさんの城がありました。革嶋城、上羽城、石見城、物集女城、上植野城、今里城、開田城、神足城。京都・桂川の西にこんなにたくさんの城があったんですね。

開田城
開田城

阪急長岡天神駅のすぐ近くに開田(かいでん)城があり国人の中小路氏の居城です。といってもバス停近くに土塁の一部だけが残り開田城土塁公園となっています。マンション建設に伴って発掘調査が行われ、一辺約70mの方形居館が堀と土塁に囲まれていたことが分かりました。マンション1階には開田城の復元模型があります。文献に文明2年(1470年)、山名弾正と丹波勢が開田城と勝龍寺城を攻めた記録が残されています。

勝竜寺城の城跡(神足城)

現在の勝竜寺城跡は本丸跡で、勝竜寺城自体の城域はかなり拡がっていました。神足(こうたり)神社の境内に外郭の堀跡が残っています。かなり深い堀で真ん中には土橋がかかっています。土塁も見事ですね。土塁と空堀の比高が約六メートありました。

勝竜寺城の城跡
勝竜寺城の城跡

もともとは国人の城郭があったのを細川藤孝が勝竜寺城に組み込んだようです。昔、整備された頃に見に行った時はきれいな堀跡でしたが、いまは草が生い茂っていました。せっかくの遺構なのに、もったいないなあ。でも整備にはお金がいりますし自治体には金がないし、悩ましいですね。

勝竜寺城

長岡京市でお仕事だったので終わってから勝竜寺城へ

勝竜寺城
勝竜寺城

戦国時代、三好三人衆が拠点にしており足利義昭を奉じて織田信長が上洛した時、勝竜寺城を攻めて落城させ、三好勢を追い払います。織田信長の命で細川藤孝が勝竜寺城を大幅に造り変え、西岡一帯を支配することになります。大河ドラマ「麒麟がくる」では眞島秀和が演じていました。

■古今伝授
細川藤孝は土地の名をとって長岡藤孝と名乗ります。息子の細川忠興と明智光秀の娘であるお玉(細川ガラシャ)が結婚した城でもあります。そうそう古今和歌集の奥義を伝えるため細川藤孝が智仁親王へ古今伝授を行いますが、最初のレッスンはこの勝竜寺城から始まりました。いろいろと中断があり関ヶ原合戦まで続きますが、東軍側として舞鶴の田辺城に籠城した細川藤孝に対し、天皇が古今伝授が途絶えるのは残念と包囲していた西軍と和睦するよう勧告します。まさに芸は身をたすけるですね。

■山崎の合戦
本能寺の変の後、中国大返しで戻ってきた秀吉と激突した光秀が拠点にしたのが勝竜寺城です。山崎の合戦で敗れたので勝竜寺城に立てこもりますが明智軍の士気は低く、また秀吉軍が夜の間も鉄砲を撃ち続けたため逃亡者も多く、光秀も体制を立て直すため城を出て近江へ向かう途中、落ち武者狩りにあって亡くなります。

田辺城

一休さんで有名な京田辺市にあるのが田辺城。奥ノ城という地名にあります。

田辺城

昔は山の中でしたが今は田辺市役所や野球場のすぐそばの丘陵上にあります。バイパスを通すことになり1996年に発掘調査が行われました。丘陵の東斜面から石垣を築いた虎口が見つかり石段になっていました。15世紀頃の瓦が出土しているので室町時代に築城されたようです。同志社大学・田辺キャンパス内に新宗谷館跡という山城がありますから連携していたかもしれません。

田辺城に登ろうとしても虎口はバイパスになってしまったので東側からは登れません。西側から郭を目指して切岸を直登しかありません。郭といっても竹藪だらけですが土塁跡などを見ることができます。見事なのは大きな空堀で写真を撮りましたが、なにがなんやら分かりませんね。

秀吉時代の大坂城 唯一の遺構

船場総研(中小企業診断士受験を目指す船場勉強会のOB組織)のイベントで滋賀へ

船場総研ではコロナ禍のためオンライン・イベントが続いていましたが、久しぶりのリアル・イベントです。近江今津駅に集合して竹生島へ渡り、竹生島から長浜へ出て町を散策し、最後は大津で宴会して散会するコースです。

極楽橋
極楽橋

念願だった竹生島へ行ってきました。パワースポットで有名ということですが、そんなことはどうでもよく(笑)目指すは唐門!京都・東山にある豊国廟の極楽門を豊臣秀頼の命で移築したものですが、元々は秀吉時代の大坂城にあったことが判明しました。

■秀吉・大坂城 唯一の遺構
2006年にエッゲンベルグ城(オーストリア)で豊臣期の「大坂城図屏風」が見つかり、山里丸から二の丸に抜ける極楽橋とこの唐門の姿がそっくりでした。極楽橋は豪華絢爛な屋根がついた橋で、この屋根部分が秀吉が亡くなってから移築されて豊国廟の極楽門になったようです。つまり家康が豊臣を攻めたの大坂の陣で、すっかり燃えてしまったと思われていた秀吉・大坂城の遺構が残っていたことになります。

上賀茂の御土居

秀吉が京都の町に造ったのが御土居という名前の羅城。平城京にしても平安京にしても羅城門は造りましたが長安のように町を羅城で囲むようなことはしませんでした。秀吉が作った御土居は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状で堀が設けられ全長22kmもありました。

御土居
御土居

もっとも防衛用に作ったのかどうかははっきりしていません。東側は鴨川の氾濫に備えた洪水対策のようです。御土居には7つの出入り口が設けられ鞍馬口や粟田口などの地名として残っています。上賀茂の一角にこの御土居が残っていて、まっすぐ東にのびた御土居が賀茂川に沿って右に曲がる角の所が残っています。遠くからみたら単なる土の塊ですが(笑)戦国時代の羅城が都会に残っているのがすごいですね。

聚楽第

聚楽第
聚楽第

聚楽第はわずか8年間しか使われなかった城です。本丸以外に西の丸、南二の丸、北の丸の三つの郭を持っていました。

聚楽第は跡形もありませんが近年、石垣が見つかり話題になりました。ただ堀跡などが高低差として残っていてブラタモリによく出てくる京都高低差崖会が「聚楽第を探し歩く」シリーズをアップしています。住宅街などに痕跡を見つけることができます。

聚楽第が完成したのは1587年(天正15年)で秀吉が、ここで政務をとります。翌年には後陽成天皇の行幸が行われました。1591年に関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第は秀次の邸宅となります。ところがよく分からない秀次謀反事件が起きて、聚楽第は破壊されます。どうも朝鮮出兵の反対派が秀次を担ごうとしていた動きがあったようです。秀吉の弟である秀長が病没していなければ起きなかった事件で豊臣家も安泰だったかもしれません。