雪の滝川氏城(名張)

takigawa.jpg

月曜日、東京は大雪でしたが関西でも榛原~伊賀にかけて積雪がありました。翌日の火曜日、名張の企業へ行く前に滝川氏城によってきました。 
天正伊賀の乱での織田側の拠点となった城です。主郭と周りを囲む土塁がきれいに残っているんですが、主郭が三重県内最大の大きさで70m四方もあります。広いので主郭内はグランドとして整備されていて野球などができるようなっています。でも中世の城跡で野球をしていると子供は知らないでしょうね。もっとも昨日はそのグランドも雪で埋もれていました。(笑) 
■負け組だったのに最後は大名にまでなった滝川雄利 
城を作ったのは滝川 雄利(たきがわ かつとし)という人物。伊勢国司・北畠の一族である木造氏の出身なんですが、昔から木造氏は北畠と仲が悪く、織田信長に味方して伊勢進攻を手助けしました。伊勢進攻の指揮をした滝川一益に気に入られ娘婿になっています。それで滝川になりました。 
やがて北畠を滅ぼし伊勢を支配した織田信雄の付家老になります。伊勢を支配下においた織田信雄が次に目を向けたのが伊賀の土地。伊賀へ進攻しますが伊賀の土豪も強く2回失敗します。 
織田信雄は織田信長から親子の縁を切るとまで激怒されますが、信長もほうっておけないので5万の兵で伊賀へ侵攻し伊賀を平定します。最後の合戦になったのが名張の赤目近くにある柏原城で、柏原城を攻めるための拠点として作った城が滝川氏城です。 
この滝川雄利という人物、小牧・長久手の戦いでは織田信雄側で戦い、秀吉の九州征伐、小田原征伐に参戦、関ヶ原の戦いには西軍で参戦、最後は徳川家康に仕えて常陸片野藩の初代藩主となりました。 
滝川一益、織田信雄、豊臣秀次、石田三成と負け組に組しながら、最後は大名にまでなった、なかなか波乱万丈の人生です。

阿保城(伊賀)

aho201211.jpg名張の企業へ専門家派遣。 

少し早い目に出て近鉄青山町駅で下車しました。駅のすぐ近くを初線街道(奈良から伊勢を結ぶ街道)が走っており、昔は阿保宿がありました。阿保は「あほ」ではなく「あお」とよみます。青山町駅もできた当初は阿保駅という名前でした。 

阿保宿には義左衛門の酒銘で有名な若戎酒造があります。”新酒あります”と店頭にあったので買おうと思ったら720mlは完売で一升瓶しか残っていませんでした。さすがに一升瓶をぶらさげて企業さんには行けないので断念。 

この阿保宿を抜けたところに阿保城跡があります。住宅街からちょっと入った丘の上で、ちょっと分かりにくいところが入口。丘の上に登ると主郭が残っていました。虎口(城の入口)も明瞭で、主郭を取り囲む土塁は2m半ほどありました。 

主郭の真ん中には「史跡 阿保頓宮跡」の碑が建っていました。頓宮とは斎宮へ向かう斎王が途中で宿泊した宮ですが、中世の城郭しか残っていませんね。住宅地のすぐ近くに主郭だけですが、よく城跡が残りました。 

池の谷古墳(池の谷砦)

ikenotani201210.jpg津の実家から国道23号線を伊勢方面(津)へ行くと垂水という場所があります。 

垂水は津の中心市街を通らずに抜けることができるバイパス道路と合流するところで、いつも混んでいます。ここから南が丘方面に丘を登る道路があり、丘を登ったところにマルヤス南が丘店新鮮館というスーパーがあります。スーパーの後ろが高台になっていて今は住宅地になっていますが、ここにあったのが垂水城(北鷺城)。今は何も残っていません。 

垂水城から少し行ったところに池の谷古墳という前方後円墳が住宅地のど真ん中にあるんですが、ここも高台の上にあります。古墳は見晴らしのよい所に作られましたので戦国時代はよく砦として使われました。この古墳が池の谷砦跡です。 

垂水城は津近辺を支配していた長野氏の城で、南側の北畠と対立していました。この垂水城が最前線の城になります。池の谷砦は垂水城の出城か、北畠側が垂水城を攻めるために作った付城のようです。前方後円墳の円墳と方墳の間に堀切があると現地の案内板に書かれていましたが、ちょっと窪んでいるぐらいで、よく分かりませんね。 

ただ眺めはめちゃくちゃよく、平清盛など伊勢平氏がよく利用していた安濃津の港がすぐ下に見えますし、伊勢神宮への街道も上から見下ろせます。南側を見ると伊勢中川あたりが見渡せ、先日、行った北畠の天花寺城もバッチリ見えますね。織田信長の伊勢攻めでは長野氏は信長側についてので、まさに垂水が両軍の最前線になりました。 

宮山城址 三重県に残る小牧・長久手の合戦

miyama201210.jpg先日、久居にある宮山城址へ出かけてきました。 

敏太神社の裏手にある山城で、小牧・長久手の合戦の舞台。小牧・長久手の合戦というと愛知県の小牧、長久手だけが戦場と思っている人が多いのですが、三重県内もいろいろと戦場になっています。関ヶ原の合戦も同様で、前哨戦が津城で繰り広げられました。 

宮山城を守っていたのは木造氏。北畠氏の一族だったんですが紆余曲折があって織田信長の伊勢攻め、つまり北畠攻めに参加しています。そんな経緯もあり本能寺の変のあとは織田信雄につかえていました。 

宮山城は近くにある戸木(へき)城の北を防御するための城でした。小牧・長久手の合戦でこう着状態になったこともあり、秀吉は織田信雄の所領である伊勢攻めを行います。宮山城は蒲生氏郷によって攻められ落城しました。今度は戸木城を攻めるための付城になってしまいました。 

戸木城は165号線をはさんだ反対側、現在の戸木小学校付近にあり、高台だった宮山城からはよく見えたでしょうね。宮山城址は敏太神社の裏手を登ると5分ほどで着きます。お稲荷さんがまつられていて、周りを土塁や空堀が囲んでいて、なかなか見応えがありますね。 

天花寺城 三重の山城

tengeiji201210.jpg近鉄中川駅から大阪に向けて出発すると川を渡った左側にこんもりとした森が見えてきます。この森は丘になっていて、ここが天花寺城跡。こんな所に山城があるって、全然知らなかったのですが、今、発売されている「三重の山城ベスト50を歩く」に出ていました。 

現在でも名古屋、伊勢、大阪の分岐点になっている交通の要所ですので平安時代には既に城が作られていました。南北朝時代から伊勢国司であった北畠家が支配し、足利幕府の戦いでも天花寺城の名前が出てきます。 

地名の由来となった天華寺が城のすぐそばにあり、天平時代に作られた伽藍がありましたが、織田信長の伊勢侵攻で焼けてしまいました。現在、天華寺は丘の上に移転しています。 

道路の右手に見えているところが主郭のあるところで、藪の中に入ると堀切もしっかり残っていました。ずっと奥に進むと虎口もあり、なかなか見応えがあります。虎口というのは城の入口で、防御の要になるところです。と言っても藪の中にある単なる土の山なんですが(笑)写真を撮りましたが、単なる藪としか見えません。やっぱり現地で見るに限ります。 

現在、道路になっているところも郭があったのですが、すっかり破壊されてしまいました。丘上からの眺めはよく、久居や伊勢湾がよく見えます。反対側は山が連なり、北畠の本拠地である多気につながりますので織田信長との戦いでは最前線になりました。 

羽津城跡

hanedusiro201207.jpg津から名古屋へ向かう途中、近鉄四日市駅を超えて2駅目の阿倉川駅を超えたところで電車は小さな切通しのような所を通ります。電車の上に2つ橋がかかっていて森のような雰囲気。ネットで調べると城跡ということで、昨日、理論研修前に出かけてきました。

普通電車しか止まらない阿倉川駅から歩いて5分ほどのところにあります。小さな公園になっていて、お年寄りがゲートボールをやっていました。この
小さな公園が羽津城の本丸跡で碑が建っています。今でも土塁跡が残っていますが本丸の真ん中を近鉄が分断してしまっています。なんとも残念ですね。

藤原秀郷という、ムカデを退治した俵藤太という俗名の方が有名な武士がいて、この子孫である藤原盛宗が建てた城です。いわゆる伊勢赤堀氏で、もともとは、上野国赤堀庄の出身。

足利尊氏から鈴鹿の地頭職をまかされて伊勢に赴任しました。他に赤堀城や浜田城を兄弟が守っていました。赤堀城は住宅街の中に碑だけが残っていま
す。浜田城は近鉄四日市駅のすぐ近くにある鵜の森公園にあり、鵜森神社の周囲3ケ所に土塁が残っています。四日市の人間でも城跡が残っていることを知らな
い人が多いですね。

浜田城(四日市)

hamada201109.jpg四日市駅のすぐ近くにあるのが鵜の森公園。すぐ近くを近鉄内部線・西日野線が走っています。日本で現役で走っているナローゲージで、他には桑名から出ている三岐鉄道北勢線しかありません。

鵜の森公園の中に少し高くなって森になっているところがあり、中にあるのが鵜森神社。この神社、戦国時代は城でした。

戦国時代の城なので江戸時代の天守閣があるような城ではなく周りを土塁で囲んだ簡易な城でした。浜田城という名前で城主は浜田氏。すぐ近くにある
赤堀城主・赤堀氏の一族です。浜田氏は街道を城の東に移し替え、市を立てて四日市の基礎を築きました。城は織田信長の伊勢攻めで滝川一益に攻められ落城
し、廃城となりました。

とは言いながら神社を囲むように北、東、西に土塁が残っています。「私有地につき立入禁止」とあるだけなので土塁と気づいていない人も多いのですが、都会の中に戦国時代の城の遺構が残っているのは珍しいですねえ。

楠城

専門家派遣というコンサルタントを派遣する制度が支援センターにあるのですが、今日は現場へ行って専門家が行っている支援の様子をチャックしてこいと要請があり、企業さんへ行ってきました。

もっとも単なるオブザーバーなんで、黙って見ているだけです。自分でコンサルティングしている方がよっぽど楽ですねえ。

kusu201006221.jpg

場所は四日市の南になる楠町というとこなんですが、近くに楠城があると案内があり行ってきました。川に囲まれ、また昔は海が現在の近鉄線路ぐらいにあり要害の地にあった平城でした。今は碑が残っているだけです。築城は南北朝時代で、最初は信濃の諏訪一族がやがて楠木正成の子孫である楠一族が引継ました。楠町と言う名前はこの楠から来ているそうです。

kusu201006222.jpg

城は小牧・長久手の戦いの時に秀吉に攻められて落城しています。

戦国の城 渋見城

1日中小企業庁が行われた三重県総合文化センターの裏にはあまり知られていませんが戦国の城「上津部田城」があります。郭が一つ残っているだけですが土塁や堀跡が残っていて、なかなか見応えがあります。ただ案内も何もないので、知る人ぞ知る城になっています。

sibumi1.jpg

すぐ近くに峯治城があったのですが、こっちは完全に破壊されて今はマンションになっています。また三重県総合文化センターから少し行くと三重テレビやFM三重があるのですが、この近くにあったのが渋見城です。津を支配していた工藤氏の城で、織田信長の伊勢侵攻に備えて作られました。

sibumi2.jpg伊勢侵攻では織田信包の軍に包囲され破れました。ちょっと昔の写真を見ると堀跡なども残っていたようですが、今は住宅地になって完全に破壊されています。公園があって碑だけが残っています。

津にある戦国のお城跡(上津部田城)

今日は津駅から少し山手に入った三重県総合文化センターに行ってきました。
三重県総合文化センターは県文(けんぶん)と略称で呼ばれており、文化会館、生涯学習センター 、男女共同参画センター、三重県立図書館、放送大学三重学習センターからなる複合施設で、えらく近代的な建物です。
私も最近まで知らなかったのですが県文の横に戦国時代のお城跡が残っています。少し時間があったので、男女共同参画センターの奥にある上津部田城を見てきました。 男女共同参画センターから遊歩道を進んでいくと下り坂があります。これが堀跡です。土塁を登ると主郭のあったところで、ここが城の中心でした。
虎口には門も築かれていました。主郭の周りには土塁が築かれ、周りは空堀になっています。誰が城主だったかは分かっていませんが、築かれたのは戦国時代ですので、信長の伊勢侵攻の舞台になったかもしれません。 <発掘後、整備され建物跡には柱の位置や井戸を復元されています。それにしても近代的な建物の横に、こんな戦国時代の城が残っているんですね。