増田氏城のすぐ隣にあるのが知高左衛門城。
知高氏によって造られたとありますが、よく分かっていません。増田氏城と山道を隔てた本当にお隣さんなんで、万が一の時には共同で事に当たったのでしょう。こちらは単郭ですので弟分のような存在だったかもしれません。
竹藪のなかに10mほどの高さの土塁がそびえています。
カテゴリー: 三重県の山城
伊賀増田氏城
前田城(安濃)
金ケ原城(菰野)
南北朝時代の忠臣のお城 千草城
菰野にあるのが千草城
住宅街の中の丘の上にあるお城で、公園として整備されていて藪もなく、とても見やすい城になっています。東へ張り出した丘陵に千草城は築かれていて、東西二郭があり、虎口には空堀と土橋が残っています。特に見事なのが西へ続く尾根を断ち切った大空堀です。
■三木一草
千草城は南北朝時代に千種顕経によって築かれたと伝わっています。千種忠顕という後醍醐天皇に仕えた公家がいて、後醍醐天皇が隠岐に流された時にもついていきました。後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、伯耆の名和長年を頼り、船上山で挙兵をします。
これが鎌倉幕府の討幕へと進んでいきます。足利尊氏とともに六波羅攻めにも加わっています。南北朝に分かれてからは南朝方で戦い討死しています。千種忠顕は楠木正成、名和長年、結城親光と共に、「三木一草」と称されています。
■千草城
三重郡を領していた時は禅林寺城を居城としていましたが、子供の顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったようです。数代たった千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていたと言われています。
最後の千草氏は千草顕理で織田信雄、秀吉、秀頼に仕え、大坂夏の陣で討死し千草氏が滅び、この時に千種城も廃城になったようです。
菰野城
安濃・二子城
安濃・連部城
今徳城から少し行った穴倉川沿いに連部(つらべ)城があります。
連部城について三国地志には織田信包(信長の弟)が戸木城攻めのため家所帯刀に築かせたとあります。また勢陽五鈴遺響には秀吉が木造城を攻めるために築かせたと記録されています。
石田三成と同じ五奉行の一人が長束正家で水口岡山城主でした。関ケ原の合戦では三成側でしたので戦のあとに自決しています。この長束正家の陣代に家所帯刀がおり、関ケ原の合戦前の伏見城攻めに加わっています。
安濃には家所城があるので、家所帯刀はもともと安濃の出身かもしれません。いずれにしても久居にある戸木城、木造城は、かなり離れていますので戸木城攻めというのはどうでしょうかね。
連部城には土塁を伴った広い郭があり、よく整備されていて藪もありません。これはありがたいですね。また大きな堀切があります。
安濃・今徳城
安濃城塞群の一つが今徳城。
今徳城は安濃町今徳にあります。南光寺境内の裏側に今徳城跡の碑がありますが、実際の城は南光寺東側の小さな道を100mほど入ったマンション横の藪の中にあります。藪に入ると二重になった土塁や堀切が残っています。
今徳城は北畠氏の家臣・奥平平太夫貞兼が築城したと伝わっています。子孫の奥平常陸加介は剛の者としられ、織田軍の伊勢侵攻で織田信包の攻撃にも耐えて落城しなかったと伝わっていますが、規模の小さな平城ですので、本当かどうかは分かりません。木造氏が北畠氏から離反した時、信長側が小森上野城をおさえ、津田一安らが今徳城をおさえました。
北畠家は織田家と和睦し、織田信雄が養子として入りますが、奥平常陸加介は織田信雄に属することになります。この後、北畠を殲滅するために織田信雄が三瀬御所を攻める時には病気と行って加わらず今徳に戻ったとあります。関ケ原の合戦の前哨戦として美濃で竹鼻城の戦いが行われましたがこの美濃竹鼻の陣で戦死したようです。南光寺には供養塔が建っています。