鬼ケ城城

鬼ケ城城
鬼ケ城城

熊野にある世界遺産「鬼ヶ城」。荒波によって削られた海蝕洞が織りなす海岸線で公園になっており日本最古の神社といわれる花窟神社と並んで熊野の観光地となっています。

この鬼ケ城の駐車場から頂上へ登る道があり、ひたすら登ると頂上に山城があります。1521年に熊野一帯を支配していた有馬和泉守忠親が築いた隠居城で主郭跡などが残っており、端の郭からは熊野灘が一望できます。連郭式山城で、主郭から北へ伸びた尾根は熊野古道・松本峠に続き3本の堀切跡も残っていました。公園になっているので、きれいに整備されています。

有馬氏は熊野大神に奉仕した熊野別当家の出と言われ、有馬町が本貫となります。有馬氏の勢力が堕ちた頃に新宮の堀内安房守氏虎に攻め込まれましたが、やがて和睦し、堀内氏が新宮と熊野を支配することになります。堀内氏は熊野水軍の将でもあり、織田家、豊臣家に仕えましたが関ケ原の戦いでは西軍に組したため領地は没収されました。敗戦後は加藤清正に仕え熊本に移ったようです。

柿城

柿城
柿城

JR朝日駅のすぐ近くの高台にあるのが柿城跡。東芝三重工場の近くです。古い写真を見ると藪の中に主郭が残っていたようですが、その後、一帯は住宅地として開発されました。渋見砦公園はきれいさっぱりと城跡がなくなり公園名でしか残っていませんが柿城は主郭が公園になって残っています。 

公園設備が置かれていますが周りには土塁などが残っています。住宅地の中によく城跡を残してくれました。柿城には二の丸などもありましたが、こちらは住宅建設に伴って消失してしまいました。柿城跡からは東海道や伊勢湾を眺めることができます。 

伊勢名勝志によると柿城は佐脇宗政が1360年に築いた城で、佐脇氏は室町幕府の奉公衆でした。本貫は三河国佐脇郷のようです。1557年に柿城主だった佐脇宗喜が近江・六角氏の命を受けた小倉三河守に攻め滅ぼされたと案内板に書いてありました。

梅戸城

梅戸城
梅戸城

三岐鉄道北勢線・大安駅を南に行った線路沿いに光蓮禅寺があります。広大な伽藍は信長の伊勢侵攻で焼けたようですが、1583年に伊勢の滝川一益を攻めた秀吉が境内に陣を張り、門前に「軍勢押入乱妨之事」という制札を建てたと伝わっています。

光蓮禅寺の裏手にある山の頂上にあったのが梅戸城です。ハイキングコースになっていて楽に登れ、郭跡は光蓮寺山公園になっています。梅戸城はいつ作られた分かりませんが、城主は梅戸高実だったようです。梅戸氏は北勢四十八家の一家で、南近江守護だった六角定頼の弟が梅戸氏の養子となり梅戸高実となりました。六角氏が伊勢へ攻め込むための橋頭保となります。

梅戸城は近江と伊勢を結ぶ八風街道をおさえるために造られ光蓮寺から南に約400メートル程離れた場所に、通行税を徴収した関所があったそうです。この関所も信長の伊勢攻めで焼失しました。梅戸高実の後は次男・実秀が家督を継ぎましたが永禄11年(1568年)に織田信長に攻められて滅亡したという説と朝明郡に領地をもらったという説もあります。

大井田城

大井田城
大井田城

三岐鉄道北勢線・大安駅のすぐ近くにあるのが大井田城です。

山城には珍しく石碑と案内板があり、案内版には「員弁雑志」に栗田左衛門佐の居城であったと書かれていて1473年頃に美濃の斉藤氏が攻め寄せた時、北伊勢衆が1ヶ月余りにわたって防戦したそうです。栗田家は北勢四十八家の一つで伊勢朝日駅近くの縄生城主でしたから距離的に少し離れています。家老の因入道道信が城主だったのかもしれません。いずれにしても織田信長の伊勢侵攻でえらい目にあったのでしょう。

大井田城は主郭などいくつもの郭があるんですが、すごいのは土塁で囲まれた方形区画群で約40もあります。近くにある保々西城にも方形区画群があるんですが、それ以上です。家臣団の屋敷とも考えられますが規模がすごく、小領主や土豪のレベルを超えていて不思議な城です。

大井戸城は貴重な城跡ですが、真ん中に道路を通してしまってその名も「城山通り」となっています。道の両側の藪の中に方形区画群がありますので、もっとあったのでしょう。ただ地元の人が反対したようで主郭などはしっかり残されていて主郭は梅林公園として整備されています。他の郭は藪の中ですが井戸跡などがしっかり残っていました。

伊勢治田城

伊勢治田城
伊勢治田城

北勢地域は小規模の城主・豪族が集まっており、北勢四十八家と呼ばれています。 

北勢四十八家・治田氏の城が伊勢治田城。近江と伊勢・尾張を結ぶ八風街道に近くにあります。濃州街道もすぐ近くにあり、織田信長が北伊勢を攻略する時に軍勢を通すために街道を整備したといわれています。 

伊勢治田城の歴史はよく分かっておらず治田五兵衛が築き、息子である治田山城守が城主だったという説と楠七郎左衛門正具が築いた説もあります。ただ治田氏は楠氏の一族だったようです。伊勢治田城は織田信長の伊勢攻めで攻め落とされました。 

山城は郭がつながる連郭式が多いのですが、伊勢治田城は梯郭式に近い形で主郭へは、いくつもの郭を巡らないとたどりつけないようになっています。郭と郭のつなぎ目は技巧的に守れるように工夫されています。一番、高い主郭には天守台のような高まりがありましたが櫓が建っていたかもしれません。

宿野城(菰野)

宿野城
宿野城

【宿野城】
桑名、員弁、朝明、三重郡の北勢地域は北勢四十八家が群雄割拠する地域でした。四十八家の盟主だったのが千草氏で菰野に千草城を構え、近くの千草神社が出城になっています。

戦国時代、近江の六角氏が北勢へ侵入し、その後、信長の伊勢侵攻がはじまり滝川一益が北勢を支配することになります。北勢にはたくさんの城がありましたが菰野駅近くには力尾城のほか宿野西城、宿野城、福村館(消滅)がありました。

というわけで宿野城へ行ってきました。誰が造った城なのかは伝わっていませんが北勢四十八家のどこかと関係していたはずです。入口は藪になっていますが、そこを抜ければ竹藪の中を進むことができます。スーツ姿で登るのはあまりおすすめできませんねえ。城跡はちょっとわかりにくかったのですが土塁や堀切などがありました。

【巡見街道】
宿野城からは巡見街道を見下ろすことができます。巡見街道とは江戸時代に幕府の巡見使が通った道で三重県では亀山市で東海道から分かれて中仙道にまで続いていました。江戸時代以前から街道として使われていましたので、宿野城はこの街道を監視するための城で、反対側にある宿野西城と共に街道をおさえていたようです。

力尾城(菰野)

見性寺
見性寺(菰野)

【力尾城】
菰野駅のすぐ近くに見性寺があり、この見性寺の裏山にあるのが力尾城です。裏山には八十八ケ所巡りがあり、階段があって城跡まで楽に登ることができます。墓などに改変されているのでよく分かりませんが、一番上まで登ると土塁や帯郭跡などがありました。藪もないので夏でも大丈夫です。

【家康暗殺計画】
力尾城を築いたのが土方雄久という武将で、土方雄久は織田信雄に仕え、小田原征伐後に信雄が改易された後は豊臣秀吉に仕えました。秀吉亡きあとは秀頼、そして家康にも仕え、激戦の戦国時代に家名を全うした武将です。

土方雄久は家康暗殺計画で有名です。関ケ原合戦前に石田三成襲撃事件など権力争いが起きますが、その一つが家康暗殺計画。大河ドラマ「真田丸」でも描かれていました。前田利長を追い落とすために家康と本多正信が謀略を働いたのが通説です。結局、前田利長は生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として送ることになります。

家康暗殺計画の首謀者として前田利長と共に名前があがったのが、浅野長政、大野治長、土方雄久です。土方雄久は大野治長と共に水戸・佐竹義宣のもとへ追放となってしまいました。土方雄久と前田利長は従兄弟だったという説があり本当だったかもしれません。結局、家康の上杉征伐の時に許されて復帰しています。

【菰野藩】
土方雄久は織田信雄が北伊勢を支配していた時代に力尾城を造りました。長男が土方雄氏で、菰野藩の初代藩主となります。力尾城では手狭だったのか新たに菰野陣屋と城下町を整備し、菰野陣屋の跡地は菰野小学校になっています。土方家は明治維新まで12代続き、見性寺には歴代の菰野藩主の墓があります。ここも郭のようでした。

日永城(登城山)

日永城(登城山)
日永城(登城山)

西日野(四日市)にあるポリテクセンター三重で「インシデントと情報セキュリティの必要性」というセミナーを行ってきました。前回、ポリテクセンター三重へ行った時に見つけたのが登城山という地名。城山と名前がついている所には昔、山城がありました。

というわけで午前中でセミナーが終わったので登城山へ登ってきました。さすがに山城の遺構は残っていませんでしたが眺めはいいですねえ。

【日永城】
登城山には鎌倉時代に日永城があり、三日平氏の乱に関係していました。平氏は源義経に破れ壇ノ浦で滅亡しますが残党は残っています。平清盛は伊勢平氏出身ですので、伊勢や伊賀には残党がたくさんいました。この残党が源氏の世になってから鎌倉幕府と戦いましたが三日で鎮圧されたので三日平氏の乱という名前がついています。日永城に日永楯三郎を守っていましたが、この時に落城したようです。三日平氏の乱の舞台となった西坂部城、高角城、松本城、冨田館、関町久我、若菜城も落城します。そうそうアピタ横の四日市市立博物館には三日平氏の乱の展示があったんですが、リニューアルで無くなってしまいました。残念。

【登城山は旗振山】
眺めがよい登城山は旗振山でもありました。旗振山とは江戸時代から明治にかけて堂島の米相場を全国に伝えるために張り巡らされた旗振り通信で旗を振った山のことです。大阪から広島までわずか27分で伝達されています。

神戸城の大手門

神戸城の大手門

■織田信長のM&A戦略
織田信長は桶狭間の合戦で今川義元を破り尾張の足元を固めてから、隣国へ打って出ます。美濃平定の前後から、併行して伊勢侵攻をはじめますが、まだまだ経営資源が乏しい織田軍が伊勢でとった戦略がM&A戦略。伊勢国には北畠氏や関氏につながる名族が多かったため婿養子として入り込み、事業承継してから最終的に家を乗っ取る作戦です。

北畠氏ー織田信雄(2男)
長野市ー織田信包(信長の弟)
神戸氏-織田信孝(3男)
3氏族に入り込み乗っ取りました。

鈴鹿にあったのが神戸城で神戸氏の居城でした。神戸氏は滝川一益の侵攻に対して戦いましたが最終的には和睦し織田信長の3男神戸信孝を養子に迎え入れます。神戸信孝は城を修築し5重6階の天守を築きました。織田信包の津城、織田信雄の田丸城と伊勢では大きな天守をもった城が3つもそびえることになります。

■神戸城の大手門
神戸城は石垣と郭跡だけとなり遺構は残っていませんが大手門は四日市の西日野町にある顕正寺に移築されています。ポリテクセンター四日市が西日野にあるのですが、仕事のついでに顕正寺まで足を延ばして見てきました。大手門は顕正寺の山門として利用され、高麗門になっていますが織田信孝の時代ではなく江戸時代に神戸城を居城とした本多氏のものになります。

正法寺山荘(砦)

正法寺山荘(砦)

関に羽黒山という大きな岩だらけの山があり、この山の麓の開けた所に正法寺山荘があります。山荘といいながら戦国時代は砦でした。小野川が大きく迂回して3方向を流れ、天然の濠となっており、要害の地に正法寺山荘が造られます。

正法寺山荘を造ったのは亀山城主の関盛貞。奥さんが日野城主・蒲生定秀の娘で六角氏に属していました。関から鈴鹿山脈を超えれば日野はすぐ近くでした。関氏は平家を祖とし家紋も揚羽蝶。関氏は神戸城、国府城、峯城、鹿伏兎と鈴鹿川一帯を支配していた土豪で地名をとって関氏を名乗ります。

■正法寺山荘
もともとは京都大徳寺の末寺として正法寺をこの地に創建し、関氏の寺と別荘を兼ねている土地でしたが、織田信長の伊勢侵攻のため砦として整備され、今も土塁、切岸、井戸跡などが残っています。国指定史跡になっていますが、単なる開けた場所なので城好きでもなければ、そう楽しめるところでもありません。平和な時期は連歌師宗長などがたびたび訪れ、歌会が開催されていました。

関氏は結局、織田信長に降参し、秀吉時代も家を守ります。賤ヶ岳の戦いでは居城である亀山城(古城)を滝川一益に落とされますが、秀吉軍による奪還戦が始まり、大河ドラマ「功名が辻」では武田鉄矢演じる五藤吉兵衛がこの攻防戦で戦死します。秀吉側が無事に奪還し、関一政が城主となり、松阪にいる蒲生氏郷の与力となります。