神戸城の大手門

神戸城の大手門

■織田信長のM&A戦略
織田信長は桶狭間の合戦で今川義元を破り尾張の足元を固めてから、隣国へ打って出ます。美濃平定の前後から、併行して伊勢侵攻をはじめますが、まだまだ経営資源が乏しい織田軍が伊勢でとった戦略がM&A戦略。伊勢国には北畠氏や関氏につながる名族が多かったため婿養子として入り込み、事業承継してから最終的に家を乗っ取る作戦です。

北畠氏ー織田信雄(2男)
長野市ー織田信包(信長の弟)
神戸氏-織田信孝(3男)
3氏族に入り込み乗っ取りました。

鈴鹿にあったのが神戸城で神戸氏の居城でした。神戸氏は滝川一益の侵攻に対して戦いましたが最終的には和睦し織田信長の3男神戸信孝を養子に迎え入れます。神戸信孝は城を修築し5重6階の天守を築きました。織田信包の津城、織田信雄の田丸城と伊勢では大きな天守をもった城が3つもそびえることになります。

■神戸城の大手門
神戸城は石垣と郭跡だけとなり遺構は残っていませんが大手門は四日市の西日野町にある顕正寺に移築されています。ポリテクセンター四日市が西日野にあるのですが、仕事のついでに顕正寺まで足を延ばして見てきました。大手門は顕正寺の山門として利用され、高麗門になっていますが織田信孝の時代ではなく江戸時代に神戸城を居城とした本多氏のものになります。

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