藤ケ森城(安濃)

藤ケ森城(安濃)
津で午前中にセミナーの仕事が終わったので、もちろん午後の予定は何も入れず、城巡りです(笑)。
安濃には伊賀の国人領主のように城塞が密集しているところがあります。まず目指すのは藤ケ森城。標高30メートルほどの丘の上にあります。坂道を上るとすぐに主郭の中へ入ることができます。整備されていて藪が少ないのがいいですねえ。主郭は楕円形で、けっこう広く単郭になっています。近くにある浄土寺城、今徳城、連部城を見渡すことができます。
藤ケ森城を誰が造ったのか城主が誰だったのか分かりません。秀吉の家来の砦という説もあります。ちょっと行ったところに伊勢国で最大の城だった安濃城があり、長野氏一族だった細野藤敦が信長に敵対していました。安濃城は信長の伊勢攻めの舞台となったところで、藤ケ森城は位置からいくと安濃城攻めのための付城だったかもしれません。

津城の総構え跡?

津城 総構え
復刻された江戸時代の津城下絵図をもっているのですが津城の北側、塔世橋近くに小さな堀があります。津城には内堀と外濠があり、惣構えにしては中途半端で、しかも当時の市街地の中を通っています。
どうも藤堂高虎が縄張りした時は観音寺の裏から安濃川の支流である桜川の小流につないで、城下の最も外側の守りとする計画、つまり惣構えがあったようです。ですが豊臣家が滅んでしまい計画を途中で放棄したんですかねえ。東の丸も整備しませんでした。やがて江戸時代がすすむうちに、高虎時代の惣構えを超えて市街地が大きくなったのでしょう。
現地には小さな水路が残っています。場所は国民生活金融公庫の東側ですが、ただ水路は途中で観音寺に向かって南に折れないといけないのですが、まっすぐ東側に進んでいます。国道23号線をはさんだ反対側に料亭「桜水楼」がありました。名前の通りに見事な桜が春になると咲き、国道23号線に花びらが積もっていました。
今は更地になって朝日屋の駐車場になっています。藤堂藩の時代は桜川が流れていたので、そこから名前をとったかもしれません。

浜田城の冠木門

浜田城の冠木門
近鉄四日市駅のすぐ横にあるのが浜田城跡。
県内では一番大きな町である四日市。都会のど真ん中に城跡が残っているのは奇跡的ですね。主郭跡には鵜森神社が建っており、周囲を土塁が巡っています。昨日、リーディング産業展へ行くついでに久しぶりに浜田城へ寄ると冠木門が復元されていました。
浜田城は北勢地域を納める赤堀三家(赤堀氏・浜田氏・羽津氏)の城です。藤原氏の系統で先祖には百足退治で有名な藤原秀郷がいます。本貫は上野国赤堀郷で、四日市へ移ってから三家に分かれました。この赤堀氏が三滝川の南側の辻で毎月4が付く日に市場を開いたことから四日市の地名となります。
赤堀氏は織田信長の伊勢攻めで滝川一益軍に破れ天正3年(1775年)に赤堀城と浜田城が落城します。浜田氏の跡取りは逃げて、後に織田信雄に従いますが、小牧長久手の合戦で戦死してしまい、ここで断絶します。一時期、滝川一益の娘婿で木造氏だった滝川勝利が浜田城の城主を勤めていましたが、小牧長久手の合戦の後、廃城となりました。
 

Googleマップで発掘中の伊坂城を発見


伊坂城
こう暑いと山城なんかには行けませんので、Googleマップで山城を楽しんでいます。早く秋にならないかなあ。
Googleマップで楽しむと言いましても大概の山城は、木々や藪に囲まれていますので、上空から見ても単なる山にしかすぎません。ところが、はっきり山城が映っているのがありました。それが伊坂城!
今は新名神の工事が終わってしまい城の半分が失われてしまいましたが、Googleマップがとらえていたのはちょうど新名神道路の工事前に発掘調査が行われていたときの伊坂城でした。土塁がめぐる主郭や堀跡などが、きれいに映っています。
Googleマップは城探しに使えますなあ!

蒲生氏郷が築いた松坂城

松阪城
昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング 

伊坂城


新名神道路の工事前に発掘調査が行われた山城です。 発売中の「季刊考古学 第139号 特集 戦国城郭の考古学」にも伊坂城が載っていました。
城がある大矢知周辺は大矢知そうめんが有名で、近江とは八風街道で結ばれた交通の要所です。発掘調査では堀底道、郭、高さ6メートル以上の巨大な櫓門跡などが見つかっています。伊坂城は信長の北伊勢攻めで攻め落とされ伊坂氏は滅亡したと言われていますが、織田信雄の家来衆に伊坂氏がいますので、どうも信長に降伏したようです。
新名神の開通で城跡の半分ほどは破壊されましたが、郭や土塁跡は残っているという情報を見つけたので専門家派遣のついでに寄ってきました。
登山道の途中から竹藪に入り帯郭や土塁を見ることができます。一番高い主郭を目指しますが到達できそうな道はなく途中で断念。竹藪だらけでスーツ姿で行くのはオススメしません。
郭と郭の間を歩いていくと新名神のフェンスにぶつかりました。この先にあった郭などは工事で破壊されたようです。500年も残った遺跡なのに破壊はもったいないなあ。

中野城

中野城
三岐鉄道の保々駅近くにあったのが中野城。
土塁跡が一部だけ残っていますが、周りは住宅地で、少し高台になっています。城主は赤堀秀基で赤堀村から中野村へ移り中野氏を称したとありますが、ここらへんは伊勢朝倉氏の支配地でしたので、本当のところは分かりません。
織田信長は美濃攻略とともに北伊勢侵攻をはじめ、この方面は滝川一益が担当していました。保々西城、市場城ともども落城した模様です。
中野氏の元である赤堀氏の本貫は上野国赤堀郷で、祖先は平将門を破った藤原秀郷(俵藤太)です。

市場城

市場城
保々西城の支城だったのが市場城で朝倉氏の城です。朝倉氏といえば信長と戦った越前の朝倉義景が有名ですが伊勢朝倉氏はこの越前朝倉氏の分家だという説もあります。よく分かっていません。
市場城は、朝明川に面した南側が崖となった河岸段丘に築かれている城です。市場地区の公会堂裏手に竹藪が広がっていて、この竹藪の中に市場城があります。なかなか城の入口が分からなかったのですが、ようやく竹藪の中に虎口を見つけました。土橋がかかっていて空堀と高さ8メートルほどはある土塁がめぐっています。主郭は保々西城と同じような縄張になっています。 写真は主郭から見た虎口の様子です。見事な折れですねえ。
保々西城と同様に信長の伊勢攻めで落城した模様です。丘城なのでスーツ姿で大丈夫ですが主郭の中は竹藪だらけですので中に入るにはご注意ください。

保々西城

保々西城
専門家派遣の依頼で最初は断ったのですが支援先が三岐鉄道に乗って行くところでしたので思わず快諾。
というわけで専門家派遣の合間をぬって三岐鉄道に乗り保々西城へ行ってきました。北勢中央公園の一角に城があるのですが現地に着いても案内版も何もなし。公園関係者に聞くと野球場のボードの裏側から城に入る道があることを聞き、いざ潜入。城の碑もありました。
郭の土塁や虎口だけでなく城の前に拡がる屋敷跡の土塁も見事に残っていました。保々西城は丘城ですのでスーツ姿でも大丈夫です。これで雨さえ降ってなければよかったのですが...。
保々西城を造ったのは茂福城主である朝倉備前守。織田信長が伊勢侵攻してきた時に滝川一益の攻撃を受け落城、朝倉氏は滅亡します。

田城城跡

田城城
近鉄志摩線の加茂駅からちょっと行ったところにあるのが田城城跡。
九鬼岩倉神社前という交差点のすぐ近くにこんもりとした丘があり、ここが城跡です。城跡は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵にあり、急峻な崖になっています。主郭跡には九鬼岩倉神社があって、祭神は九鬼澄隆です。
織田信長と石山本願寺が戦った第一次木津川口の合戦では毛利水軍&村上水軍に敗れます。信長の命で九鬼嘉隆が6隻の鉄甲船を伊勢で作り、第二次木津川口の戦いで毛利水軍に勝って制海権を握ります。
この九鬼嘉隆の祖父が九鬼泰隆で、田城城で北畠氏に従い二見七郷と加茂五郷を支配していました。九鬼嘉隆の兄である九鬼浄隆が家督を継いだ頃は北畠や志摩七党と敵対していました。九鬼嘉隆は滝川一益を介して織田信長に接近し、北畠攻めにも参加、志摩七党も破り、田城城を取り戻します。
その後、いろいろと一族の争いがあったようで九鬼嘉隆が兄の子である九鬼澄隆を暗殺し、その後、この城は廃城となりました。九鬼嘉隆は鳥羽城を居城にします。九鬼嘉隆の子である九鬼守隆が重病になった時に澄隆に関するうわごとを言ったため、九鬼澄隆を祀る神社が城跡にできました。