昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング
カテゴリー: 三重県の山城
伊坂城
新名神道路の工事前に発掘調査が行われた山城です。 発売中の「季刊考古学 第139号 特集 戦国城郭の考古学」にも伊坂城が載っていました。
城がある大矢知周辺は大矢知そうめんが有名で、近江とは八風街道で結ばれた交通の要所です。発掘調査では堀底道、郭、高さ6メートル以上の巨大な櫓門跡などが見つかっています。伊坂城は信長の北伊勢攻めで攻め落とされ伊坂氏は滅亡したと言われていますが、織田信雄の家来衆に伊坂氏がいますので、どうも信長に降伏したようです。
新名神の開通で城跡の半分ほどは破壊されましたが、郭や土塁跡は残っているという情報を見つけたので専門家派遣のついでに寄ってきました。
登山道の途中から竹藪に入り帯郭や土塁を見ることができます。一番高い主郭を目指しますが到達できそうな道はなく途中で断念。竹藪だらけでスーツ姿で行くのはオススメしません。
郭と郭の間を歩いていくと新名神のフェンスにぶつかりました。この先にあった郭などは工事で破壊されたようです。500年も残った遺跡なのに破壊はもったいないなあ。
中野城
市場城
保々西城の支城だったのが市場城で朝倉氏の城です。朝倉氏といえば信長と戦った越前の朝倉義景が有名ですが伊勢朝倉氏はこの越前朝倉氏の分家だという説もあります。よく分かっていません。
市場城は、朝明川に面した南側が崖となった河岸段丘に築かれている城です。市場地区の公会堂裏手に竹藪が広がっていて、この竹藪の中に市場城があります。なかなか城の入口が分からなかったのですが、ようやく竹藪の中に虎口を見つけました。土橋がかかっていて空堀と高さ8メートルほどはある土塁がめぐっています。主郭は保々西城と同じような縄張になっています。 写真は主郭から見た虎口の様子です。見事な折れですねえ。
保々西城と同様に信長の伊勢攻めで落城した模様です。丘城なのでスーツ姿で大丈夫ですが主郭の中は竹藪だらけですので中に入るにはご注意ください。
保々西城
専門家派遣の依頼で最初は断ったのですが支援先が三岐鉄道に乗って行くところでしたので思わず快諾。
というわけで専門家派遣の合間をぬって三岐鉄道に乗り保々西城へ行ってきました。北勢中央公園の一角に城があるのですが現地に着いても案内版も何もなし。公園関係者に聞くと野球場のボードの裏側から城に入る道があることを聞き、いざ潜入。城の碑もありました。
郭の土塁や虎口だけでなく城の前に拡がる屋敷跡の土塁も見事に残っていました。保々西城は丘城ですのでスーツ姿でも大丈夫です。これで雨さえ降ってなければよかったのですが...。
保々西城を造ったのは茂福城主である朝倉備前守。織田信長が伊勢侵攻してきた時に滝川一益の攻撃を受け落城、朝倉氏は滅亡します。
田城城跡
近鉄志摩線の加茂駅からちょっと行ったところにあるのが田城城跡。
九鬼岩倉神社前という交差点のすぐ近くにこんもりとした丘があり、ここが城跡です。城跡は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵にあり、急峻な崖になっています。主郭跡には九鬼岩倉神社があって、祭神は九鬼澄隆です。
織田信長と石山本願寺が戦った第一次木津川口の合戦では毛利水軍&村上水軍に敗れます。信長の命で九鬼嘉隆が6隻の鉄甲船を伊勢で作り、第二次木津川口の戦いで毛利水軍に勝って制海権を握ります。
この九鬼嘉隆の祖父が九鬼泰隆で、田城城で北畠氏に従い二見七郷と加茂五郷を支配していました。九鬼嘉隆の兄である九鬼浄隆が家督を継いだ頃は北畠や志摩七党と敵対していました。九鬼嘉隆は滝川一益を介して織田信長に接近し、北畠攻めにも参加、志摩七党も破り、田城城を取り戻します。
その後、いろいろと一族の争いがあったようで九鬼嘉隆が兄の子である九鬼澄隆を暗殺し、その後、この城は廃城となりました。九鬼嘉隆は鳥羽城を居城にします。九鬼嘉隆の子である九鬼守隆が重病になった時に澄隆に関するうわごとを言ったため、九鬼澄隆を祀る神社が城跡にできました。
主郭にある青いプラスチックの主
伊賀の山城などへ行くと、ほとんど藪という時があり、藪をはらいながら土塁の高まりを見つけ、郭を探します。”これが主郭かな”と迷う時に目印になるのが青いプラスチック板。これで主郭だと分かります。
先週、中日新聞・三重版「うちのレジェンド」を見ていたら、この青いプラスチックの主が出ていました。10年ほど前、「三重の中世城郭」という本を図書館で見つけて研究を始めたことから県内の山城巡りをはじめ、訪れた城跡は850を超えると言う記事です。
御年、81歳の松本薫さんという人物で登った山城には青いプラスチックの名板を掲げてきたそうです。伊賀の山城などで見つけた青いプラスチック板は、この人がつけたんですね。それにしても三重県内には850も城があるんだあ。毎日登っても2年以上かかりますなあ。
蒔田城
茂福城
茂福で「もちぶく」とよみます。
近鉄名古屋線に乗ると富田駅の手前でこんもりとした森と茂福城という文字が見えます。近鉄に乗るたびに、車窓から城の文字が見えるのでずっと気になっていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。先日、西坂部城へ行った後に寄ってきました。富田駅から15分ほど歩いたところにあります。
北勢四十八家の朝倉氏の居城。戦国時代には近鉄の駅で2つほどしか離れていない羽津城主と戦った茂福合戦が起きています。やがて織田信長の伊勢侵攻で滝川一益によって滅ぼされてしまいました。
城郭の北西の土塁だけが残っていて石碑が建っています。近くには富田城もありましたが、こちらは跡形がなくなっています。
西坂部城
四日市商工会議所でセミナーを行ってきました。午前で終わったので、そのまま四日市郊外にある西坂部城へ。
周辺は三重団地という住宅街として開発されていますが、公園として城跡が残っています。主郭にブランコが置かれているのはご愛嬌ですが、郭跡や土塁跡がしっかり残っています。地名も城山になっており、住宅街が開発されると山城は破壊されますが、公園として残っていました。
主郭からの眺めはよく四日市の街や伊勢湾が一望できます。城の歴史は古く、源平の合戦時代に造られたと言われています。平氏が源氏に敗れ西国へ逃げますが、伊勢平氏の郷である伊勢で反乱が起きます、それが「三日平氏の乱」。この時に造られたのが西坂部城と言われています。