伊賀の山城などへ行くと、ほとんど藪という時があり、藪をはらいながら土塁の高まりを見つけ、郭を探します。”これが主郭かな”と迷う時に目印になるのが青いプラスチック板。これで主郭だと分かります。
先週、中日新聞・三重版「うちのレジェンド」を見ていたら、この青いプラスチックの主が出ていました。10年ほど前、「三重の中世城郭」という本を図書館で見つけて研究を始めたことから県内の山城巡りをはじめ、訪れた城跡は850を超えると言う記事です。
御年、81歳の松本薫さんという人物で登った山城には青いプラスチックの名板を掲げてきたそうです。伊賀の山城などで見つけた青いプラスチック板は、この人がつけたんですね。それにしても三重県内には850も城があるんだあ。毎日登っても2年以上かかりますなあ。
カテゴリー: 三重県の山城
蒔田城
茂福城
茂福で「もちぶく」とよみます。
近鉄名古屋線に乗ると富田駅の手前でこんもりとした森と茂福城という文字が見えます。近鉄に乗るたびに、車窓から城の文字が見えるのでずっと気になっていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。先日、西坂部城へ行った後に寄ってきました。富田駅から15分ほど歩いたところにあります。
北勢四十八家の朝倉氏の居城。戦国時代には近鉄の駅で2つほどしか離れていない羽津城主と戦った茂福合戦が起きています。やがて織田信長の伊勢侵攻で滝川一益によって滅ぼされてしまいました。
城郭の北西の土塁だけが残っていて石碑が建っています。近くには富田城もありましたが、こちらは跡形がなくなっています。
西坂部城
四日市商工会議所でセミナーを行ってきました。午前で終わったので、そのまま四日市郊外にある西坂部城へ。
周辺は三重団地という住宅街として開発されていますが、公園として城跡が残っています。主郭にブランコが置かれているのはご愛嬌ですが、郭跡や土塁跡がしっかり残っています。地名も城山になっており、住宅街が開発されると山城は破壊されますが、公園として残っていました。
主郭からの眺めはよく四日市の街や伊勢湾が一望できます。城の歴史は古く、源平の合戦時代に造られたと言われています。平氏が源氏に敗れ西国へ逃げますが、伊勢平氏の郷である伊勢で反乱が起きます、それが「三日平氏の乱」。この時に造られたのが西坂部城と言われています。
津の城跡50選
チャム(津駅)にある別所書店で「津の城跡50選」という本が平積になっているのを発見、思わず買ってしまいました。最近、山城がブームとなりつつあるようで、先日は「山城歩き徹底ガイド」という雑誌が店頭に並んでいました。時代は”山城”なんですねえ。(笑)
「三重の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)ぐらいの範囲にしないと、売上は期待できないはずですが、よく津というニッチなエリアで本を出したものです。編集は津観光ガイドネット・山城調査プロジェクトチーム。出版は伊藤印刷出版部で、売っているのは伊藤印刷と別所書店3店(修正店、津駅チャム店、イオン津店)、津市観光協会だけの、けっこうレアものです。津にそれほど山城好きがいるとは思えないし、採算があうのかなあ。私は買ってしまいましたが。(笑)
津市は久居市や美杉村と市町村合併したため山岳地域も増え、100以上の城跡があります。有名なのは藤堂高虎の津城や若きお江や淀君がいた伊勢上野城ですが、他にもたくさんあり、そのなかから50の城跡が紹介されています。目次を見ると20ほどは行ったことがある城跡でした。
名張城
昨日、名張商工会議所での相談が終わってから、名張の旧町をブラブラ。高台を登って名張陣屋へも行きましたが、とっくに閉館していました。戦国時代、この場所には名張城がありました。
■筒井時代の伊賀上野城
松永久秀と大和の覇権を争った筒井順慶が亡くなり、後継ぎがいなかったため一族の筒井定次が後継者になりました。大和郡山城を居城にしていましたが秀吉の弟である秀長が大和を支配するようになり、伊賀上野に国替えとなります。天正伊賀の乱が終わってから滝川雄利が作っていた砦を利用して伊賀上野城を築きます。この後、藤堂高虎が現在の伊賀上野城の縄張りにしま、筒井時代の天守台跡は今も残っています。とっても分かりにくい所にあり案内板も出ていませんので観光客は誰もいません。(笑)
■名張城
筒井定次が伊賀上野をおさめた時に重臣である松倉勝重が築いたのが名張城。藤堂高虎が伊賀をおさめるようになってから、一国一城令により廃城となります。高虎の養子だった藤堂高吉(丹羽長秀の息子)が名張を支配することになり、これが名張藤堂家でここに陣屋が作られ、現在も一部が残って公開されています。発掘調査で陣屋跡からは名張城の石垣などが発見されています。昔の堀跡などが今も旧町の水路などになっています。
スーツで登れる家所城
金曜日、午後から夜にかけてセミナーがダブルヘッダーでしたが午前中、時間が空いていたので家所城へ出かけてきました。
家所城には津新町駅から穴倉行きのバスに乗っていきます。バスは2時間に1本しかないのですが、ちょうど行って帰ってこれるバスがありました。場所は巨大干支で有名な辰水神社の近くです。
家所城は長野工藤氏の一族のお城。長野工藤氏といえば、曾我兄弟の仇討ちで、討ち取られた工藤家の子孫で、伊勢国長野の地頭職となり伊勢の国人となりました。
■信長のM&A戦略
戦国時代となり織田信長の伊勢侵攻が始まります。伊勢ではM&A戦略をとりました。神戸氏には織田信孝をおくりこみ、北畠氏には織田信雄をおくりこみます。長野工藤氏には信長の弟・信包を養嗣子とおくりこみ、乗っ取ります。
■家所城
丘に造られた城で、きれいに整備されています。入口には案内板が造られ、城の中も整備されていて、藪などはなく、とっても見やすくなっています。スーツ姿での十分です。
城を取り巻く空堀も残っています。案内版には単郭になっていますが、周囲には郭らしきところがいくつもあり、かなり大きな城になっていて、見応えがあります。
→ 動画: 家所城
津城 内堀の石垣
津市の中心市街地に百五銀行・本部棟を建設中。工事はほとんど完成し外観工事は終わっています。
工事中に見つかったのが津城・内堀の石垣。昔、ジャスコが建っていたのですが、石垣は破壊されず地下に残っていました。5メートルだけですが野面積の石垣が地上に復元されています。ちょうど内堀の石垣があったところの地上です。ほかの石垣があった位置は鉄鋲で印されています。
石垣から本丸までは60メートルほど離れており、水堀になっていました。津城を造ったのは織田信長の兄弟である織田信包。関ヶ原の戦いが終わった後、藤堂高虎が現在の縄張りに変更します。
藤堂高虎の縄張の特徴はまず広大な水堀。これは鉄砲の射程距離に対応するためです。あと城の曲輪は複雑な形にして横矢がかかるようにし防衛力を高めますが、藤堂高虎は四角にし、中に建物を建てやすく利用しやすくしました。その代わり枡形虎口を作って防衛力を補います。
これが家康の採用され、戦国末期から江戸時代に造られる城は四角形の曲輪と広大な水堀が標準形となります。
伊勢長島城
名古屋へ専門家派遣に向かう途中、長島駅で下車。
長島というとホワイトサイクロンのあるナガシマ・スパーランドがある所ですが、昔は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の河口に点在する島々で構成されていました。
輪中と呼ばれる地帯で、治水に常に悩まされ、徳川幕府が薩摩藩に三川を分流する工事を命令します。薩摩藩では多額の費用と犠牲をはらって工事を行い、これが千本松原になっています。工事を指揮した薩摩藩士平田靱負は完成後に切腹しています。
長島は伊勢湾台風でも甚大な被害をうけ、町の数カ所に棒が建てられ伊勢湾台風の水位が刻まれていました。3メートルぐらいの頭上ですので、町は完全に水底になったんですね。
■信長との戦いの舞台 長島一向一揆
戦国時代は長島を舞台に本願寺門徒と信長が戦いました。石山本願寺に呼応して決起し、結局、4年もの長期の戦いになりました。一揆といっても島の要塞を攻める攻城戦です。織田方は甚大な被害を受け、織田信長の弟や親族の多くも戦死、西美濃三人衆の一人である氏家卜全は逃げる時の殿(しんがり)となり討ち取られています。
鎮圧した後は滝川一益が居城とし、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となります。江戸時代は長島藩がおかれました。本丸跡などは小学校や中学校になっており、堀跡が水路として残っています。大手門が近くの寺に移築されて残っています。
城氏城(伊賀)
昨日、掛田城に登った時、すぐ近くに城氏城があるので、こちらにも回ろうとしましたが、なんせ正確な地図なんてないものですから、大雑把に尾根を歩いて行ったら違う尾根に出てしまい。山をさまようことになってしまいました。(笑)
城氏城は室町時代に城氏によって築かれました。天正伊賀の乱では城八太夫という名前が伝わっていますので、城主だったのでしょう。
ようやく城にたどり着いて帰る時に小道から送電鉄塔の保守道を登ると城に入れることが判明。なんとかスーツでも登れる山城です。城には長く続く堀跡が残っていて、主郭には見事な土塁が残っていました。城氏城も掛田城と同様、石垣が使われていたようで石が散乱していました。そして、主郭にはおなじみの青い札がありました。
伊賀上津駅の次の駅が青山町駅なんですが、この駅のすぐ近くにも城氏城があります。3kmほどしか離れていない同じ城氏の城ですから一族の城だったんでしょうね。