金曜日、午後から夜にかけてセミナーがダブルヘッダーでしたが午前中、時間が空いていたので家所城へ出かけてきました。
家所城には津新町駅から穴倉行きのバスに乗っていきます。バスは2時間に1本しかないのですが、ちょうど行って帰ってこれるバスがありました。場所は巨大干支で有名な辰水神社の近くです。
家所城は長野工藤氏の一族のお城。長野工藤氏といえば、曾我兄弟の仇討ちで、討ち取られた工藤家の子孫で、伊勢国長野の地頭職となり伊勢の国人となりました。
■信長のM&A戦略
戦国時代となり織田信長の伊勢侵攻が始まります。伊勢ではM&A戦略をとりました。神戸氏には織田信孝をおくりこみ、北畠氏には織田信雄をおくりこみます。長野工藤氏には信長の弟・信包を養嗣子とおくりこみ、乗っ取ります。
■家所城
丘に造られた城で、きれいに整備されています。入口には案内板が造られ、城の中も整備されていて、藪などはなく、とっても見やすくなっています。スーツ姿での十分です。
城を取り巻く空堀も残っています。案内版には単郭になっていますが、周囲には郭らしきところがいくつもあり、かなり大きな城になっていて、見応えがあります。
→ 動画: 家所城
カテゴリー: 三重県の山城
津城 内堀の石垣
津市の中心市街地に百五銀行・本部棟を建設中。工事はほとんど完成し外観工事は終わっています。
工事中に見つかったのが津城・内堀の石垣。昔、ジャスコが建っていたのですが、石垣は破壊されず地下に残っていました。5メートルだけですが野面積の石垣が地上に復元されています。ちょうど内堀の石垣があったところの地上です。ほかの石垣があった位置は鉄鋲で印されています。
石垣から本丸までは60メートルほど離れており、水堀になっていました。津城を造ったのは織田信長の兄弟である織田信包。関ヶ原の戦いが終わった後、藤堂高虎が現在の縄張りに変更します。
藤堂高虎の縄張の特徴はまず広大な水堀。これは鉄砲の射程距離に対応するためです。あと城の曲輪は複雑な形にして横矢がかかるようにし防衛力を高めますが、藤堂高虎は四角にし、中に建物を建てやすく利用しやすくしました。その代わり枡形虎口を作って防衛力を補います。
これが家康の採用され、戦国末期から江戸時代に造られる城は四角形の曲輪と広大な水堀が標準形となります。
伊勢長島城
名古屋へ専門家派遣に向かう途中、長島駅で下車。
長島というとホワイトサイクロンのあるナガシマ・スパーランドがある所ですが、昔は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の河口に点在する島々で構成されていました。
輪中と呼ばれる地帯で、治水に常に悩まされ、徳川幕府が薩摩藩に三川を分流する工事を命令します。薩摩藩では多額の費用と犠牲をはらって工事を行い、これが千本松原になっています。工事を指揮した薩摩藩士平田靱負は完成後に切腹しています。
長島は伊勢湾台風でも甚大な被害をうけ、町の数カ所に棒が建てられ伊勢湾台風の水位が刻まれていました。3メートルぐらいの頭上ですので、町は完全に水底になったんですね。
■信長との戦いの舞台 長島一向一揆
戦国時代は長島を舞台に本願寺門徒と信長が戦いました。石山本願寺に呼応して決起し、結局、4年もの長期の戦いになりました。一揆といっても島の要塞を攻める攻城戦です。織田方は甚大な被害を受け、織田信長の弟や親族の多くも戦死、西美濃三人衆の一人である氏家卜全は逃げる時の殿(しんがり)となり討ち取られています。
鎮圧した後は滝川一益が居城とし、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となります。江戸時代は長島藩がおかれました。本丸跡などは小学校や中学校になっており、堀跡が水路として残っています。大手門が近くの寺に移築されて残っています。
城氏城(伊賀)
昨日、掛田城に登った時、すぐ近くに城氏城があるので、こちらにも回ろうとしましたが、なんせ正確な地図なんてないものですから、大雑把に尾根を歩いて行ったら違う尾根に出てしまい。山をさまようことになってしまいました。(笑)
城氏城は室町時代に城氏によって築かれました。天正伊賀の乱では城八太夫という名前が伝わっていますので、城主だったのでしょう。
ようやく城にたどり着いて帰る時に小道から送電鉄塔の保守道を登ると城に入れることが判明。なんとかスーツでも登れる山城です。城には長く続く堀跡が残っていて、主郭には見事な土塁が残っていました。城氏城も掛田城と同様、石垣が使われていたようで石が散乱していました。そして、主郭にはおなじみの青い札がありました。
伊賀上津駅の次の駅が青山町駅なんですが、この駅のすぐ近くにも城氏城があります。3kmほどしか離れていない同じ城氏の城ですから一族の城だったんでしょうね。
掛田城(伊賀)
午後から津駅前にあるアスト津でマイナンバーセミナ。私の担当は法人番号の怖さと倒産した会社から個人番号が漏れる怖れがあるといった、各地のマイナンバーセミナーではあんまり聞かれない内容をしゃべってきました。
■スーツはちょっと無理な掛田城
午前は大阪から津へ向かう途中の伊賀上津駅で降りて、掛田城へ。初瀬街道を見下ろす丘陵の端にある山城です。
比高25メートルとあったのでスーツ姿でいけるだろうと登ったのですが、主郭の中は少し藪がありスーツじゃない方がいいですね。(笑)藪の中にある主郭にまでたどりつくと伊賀の城ではお約束の、青い札がかかっていました。
土塁が取り囲んでいますが下部には石垣があり、野面積よりももっと素朴な積み方なんですが戦国時代の伊賀の山城では珍しいです。
■天正伊賀の乱の舞台
掛田城は誰が造った城か分かっている珍しい城。室町時代に富増伊予守によって築かれました。富増伊予守城とも呼ばれています。
伊勢の北畠家を乗っ取った織田信雄が、伊賀を手に入れようと丸山城を築城しますが、城が完成した頃に攻められて敗退。敗れた織田信雄は再度、伊賀を攻めます。これが第一次天正伊賀の乱で青山峠を超えて峠を降りたところにあるのが掛田城。1300の織田軍が取り囲んだのを200の軍勢で守り抜きました。
織田信雄の失敗に信長は怒りますが、今度は信長自身が乗り出してきました。これが第二次天正伊賀の乱。滝川雄利・織田信澄を先鋒に1万の織田軍に囲まれたため籠城は無理と他の城へ落ちのびていきました。
浅井三姉妹がいた伊勢上野城
研修の帰り、久しぶりに伊勢上野城へ寄ってきました。伊賀上野城ではなく伊勢上野城です。
信長による伊勢攻めが始まった時、北伊勢の長野氏が信長に対抗しました。この長野氏の一族で分部氏に養子に入っていたのが分部光嘉、当時わずか17歳。。一族が徹底抗戦しようというなか、黒田官兵衛のように時流がみえていたのか和睦を主張し、いろいろと画策し、長野家に信長の弟である信包を招きます。信包が分部光嘉に築かせたのが伊勢上野城です。
街道を見下ろす小高い丘の上にあり連格式の曲輪で構成されています。今は公園になっていますが土塁などが残っており、ちょっとはずれた竹藪に入ると堀切なども見事に残っています。公園なのでスーツ姿でも大丈夫ですが、スーツ姿での竹藪はあまりおすすめできません。(笑)
■浅井三姉妹がいた
浅井長政が小谷城で滅んだ後、織田信包がいた伊勢上野城にお市の方と茶々(淀君)、お江、お初の浅井三姉妹がやってきます。やがて今の津城が完成すると、そちらに引越。伊賀上野城は分部光嘉が城代となります。秀吉が亡くなった後、関ヶ原の合戦が起きますが、その前哨戦として津城が攻められます。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、津城主富田氏と共に戦ったのが分部光嘉。多勢に無勢で和議になりますが、その功績から近江の大溝に移り、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。伊賀上野城は廃城となります。
■硬骨漢だった細野藤敦
この分部光嘉のお兄さんが細野藤敦。信長の伊勢攻めで徹底抗戦を主張していた中心人物です。和議をすすめた分部光嘉は、このお兄さんを追放しますが、なかなかの人物だったようで、最後まで徹底抗戦。最後は根来寺で秀吉とも戦っています。
戦国武将の間でも細野藤敦の武名は有名だったようで松坂に入った蒲生氏郷が7000石で迎え入れ、やがて家康の時代となった時に、戦国乱世の世をよく真っ直ぐに生きられたと家康に声をかけられています。
伊勢・金井城
金曜日、桑名で午後から仕事でしたので、その前に西桑名駅から軽便列車の北勢線に30分ほど乗ると大泉駅へ。
場所はいなべ市員弁町になります。駅からちょっと歩くと北金井という地になり、ここに金井城跡があります。いろいろな山城に行きましたが、城用の駐車場があるのを見たのは始めて。手製の看板ですので、地元の人が作ったのでしょう。いつも城の入口を探すのが大変なんですが、とっても分かりやすくなっています。
看板近くに城の入口があり土橋を渡って城の中に入れます。主郭の中はヤブだらけですが、主郭を巡っている土塁を巡ることができ、ところどころに横矢がかかる張り出しがあり、なかなか見応えがあります。だた、スーツで行くのは、あまりおすすめしません。(笑)
金井城を造ったのは種付氏で、種付氏は近江国神崎郡種付郷が発祥です。近江守護だった佐々木が六角氏と京極に別れますが、近江南部を支配した六角氏の系統です。八風街道経由で八日市へ行けますし、鞍掛峠越えで多賀大社(彦根)へ抜けられました。
金井城は境目の城だったので美濃国守護の土岐氏とも2度ほど戦い、しりぞけました。最終的には織田信長に攻められ、滅びます。
→ 金井城の動画
矢田城跡
桑名商工会議所でのセミナー前に矢田城跡に行ってきました。
桑名駅から少し行ったところに三岐鉄道・北勢線の馬道駅があります。この駅の向こうに見えているのが走井山公園で、ここが矢田城跡。土塁などは残っていませんが、三段の郭跡が広場になっています。伊勢湾が見えて眺めがよいですね。境内にあるお菊稲荷神社が一段高くなったところにあり、櫓があったようです。
この矢田城の麓にあったのが刀鍛冶・村正の屋敷。水が走り出すほどの井戸があったことで走井山という名前になり、刀鍛冶に水はかかせなかったので村正の屋敷があったようです。家康が怖れたという妖刀・村正ですが、これは単なる伝説のようです。
矢田城は北畠の城でしたが、滝川一益の伊勢平定で落城し、長島一向一揆攻めに使われました。近くに愛宕山城もありましたが、こっちは住宅地になってしまいました。
スーツで登れる筒井順慶陣城(名張)
名張川の北側にある山を切り開いてできた住宅地が梅ヶ丘。けっこうな高台になっていて、梅ヶ丘の住宅地から山に分け入ると山城「短野(みじかの)城」が残っています。山道は伐採されていて藪がほとんどなく、スーツ姿でも楽勝でした。短野城には郭が2つあり、主郭は虎口に横矢がかかるよう土塁が飛び出していて見ごたえがあります。空堀跡もしっかり残っていました。
短野城は信長軍の筒井順慶が本陣をおいたと伝わる山城です。天正伊賀の乱で信長軍と伊賀勢最後の拠点となった柏原城(赤目)の攻防戦があり、この時に使われたようです。横堀の外側に広い平坦な土地があり、軍を逗留させるには最適で、けっこうな人数を収納できたでしょう。尾根沿いに伊賀勢の黒田城がありますので、この短野城から攻め入ったかもしれません。伊賀の城を巡ると主郭に青いプレートがつけられていますが、短野城にもしっかりついていました。
筒井順慶は大和の国人で、筒井城、大和郡山城を根城にしていましたが、秀吉の時代に伊賀へ国替えとなります。伊賀上野城にはちょっと分かりにくいところですが、筒井時代の天守閣跡が残っています。
スーツで登れる青蓮寺城(青木城)
名張駅からバスに乗って百合が丘へ。丘の上に造成された団地で、けっこう高低差があり、こんな所で自転車通勤になったら、とっても大変。巡回バスの最終である百合が丘で降りると、すぐそばに小高い丘があり、ここが青蓮寺城(青木城)跡です。
丘の上に地蔵院があり、地蔵院を囲むようにコの字型の土塁と空堀が巡っています。遺構が見事に残っていて、しかも土塁は高い所なら8メートル以上もあります。よく現代まで残りましたね。一帯は青蓮寺公園になっていて地蔵院まで階段もあり、スーツ姿で登れる山城です。写真は「コ」の字の角部分。土塁の高さは3メートルほどです。
最期の城主は青木信定という人物で、近くの城と連携作戦をとりながら織田信長勢と戦いましたが落城しました。近くには織田軍と伊賀の国人衆との最後の決戦が行われた柏原城があるので決戦間近だったのでしょう。