織田信長よりも先に天下をおさめた三好長慶の部下が松永久秀。久秀の奥さんは長慶の娘でした。その長慶の命で大和を支配することになりましたが、興福寺などを倒し、松永久秀が1561年に大和と山城の国境付近に築いた平山城が多聞山城です。
松永久秀は信貴山城を拠点としており、信貴山といえば虎で有名な朝護孫子寺で、多聞天(毘沙門天)が本尊。この多聞天を城に祀ったことから多聞山城と呼ばれました。
■戦う城から見せる城へ
城には四階櫓があり、これが天守の始まりと言われています。棟上げ式には奈良の住民を招待し、誰が支配者か分からせる目的もあったでしょうが、基本はパフォーマンス好きですね。
城の防備のために 長屋状の櫓が築かれ、これが近代の城に続く多聞櫓になりました。戦う城から見せる城へ変わる画期的な城で、織田信長も安土城を造る時に大いに参考にしました。奈良の実質的な守護だった興福寺を見下ろせるところにある城ですので、奈良支配にはもってこいの場所です。とはいいながら筒井をはじめとする国人との戦いは大変でした。
■多聞山城で蘭奢待を切り取る
織田信長が足利義昭を奉じて京都に登ってきた時に降伏。多聞山城は織田信長の城となりました。信長が多聞山城を訪れ、天皇の許可を受け正倉院から多聞山城へ香木「蘭奢待」を運んで切り取らせます。信長以前に切り取ったのは足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武。多聞山城から歩いて10分ぐらいのところに正倉院はあります。
織田信長の朝倉攻めが浅井長政の裏切りで金ヶ崎から撤退する時、近江の朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救ったのが松永久秀です。信長を裏切っても許されているので憎めない武将で信長も一目置いていたようです。茶人としても有名でした。
織田信長が筒井順慶を大和の守護に任じた時に多聞山城の破却を命じます。石材の多くは筒井城や郡山城などに移されました。城跡の遺構は残っておらず、現在は若草中学校になっています。中学校校舎とグランドの間には大堀切があり、上が渡り廊下になっていて下は道路になっています。渡り廊下まで、けっこう高く、当時はすごい堀切でした。
カテゴリー: 奈良県の山城
スーツで登れる上野山城(木津)
JR木津駅から見えている小山の上にあるのが上野山城。
木津駅の東側は木津高校があるぐらいで、あとは山々でしたが城山台という住宅地が開発され、あれよあれよという間に高台にできた街になってしまいました。
住宅街を通って、半分、ハゲ山になった城山の麓に行くと、城郭公園という小さな矢印があり、ここを登っていくと城跡に到達します。木津の町が見下ろせ、なかなか眺めがよいです。ですのでスーツでも登れます。
城跡は頂上にありますが、東西南北50メートルほどの土塁に囲まれた曲輪が見事に残っています。史跡公園として整備されているので藪も木もなく、曲輪がそのまま見られるのがいいですね。曲輪に入る土橋や堀もしっかり残っていて土橋は2ケ所ありました。3つの尾根に曲輪が続いていたようですが、これは城山台開発でなくなってしまいました。
地元の国人であった木津氏の木津城とも考えられていましたが、木津城は平城で、木津駅の西側にあったようです。ですので上野山城は街道を抑えるための見張りのために造られたもでしょう。城跡の解説板には地元の農民や土豪が逃げ込んで、たてこもるための城と書かれていました。
多くの城山が住宅地で跡形なく消えていくなか、曲輪の一つだけでも残ったのは幸いですね。
14もの曲輪などが見つかった高取城
昨日の朝刊を見て、驚いたのが高取城の記事。
高取城とは、奈良にある日本三大山城の一つです。他の2つは岩室城(岐阜)と備中松山城(岡山)。高取城の最寄駅は近鉄・吉野線「壺阪山駅」で、駅から1時間ほど歩くと城の入口に到達できます。入口から350メートルほど登りますので、けっこう足にこたえます。高取城は曲輪の連なった連郭式の山城で、南北朝時代に造られ、幕末まで続いた城です。幕末には天誅組の変の舞台となりました。
高取城では今までもいろいろな調査が行われていましたが新たに空堀や曲輪跡が14ケ所も見つかりました。2013年にヘリコプターで、高取城の上空500メートルからレーザ計測。3次元航空レーザー計測システムを活用し、高取城の精密な立体地図を作成したところ、今までの縄張図になかった曲輪跡や堀切跡が見つかったそうです。
山城の多くは藪で覆われていますので曲輪跡を確認するだけでも大変。有名どころの山城でいいので、続々とレーザー計測をやってくれいなかなあ。三好長慶の芥川山城(高槻)などは、ぜひやってほしいですねえ。
お城ジオラマ復元堂から長篠城、高天神城という、なかなか渋い城のジオラマが発売されていますが、やっぱりオリジナルがよいので、ぜひとも山城の3次元計測データを公開してほしいですね。3次元プリンターを買って、3次元計測データをセットすれば、城の縄張を3次元で表現できます。
今までは縄張図をもって山城へ出かけ、堀切があることは図で分かりますが、深さまでは表現できないので、現地で確認します。3次元縄張を持っていけば自分が曲輪のどこにいるかも一目瞭然。藪で見えない堀切も確認できますので山城巡りが面白くなりそうです。ちょうど募集中の「ものづくり補助金」に応募して3次元プリンターを買おうかなあ。ウーン、絶対に落とされるなあ。(笑)
天皇陵じゃなく城跡だった宝来城
奈良の尼ヶ辻(西大寺の次の駅)に用事があったので宝来城に寄ってきました。
宝来城といいながら、実は安康天皇陵になっています。古墳を山城にしているケースは多く、大阪なら古市にある高屋城、大塚山古墳を活用した丹下城、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣城にした御勝山古墳などがあります。
古墳だと思われていたが実は城だったというところもあり、天王寺公園にある茶臼山古墳。大坂冬の陣では徳川家康の陣城になり、夏の陣では真田幸村の本陣がおかれました、古墳じゃないという説が出ています。
宝来城も同様で、戦国時代の城でしたが、何がどうなったのか宮内庁が城跡を天皇陵にしてしまいました。宝来城は大和の国の国人の一人だった宝来氏の城で松永久秀と戦った記録が多聞院日記などに出ています。
安康天皇陵の北側にまわると堀越しに城跡を見ることができますが、どう見ても櫓台跡だし、土橋があって虎口につながっているところが、よく見えます。こんなに城跡だと分かるところなのに、なんで天皇陵にしてしまったんですかねえ。でも、街中に城跡がそのまま残ったという効果がありました。
椿井城
椿井城(つばいじょう)
近鉄生駒線・竜田川駅の東側にある山を登ったところにある山城。嶋左近の居城だったのはという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。筒井氏に備えるために松永久秀が築いたという説もあります。
山城へ登る道の麓に椿井という名前の井戸があります。蘇我や聖徳太子が物部守屋を攻める時に苦戦し、この地域(平群)の神手将軍が戦勝を祈願して、椿の杖をついたところ泉が湧き出します。これを聖徳太子や兵士が飲んだところ士気が上がり、守屋との戦いに勝てたということです。
平群からだと暗峠超えで物部の本拠地である東大阪へ攻め込めまめますし、山の向こうは斑鳩ですから、この地から攻めた部隊もあったのでしょう。
椿井城ですが、山城では珍しく地元有志によって整備されていて、とっても見やすくなっています。ただし北郭は保存のため見学ができず、見学できるのは南郭だけです。かなり大きな山城なので見応えは十分。堀切などもしっかり残っています。山上の郭からは松永久秀の信貴山城がすぐ近くに見えます。
嶋左近のお城 西宮城(生駒郡)
西宮と言っても兵庫県ではなく奈良県生駒郡平群町西宮にある城跡。
生駒駅から単線&ワンマン運転の近鉄生駒線に乗って、平群駅と竜田川駅のちょうど間ぐらいにある平群中央公園に城跡があります。城は小高い丘の上にありましたが、今は公園になってしまい遊具がおかれ、家族連れでにぎわっていました。ただ西郭の土塁や主郭と副郭の間のくびれの部分など遺構が一部残っています。西郭は西宮古墳をそのまま郭に使っていました。戦国時代によく古墳を城にしていました。
谷の向こう側に下垣内城がありましたが、こちらも公園化のよって城の遺構は皆無になっています。このあたりを支配していたのが嶋氏という国人。あの嶋左近の一族です。筒井氏に仕えていましたが、石田三成からのヘッドハンティングを受け、それも三成の禄高の半分を与えるという破格の待遇。意気に感じた嶋左近は三成に仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山(城)」と言われます。三成は豪放磊落だったようで大河ドラマで描かれる姿とは、だいぶイメージが違います。
関ヶ原の戦いで三成軍として華々しく戦った嶋左近。最期の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となりました。その嶋氏のお城です。
子孫が寄贈した大和高山城(生駒)
ようやく足の痛みが治ったので山城登りを再開。ただこの時期から山城はヤブ蚊がすごくなりますので、なるべくヤブの少ない山城を探したところ生駒にありました。
近鉄けいはんな線・学研北生駒駅から奈良交通バスに乗り西庄田で降りて、山を目指します。近畿自然歩道が通っているため、高山城への案内板もあり、また遊歩道も整備されています。高山は南都、山城、河内の三国の境界にあり、中世には鷹山庄という荘園がありました。この高山をおさめていたのが鷹山氏。
鷹山氏は高山氏とも書き、大和の国人の一人で戦国時代、江戸時代を生き抜き、鷹山氏の末裔が城跡を所有していました。平成18年に城跡を再整備するのにあわせ地元に寄贈。それで遊歩道ができたんですね。
遊歩道を登ると九頭龍王社が祀られている2郭に着きますが、主郭はどうも2郭ではなく尾根沿いに進んだ別の郭のようで、そちらに進出。さすがに遊歩道も何も整備されていないので、ヤブに分け入って土塁などを見てきました。井戸跡も残る郭で見応えがあり、おかげで堪能できました。
北田原城(生駒市)
片道40分、こんな通勤はいやだ(高取城)
超昇寺城
佐紀城の横に御前池があるのですが、対岸にあるのが超昇寺城。室町時代に作られたようで戦国時代は筒井方、松永久秀方の争いに巻き込まれ松永方についたり、筒井方についたり大変だったようです。
大和西大寺駅からみると佐紀城も少し高台になっていますが超昇寺城は、それ以上の高台になっています。佐紀城は超昇寺城の出城だったのではという説もあります。
佐紀城を見てから対岸の超昇寺城へ行きましたが、こちらは竹藪だらけ。外から見たら森にしか見えませんが中には土橋、空堀、郭、土塁、櫓台が残っていました。ただし竹藪の中を押し入らないといけないので、大変。けっこう大きな城で、現在は住宅地になっているところも郭だったようです。まあ、スーツ姿で行くところではありませんなあ。
藪が大変なので、この手の城へ行くのはしばらく無理ですねえ。はやく寒くならないかなあ。