高山右近がキリシタンになった沢城(宇陀)

沢城
宇陀松山城(秋山城)の後、レンターサイクルで沢城へ行ってきました。
沢山の頂上に造られた山城で、自転車を置いてずっと山道を登っていきます。途中で分岐して上に登る道があり、”沢城への道はてっきりこれだ”と思って登ったのが運のツキ。途中で山道がなくなってしまいます。見上げると郭らしきものがあるので、”目標はあれだ!”と8メートルほどの切岸(敵の侵入を防ぐために造った人工的な断崖)を直登。3度ほど、ころびましたが、なんとかたどりつくとピンポン、沢城の郭でした。
沢城の主郭は藪だらけでしたが、出丸跡の土塁や堀切跡が見事に残っていました。城跡には看板もあり、山道を途中で上に登らずにずっと歩けば、無事に城にたどりつけたことが帰りに判明します。ムリに直登して、ころばなくてもよかったんだあ。
■高山右近がキリシタンとなった沢城
沢城を造ったのは宇陀三将の一人である沢氏。宇陀から山を越えれば三重県の多気で、沢氏は南朝方だったこともあり伊勢国司・北畠の重臣でした。沢氏古文書が現在まで伝わっており津にも領地をもっていたことが分かっています。ところが三好長慶の家来である松永久秀が大和を支配するために攻めてきて沢城は落城。松永久秀に従っていた高山友照(高山右近のお父さん)が新しい城主となります。
沢城が有名なのが、ここで高山友照や少年だった高山右近が洗礼を受けてキリシタンになったことで、ポルトガルの医師アルメイダが沢城を訪れており、アルメイダから報告を受けてルイス・フロイスが「日本史」に沢城につて書いています。城には教会や礼拝堂も建てられました。高山友照や家臣らがキリシタンになったことで、三好長慶の本拠地である河内・飯盛山城でもキリシタンが広まり、岡山城や砂、三箇城に教会が建てられ河内キリシタンとなっていきます。

宇陀松山 陣屋

西口門
大坂の陣が終わった1615年に宇陀松山城が破城となり、麓に陣屋が作られ、宇陀松山藩の中心は陣屋になりました。陣屋そのものは残っておらず西口門、春日口に石垣の一部と城下町に枡形が残っています。
■信長の次男、織田信雄
この宇陀松山藩に入ったのが織田信雄。信長の次男です。信雄は信長の伊勢攻めでは伊勢・国司だった北畠家にM&A戦略で入り込み、最終的に北畠家を乗っ取ります。本能寺の変のあとは秀吉と組んで三男・信孝と対立し、賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に味方します。ところがその後は家康とくっついて秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いましたが、秀吉に伊勢に攻め込まれて単独和睦します。
大坂の陣が終わった時には、60歳前でしたので家康から与えられた宇陀松山の土地は隠居地でした。山上にある宇陀松山城(秋山城)は宇陀三人衆だった秋山氏の城で、秋山氏は伊勢の北畠家中でしたので、宇陀でも織田信雄にやられたことになります。実際は途中に福島正則の弟がおさめるという中継ぎがありました。
織田信長の子孫で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけになります。宇陀松山藩は元禄7年(1694)に丹波国柏原へ国替えとなってからは、幕府の天領となり城下町は宇陀千軒と呼ばれるようになります。古い町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。街並みを眺めただけで、道の駅へ寄って、そのまま沢城へ向かいました。

秋山城(宇陀松山城)

宇陀松山城
昨日、原稿書きは終わったし、天気もよく、おまけに誕生日ということで山城登りに出かけてきました。
榛原駅前でレンターサイクルを借り、目指すは宇陀松山。古い城下町の街並みが残っていて、重要伝統的建築物群保存地区になっていますが、町並みを横目に春日神社の脇からひたすら山登り。目指すは宇陀松山城です。もともとは宇陀三将の一人、秋山氏の城で秋山城といっていました。豊臣秀長が大和を支配するようになって近代城郭に生まれ変わります。
山城というとうっそうとした木々の中にあるものですが、国史跡ということもあり、きれいに整備され天守台跡に建てば360度、宇陀地域を見渡すことができます。昔、柿本人麻呂が「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」と歌った阿騎野も見えます。
発掘調査もすすめられており、門跡や大手道などには石垣が使われて、なかなか見応えがあります。発掘で分かってきたのは豊臣時代の大和は大和郡山城、高取城の2城体制だではなく、宇陀松山城も足した3城体制だったようです。大坂夏の陣の後、大坂方だったため小堀遠州らによって宇陀松山城は廃城にされました。

大和郡山城 天守台石垣工事説明会

大和郡山城
大和郡山城の天守台石垣工事説明会があったので行ってきました。
大和郡山城、戦国時代は砦でしたが本格的な大和郡山城を造ったのが信長の命をうけた明智光秀で城は筒井純慶が守りました。豊臣秀吉の時代に筒井家は伊賀上野へ転封。代わりに入ったのが秀吉の弟で偉大なる補佐役と呼ばれた豊臣秀長です。
秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石の領主になったので、それにふさわしい城に大改造します。現在に残る天守台の石垣などは、この当時のものになります。この秀長に仕えていたのが後に津をおさめる藤堂高虎です。
400年も前に造られた天守台の石垣ですが、崩れているところもあり、解体して修復が行われています。石垣に墓石や石仏(地蔵)までが使われていることは前からわかっていましたが、今回の解体でもけっこうな数の五輪塔や墓石が見つかり現場に置いてありました。
自然石を使った野面積ですが5%ほどの石は割れてしまっているそうです。そのままでは使えませんので型をとって、四日市・菰野の石を加工し交換するそうです。
説明会は今日と明日、10時~15時に1時間起きに行われています。石垣というと表面しか見られませんが中の盛土から裏込め石まで見られるチャンスです。

信長が蘭奢待を切り取った多聞山城

多聞山城
織田信長よりも先に天下をおさめた三好長慶の部下が松永久秀。久秀の奥さんは長慶の娘でした。その長慶の命で大和を支配することになりましたが、興福寺などを倒し、松永久秀が1561年に大和と山城の国境付近に築いた平山城が多聞山城です。
松永久秀は信貴山城を拠点としており、信貴山といえば虎で有名な朝護孫子寺で、多聞天(毘沙門天)が本尊。この多聞天を城に祀ったことから多聞山城と呼ばれました。
■戦う城から見せる城へ
城には四階櫓があり、これが天守の始まりと言われています。棟上げ式には奈良の住民を招待し、誰が支配者か分からせる目的もあったでしょうが、基本はパフォーマンス好きですね。
城の防備のために 長屋状の櫓が築かれ、これが近代の城に続く多聞櫓になりました。戦う城から見せる城へ変わる画期的な城で、織田信長も安土城を造る時に大いに参考にしました。奈良の実質的な守護だった興福寺を見下ろせるところにある城ですので、奈良支配にはもってこいの場所です。とはいいながら筒井をはじめとする国人との戦いは大変でした。
■多聞山城で蘭奢待を切り取る
織田信長が足利義昭を奉じて京都に登ってきた時に降伏。多聞山城は織田信長の城となりました。信長が多聞山城を訪れ、天皇の許可を受け正倉院から多聞山城へ香木「蘭奢待」を運んで切り取らせます。信長以前に切り取ったのは足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武。多聞山城から歩いて10分ぐらいのところに正倉院はあります。
織田信長の朝倉攻めが浅井長政の裏切りで金ヶ崎から撤退する時、近江の朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救ったのが松永久秀です。信長を裏切っても許されているので憎めない武将で信長も一目置いていたようです。茶人としても有名でした。
織田信長が筒井順慶を大和の守護に任じた時に多聞山城の破却を命じます。石材の多くは筒井城や郡山城などに移されました。城跡の遺構は残っておらず、現在は若草中学校になっています。中学校校舎とグランドの間には大堀切があり、上が渡り廊下になっていて下は道路になっています。渡り廊下まで、けっこう高く、当時はすごい堀切でした。

スーツで登れる上野山城(木津)

城山台
JR木津駅から見えている小山の上にあるのが上野山城。
木津駅の東側は木津高校があるぐらいで、あとは山々でしたが城山台という住宅地が開発され、あれよあれよという間に高台にできた街になってしまいました。
住宅街を通って、半分、ハゲ山になった城山の麓に行くと、城郭公園という小さな矢印があり、ここを登っていくと城跡に到達します。木津の町が見下ろせ、なかなか眺めがよいです。ですのでスーツでも登れます。
城跡は頂上にありますが、東西南北50メートルほどの土塁に囲まれた曲輪が見事に残っています。史跡公園として整備されているので藪も木もなく、曲輪がそのまま見られるのがいいですね。曲輪に入る土橋や堀もしっかり残っていて土橋は2ケ所ありました。3つの尾根に曲輪が続いていたようですが、これは城山台開発でなくなってしまいました。
地元の国人であった木津氏の木津城とも考えられていましたが、木津城は平城で、木津駅の西側にあったようです。ですので上野山城は街道を抑えるための見張りのために造られたもでしょう。城跡の解説板には地元の農民や土豪が逃げ込んで、たてこもるための城と書かれていました。
多くの城山が住宅地で跡形なく消えていくなか、曲輪の一つだけでも残ったのは幸いですね。

14もの曲輪などが見つかった高取城

高取城
昨日の朝刊を見て、驚いたのが高取城の記事。
高取城とは、奈良にある日本三大山城の一つです。他の2つは岩室城(岐阜)と備中松山城(岡山)。高取城の最寄駅は近鉄・吉野線「壺阪山駅」で、駅から1時間ほど歩くと城の入口に到達できます。入口から350メートルほど登りますので、けっこう足にこたえます。高取城は曲輪の連なった連郭式の山城で、南北朝時代に造られ、幕末まで続いた城です。幕末には天誅組の変の舞台となりました。
高取城では今までもいろいろな調査が行われていましたが新たに空堀や曲輪跡が14ケ所も見つかりました。2013年にヘリコプターで、高取城の上空500メートルからレーザ計測。3次元航空レーザー計測システムを活用し、高取城の精密な立体地図を作成したところ、今までの縄張図になかった曲輪跡や堀切跡が見つかったそうです。
山城の多くは藪で覆われていますので曲輪跡を確認するだけでも大変。有名どころの山城でいいので、続々とレーザー計測をやってくれいなかなあ。三好長慶の芥川山城(高槻)などは、ぜひやってほしいですねえ。
お城ジオラマ復元堂から長篠城、高天神城という、なかなか渋い城のジオラマが発売されていますが、やっぱりオリジナルがよいので、ぜひとも山城の3次元計測データを公開してほしいですね。3次元プリンターを買って、3次元計測データをセットすれば、城の縄張を3次元で表現できます。
今までは縄張図をもって山城へ出かけ、堀切があることは図で分かりますが、深さまでは表現できないので、現地で確認します。3次元縄張を持っていけば自分が曲輪のどこにいるかも一目瞭然。藪で見えない堀切も確認できますので山城巡りが面白くなりそうです。ちょうど募集中の「ものづくり補助金」に応募して3次元プリンターを買おうかなあ。ウーン、絶対に落とされるなあ。(笑)

天皇陵じゃなく城跡だった宝来城

宝来城
奈良の尼ヶ辻(西大寺の次の駅)に用事があったので宝来城に寄ってきました。
宝来城といいながら、実は安康天皇陵になっています。古墳を山城にしているケースは多く、大阪なら古市にある高屋城、大塚山古墳を活用した丹下城、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣城にした御勝山古墳などがあります。
古墳だと思われていたが実は城だったというところもあり、天王寺公園にある茶臼山古墳。大坂冬の陣では徳川家康の陣城になり、夏の陣では真田幸村の本陣がおかれました、古墳じゃないという説が出ています。
宝来城も同様で、戦国時代の城でしたが、何がどうなったのか宮内庁が城跡を天皇陵にしてしまいました。宝来城は大和の国の国人の一人だった宝来氏の城で松永久秀と戦った記録が多聞院日記などに出ています。
安康天皇陵の北側にまわると堀越しに城跡を見ることができますが、どう見ても櫓台跡だし、土橋があって虎口につながっているところが、よく見えます。こんなに城跡だと分かるところなのに、なんで天皇陵にしてしまったんですかねえ。でも、街中に城跡がそのまま残ったという効果がありました。

椿井城

椿井城
椿井城(つばいじょう) 
近鉄生駒線・竜田川駅の東側にある山を登ったところにある山城。嶋左近の居城だったのはという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。筒井氏に備えるために松永久秀が築いたという説もあります。
山城へ登る道の麓に椿井という名前の井戸があります。蘇我や聖徳太子が物部守屋を攻める時に苦戦し、この地域(平群)の神手将軍が戦勝を祈願して、椿の杖をついたところ泉が湧き出します。これを聖徳太子や兵士が飲んだところ士気が上がり、守屋との戦いに勝てたということです。
平群からだと暗峠超えで物部の本拠地である東大阪へ攻め込めまめますし、山の向こうは斑鳩ですから、この地から攻めた部隊もあったのでしょう。
椿井城ですが、山城では珍しく地元有志によって整備されていて、とっても見やすくなっています。ただし北郭は保存のため見学ができず、見学できるのは南郭だけです。かなり大きな山城なので見応えは十分。堀切などもしっかり残っています。山上の郭からは松永久秀の信貴山城がすぐ近くに見えます。

嶋左近のお城 西宮城(生駒郡)

西宮城
西宮と言っても兵庫県ではなく奈良県生駒郡平群町西宮にある城跡。
生駒駅から単線&ワンマン運転の近鉄生駒線に乗って、平群駅と竜田川駅のちょうど間ぐらいにある平群中央公園に城跡があります。城は小高い丘の上にありましたが、今は公園になってしまい遊具がおかれ、家族連れでにぎわっていました。ただ西郭の土塁や主郭と副郭の間のくびれの部分など遺構が一部残っています。西郭は西宮古墳をそのまま郭に使っていました。戦国時代によく古墳を城にしていました。
谷の向こう側に下垣内城がありましたが、こちらも公園化のよって城の遺構は皆無になっています。このあたりを支配していたのが嶋氏という国人。あの嶋左近の一族です。筒井氏に仕えていましたが、石田三成からのヘッドハンティングを受け、それも三成の禄高の半分を与えるという破格の待遇。意気に感じた嶋左近は三成に仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山(城)」と言われます。三成は豪放磊落だったようで大河ドラマで描かれる姿とは、だいぶイメージが違います。
関ヶ原の戦いで三成軍として華々しく戦った嶋左近。最期の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となりました。その嶋氏のお城です。