黒門(宇陀)

古代、阿騎野(あきの)は薬狩り(薬草摘み)する土地で、片岡鶴太郎さんが出ている救心製薬のCMに薬狩りの絵が出てきます。

黒門
黒門

南北朝時代は秋山氏が支配し、宇陀には他に澤氏、芳野氏がおり宇陀三将と呼ばれていました。秋山氏は松永久秀と組んでいましたが豊臣の世の中となり秀吉の弟である豊臣秀長が大和国国主として入封すると秋山氏は追放されます。

■黒門(松山西口関門)
その後、城主がコロコロ変わりますが、関ケ原の合戦の後に入ったのが福島正則の弟である福島孝治。この頃に作られたのが黒門(松山西口関門)で、現在も唯一残っています。宇田川に橋がかかっており橋を渡ると左に折れた所に黒門があり、黒門を過ぎると今度は右に折れさせるようになっていて大手道としてこちらも残っています。

大坂の陣の後は織田信雄が入り、織田家が4代続き丹波国柏原に移ってからは幕府領になります。

宇陀松山城(秋山城)

宇陀三将の一人である秋山氏が居城として築いたのが最初で当時は秋山城と呼ばれていました。豊臣政権となってから城主がいろいろと変わり山城から近代的な城郭へと改修されていきます。

宇陀松山城(秋山城)
宇陀松山城(秋山城)

関ケ原の戦いの後、福島正則の弟である福島高晴が城主となりましたが、大坂夏の陣で豊臣方に内通したと福島高晴は改易されます。宇陀松山城は廃城となり小堀遠州らが城割(城を壊すこと)を行いました。

平成になってから発掘調査が行われ主郭などが総石垣で造られていたことが明らかとなり整備されました。今は城までハイキングコースになっていて主郭からは宇陀の街並みを見ることができます。

柿本人麻呂が「ひむがしの野にかぎろいのたつ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ」と歌った阿騎野が今の大宇陀になります。

内原城

大宇陀に桜井へ抜ける道があり、ここにあったのが内原城。誰が造った城なのか分かりませんが松永久秀が秋山城を攻める時に築いた陣城ではないかと言われています。

内原城
内原城

城に入る道はなく崖を登るしかないのですが、何とか登って郭に入ると藪だらけ。しょうがないので郭の堀を巡っていました。縄張図を見ると3つの郭があり虎口だけは分かりました。縄張図には畝状竪堀も書かれていて探しましたが、見つかりませんでした。

井足城

榛原駅から少し行った井足にある城。

井足城
井足城

宇太水分神社下社への参道入口の対面にある丘の上にあり、丘に向かう山道があったので進むと途中で道がなくなります(笑)。仕方なく崖を登って尾根沿いに進んで城に到達しましたが、もう少し楽に登れる道を後に発見。

城主は井足(いだに)氏で、井戸下荘を本貫としていました。宇陀三将の一人である秋山氏に従っていたようです。

城跡は大きな郭が3つほどあり、櫓があったと思われる高台がありました。芳野川を見下ろせますので川沿いの街道をおさえる城だったのでしょう。

韋駄天山城

蔵王堂の近くに標高370mの韋駄天山があります。階段があったので登ると頂上は細長い削平地になっていました。吉野は全山が山城ですが、ここも郭だったんですねえ。

韋駄天山
韋駄天山

頂上には小さな祠があり、祠の向こうには蔵王堂が見えます。階段以外は切岸になっており単郭だったようです。韋駄天山からは街道を見下ろせ、また遠くまで見渡せますから物見には最適な場所です。

吉野城攻防戦

日本史にたびたび登場する吉野山。全山が山城になっており、吉野城という名前がついています。

大塔宮陣地
大塔宮陣地

後醍醐天皇が笠置城で挙兵した時に大塔宮護良親王も参戦。幕府軍の攻撃に笠置城が陥落し、後醍醐天皇が隠岐に流されることになりますが護良親王は逃げ出し十津川などを経由して吉野山に入ります。

■吉野城攻防戦
護良親王は千早城の楠木正成と連携し吉野城で挙兵。幕府軍が攻め寄せ吉野城攻防戦が始まります。

6万もの幕府軍に攻められ、よく防ぎましたが劣勢は明らか。護良親王らは青い蔵王権現のある蔵王堂前の広庭で最期の酒宴を始めます。護良親王自身、負傷し血だらけでしたが大きな杯で酒3杯を飲み干します。写真はこの酒宴が行われた場所で太平記の名場面ですね。もっとも観光客は蔵王権現がお目当てで、庭の写真を撮影しているような酔狂な人間はいません(笑)。

攻め寄せる幕府軍に対して護良親王は自害しようとしますが村上義光が護良親王をさとし親王の身代わりとなって親王を脱出させます。徳川家康の三方ヶ原の合戦のようですなあ。

筒井順慶のお墓

近鉄天理線が分離する平端駅のすぐ近くに筒井順慶のお墓があります。

筒井順慶のお墓
筒井順慶のお墓

そう洞ヶ峠で有名な筒井順慶です。洞ヶ峠で秀吉と光秀の趨勢を日和見していたと言われていますが、実際は明智光秀が洞ヶ峠へ布陣し筒井順慶の動向を見極めていたのが実態です。先日の大河ドラマ「麒麟がくる」でチラッと出ていました。筒井順慶をはじめとする大和武士は基本的に興福寺か春日大社の衆徒になります。

■苦労しまくった筒井順慶
筒井順慶は父親が28歳で病死したため、わずか2歳で家督を継ぐことになります。叔父が後見してくれましたが16歳の時、この叔父もなくなってしまいます。筒井、越智、箸尾、十市で大和四家を構成していましたが筒井党の武士団を統率するのに四苦八苦。そこへ松永久秀が大和へ侵入。弱みにつけこんで奇襲をかけてきたため居城だった筒井城から逃げ出さざるをえませんでした。

筒井順慶は松永久秀と対立していた三好三人衆と手を組んで筒井城を奪還。この一連の戦いで奈良の大仏が焼け落ちてしまいます。ところが松永久秀が織田信長と手を結んでしまったので弱い立場になってしまいますが、何とかイーブンに持ち込んでいきます。なかなかやりますなあ。松永久秀のライバルでした。

やがて明智光秀の斡旋で信長に臣従し、大和をまかされることになります。明智光秀の与力となり雑賀攻めや松永久秀謀反の信貴山上攻めなどに従軍します。本能寺の変では光秀に味方せず、秀吉に仕えることになります。36歳で大和郡山城で病死。

■島左近
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と島左近が有名ですがもともとは筒井順慶の家臣でした。順慶が亡くなって、跡を継いだ後継者と上手くいかず筒井家を離れることになります。そこで破格の条件でスカウトしたのが石田三成です。

また作家・筒井康隆の先祖が筒井順慶の足軽だったらしく、「筒井順慶」という小説を書いています。

竹ノ内環濠

環濠シリーズです(笑)。天理にあるのが竹ノ内環濠という環濠集落。環濠集落は基本、平地に作られますが、竹ノ内環濠は大和盆地が見下ろせる高台にあります。ただ集落を囲んでいた環濠はだいぶ減ってしまい一部しか残っていません。

竹ノ内環濠
竹ノ内環濠

大和は南北朝時代から群雄割拠の戦国時代で各村では自衛のために環濠集落(早い話が平城です)を作ります。集落のまわりに堀をめぐらし、出入口を1箇所にして防衛します。松永久秀の大和進出もあり最終的に筒井順慶による統一まで大和では戦乱が続きました。

竹ノ内環濠は大和で一番高台にある環濠集落なので大和盆地や生駒山地がよく見えます。

中家住宅

中家住宅という名前ながら二重の堀に囲まれた典型的な環濠屋敷(城郭)です。外側の堀が残っているのが貴重ですね。

中家住宅
中家住宅

場所は安堵町窪田にあり、最寄り駅は近鉄・ファミリー公園前駅か平端駅です。表門前の内堀には跳ね上げ橋がり、中央の板橋を外すことで敵の侵入を防げます。けっこう広い土地を内堀が巡っています。

中氏はももともと伊勢・鈴鹿の土豪で、足立氏と称していました。足利尊氏に従って大和に入った時に窪田を本貫にして窪田姓を名乗るようになります。明徳2年(1391)年に窪田中氏と改め、周囲の土地をおさめ、筒井氏配下として活躍しました。豊臣時代に筒井氏が大和から伊賀に国替えとなりますが、この時に武士をやめ、江戸時代は大地主として現在にまで館などが残りました。

結崎井戸環濠

大和には守護がおらず、興福寺がその役目をしていました。筒井、箸尾、十市、越智などの土豪が相争い戦乱が絶えません。黒澤明の「七人の侍」ではありませんが村々は自営せざるをえず、村を堀で囲んだ環濠集落が作られました。大和の環濠集落は80ほどありました。

結崎井戸環濠
結崎井戸環濠

近鉄・結崎駅から西に歩くと井戸という土地があり、ここにあるのが結崎井戸環濠。周囲は住宅地になりましたが一部に堀跡が残っていて、環濠集落の看板も建っていました。

この辺りに居館があったのが井戸氏で井戸氏は筒井氏一族でしたので筒井・十市氏らが援助し、越智・箸尾氏らと戦っていました。これが大和国人衆を二分する動乱「大和永享の乱」となります。