2018年の初山城は雨山城。熊取の大阪体育大学、浪商高校の近くにある山城です。
関西国際空港の近くに日根野駅がありますが、昔、日根野村に九条家の日野荘という荘園がありました。今は日根荘遺跡として国史跡となり、雨山城も追加指定されています。南北朝から戦国時代にかけて日野荘や和歌山の粉河を結ぶ粉河街道をおさえる城だったようです。
南北朝時代、北朝方の高師直が日根野氏に城の警護を命じています。これを楠木正行の弟である楠木正勝が攻め落とします。ところが南朝側で孤立した楠木正勝が北朝方に寝返ったことから城が北朝方に。ところが、また南朝方になったりと、この城を舞台に戦国時代まで争奪戦が行われました。
雨山城は国史跡でハイキングコースとして整備されており迷うことはありません。十町からカウントダウンする町石が一町ごとに置かれ目印になります。大手道は幾重にも曲がり、高取城の七曲りのようになっています。城の入口は土橋になっていて、主郭には神社が建っていました。いろいろな郭があり、楽しめます。主郭からは関空、四国、明石大橋などが一望できハイキングコースとして人気があるわけです。
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和泉苅田城
和泉苅田城、Googleマップで偶然に見つけたお城で、JR和泉府中駅が最寄り駅です。府中という名前がついているので昔の和泉国府があったはずですが、国衙(役所)は見つかっていません。
和泉苅田城跡には住宅街になっていて何も遺構が残っておらず城跡は穴師小学校からJAいずみ穴師支店周辺だったようです。こんなマイナーなお城までGoogleマップに掲載されているんですね。かと思えば外鎌山城のように、割とメジャーな城が登録されたおらず、どんな基準で登録しているんだろう。
近くに穴師山薬師寺があり、秀吉の紀州征伐時には根来寺に味方し僧兵もいたため、大伽藍が焼けてしまったそうです。この時に和泉苅田城はどうなっていたんだろう。
小牧・長久手の合戦がこんな和泉の地でも行われたんですね。
積善寺城(貝塚)
積善寺城跡 JR阪和線の和泉橋本駅の近くにあります。
遺構は何も残っておらず住宅地になっていますが、長屋門のある家があったり、狭い通りなど古い町並みを残しています。主郭があったのが明教寺付近と言われています。表札には根来という名前がかかっていました。Googleマップでは明教寺が積善寺城跡となっていますが、少し離れた安楽寺境内が主郭とも書かれており、ここらへん一帯が城跡だったようです。
積善寺城はもともと三好一族と争った時の砦として作られ、近木川沿いの千石掘城などとともに、根来衆の出城でした。基本的に平城で秀吉の紀州攻めでは三重の濠をめぐらした城に根来衆9,500人が立て籠もって戦いました。結局、城は落ちず和睦開城となったようです。
千石堀城(貝塚)
秀吉の紀州攻めで有名なのが千石堀城の戦い
貝塚にある高井城から近木川を超えたところに千石堀城があります。貝塚こすもすの里の裏手に拡がる丘の上にあるのですが、城に入るところが分からなく、紀泉鉄道を通す予定で掘削した跡の道から藪に入ると登城できました。かなり大きな主郭で、帯郭が巡っています。写真は堀切横にある虎口ですが、写真ではよく分かりませんね。
千石堀城には秀吉と対峙した根来衆は鉄砲で武装し守っていました。
秀吉軍は豊臣秀次、堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らで二の丸まで攻めましたが本丸は攻めあぐね多大な被害を受けます。このまま持久戦になるかもと思われましたが、筒井隊が放った火矢が城郭を焼き、たまたま火薬箱に引火して大爆発が起きます。豊臣秀次軍が本丸に突入し、根来衆が討ち取られてしまいます。
紀州攻めの舞台 高井城(貝塚)
南海の貝塚駅から東南に近木川が流れています。この近木川沿いに二両編成の水間鉄道が走っていて終点には水間観音があります。
根来衆はこの近木川沿いにいくつもの出城を作っていました。松永久秀が三好三人衆と対立していたこともあり和泉をおさえるために築いたようです。水間鉄道の名越駅のすぐ近くにあるのが高井城跡。もともとは高井天神廃寺があったようで、寺跡を出城にしたようです。本丸、二の丸があったようですが現在は遺構が残っておらず高台になっているだけです。
秀吉の紀州攻めでは高井城に200名の農民が立て籠もりました。岸和田城に入った秀吉は、すぐに出城攻めを開始。高井城は福島正則軍に攻められ落城したようです。
岸和田古城
二上山城(雌岳)
太子町巡りの最終目的地が二上山の山頂にある二条山城。
岩屋から二上山城の雌岳を目指します。二上山には二つの頂上があり、高い方が雄岳で低い方が雌岳、山城巡りに行くのはいいのですが山道をひたすら登らないといけないのが、しんどいですなあ。二上山城は大和と河内の両方を見渡せる絶好の場所で、写真は雌岳から見た大和三山。
二上山に城郭を築いたのは楠木正成で楠木氏河内国七城の一つと言われていますが、どうですかねえ。河内国守護だった畠山氏が古市に作った高屋城(平丘城)の支城として二上山城を作ったのでしょう。雄岳の城郭が大きく、雌岳は二上山城のさらに支城、出城のような感じですが竹内街道を監視することができます。近くに信貴山城があり、一緒に運用されていました。木沢長政が改修した時代の遺構が残っていますが、木沢長政が三好長慶軍に討ち取られた太平寺の戦いで二上山城も落城した模様です。
雌岳の遺構ですが頂上の郭や帯郭跡が3つほど残っています。雄岳も登ろうとしましたが、さすがに力尽きて山道を降りてきました。リベンジしなくっちゃあ!
信長が焼いた枚岡城
全国に一宮があります。一宮とは、その地域で最も社格の高いとされる神社で大和国なら三輪神社、摂津国なら住吉神社になります。河内国の一宮が枚岡神社で、ウチの近くなので散歩コースにしています。枚岡神社は生駒山の山裾にあり、高低差がかなりありますので城には最適な土地だなと思っていたら城があったようです。
阪神高速東大阪線、東の端が水走出入口で、そのまま走ると第二阪奈になります。この地名の元になったのが水走氏。今は陸地ですが昔は大和川が流れ、古代河内湖の残りもあり水運が発達したところでした。
■信長が焼いた枚岡城
水走氏は河内国、大和国の一部(現在の東大阪市、大東市、八尾市、生駒市など)を支配する豪族で武士団でした。中臣氏と同流の平岡連の末裔と言われています。枚岡神社は中臣氏祖神となる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っており、代々、水走氏が枚岡神社の神職をつとめています。
水走系図に枚岡神社宮司だった水走左近有忠は信長の怒りをかい、信長は大軍をさしむけて”枚岡城”や有忠の屋敷を焼き、有忠は大和の筒井に去ったという記載があります。館城だと思いますが枚岡城があったんですねえ。
平野環濠
大坂の古地図を見ると、必ずあるのが平野の文字。古代から栄えた集落です。坂上田村麻呂の次男である坂上広野麿が”薬子の変”の武功でこのあたりの土地を得て開発しました。広野麿の広野(ひろの)が平野(ひらの)という地名に転訛したと言われています。広野麿ですが、酒の飲み過ぎが原因で死んだといわれています。平野は500年間、宇治平等院の寺領でした。
戦国時代には7つの集落を集めて一つの郷とし、郷の周囲に町の周りに二重の濠と土居を巡らせ防御を整えて自治都市となりました。堺と同じ環濠自治都市です。堺と同様に織田信長から矢銭を要求され、最初は断っていましたが抵抗できず支払うことなります。環濠には13ヶ所の出入口が設けられ各地への街道に接続されていました。大坂の役では、平野に徳川秀忠の陣がおかれたこともあり、戦場となり町は焼け落ちましたが復興されました。
環濠は大正時代ぐらいまで残っていたようですが、昭和になって埋め立てられてしまいました。一部が復元されています。
大阪城 石垣の謎の穴
大阪府よろず支援拠点からの帰り、大阪城の南外堀横を通って森ノ宮駅へ出ています。大阪城公園は緑が多く、なかなか快適です。
いつも通る二の丸南面側の六番櫓近くの石垣にポッカリ穴が空いています。これが大阪城の謎の一つ。大坂の陣で真田幸村が城内から外へ通じる秘密の抜け穴を掘ったという伝説などが残っていますが、この穴はどの資料にも出てこず、昭和34年に行われた調査まで誰も気づいていませんでした。私なんか通るたびに気になるのですが、当時は埋まっていたんですかね。
石垣から積み石一個分が抜かれており、約90cm四方の穴ですから大人でも入れます。中は2mほど入ったところが崩れて行き止まりになっており、木の柱らしきものがあり人工的に掘られた穴のようです。
誰が穴を開けたのでしょうか。徳川が大阪城を再建した時、この周辺の石垣を担当したものが開けたのか、明治になってから大阪城には帝国陸軍第四師団がおかれましたので陸軍が開けたのか分かりません。
そもそも穴の目的が分からず今も謎になっています。大阪城の周りは散歩やランニングしている人が多いのですが、いろいろと面白いものがころがっています。