足利義昭、信長ゆかりの若江城

若江城
河内国若江郡(現在の東大阪市)にあったのが若江城。残念ながら碑しか残っていません。
織田信長に京から追放された15代将軍足利義昭が送り届けられたのが若江城。信長の命を受け羽柴秀吉が警固しながら三好義継が守る若江城に足利義昭を送り届けます。足利義昭は、ここから毛利の鞆へと落ちていきます。この後、織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、若江城は織田信長の城となります。若江城は信長の大坂での拠点で、石山本願寺との戦いでは最前線基地でした。
明智光秀らが守っていた天王寺砦が石山本願寺に攻められて、もうじき落城しそうと言われた時に信長は若江城で軍勢が揃うのを待っていましたが、時間がないため、わずかな手勢を引きつれて若江城から出陣し、本願寺勢を強襲して天王寺砦を助け出します。石山本願寺との和睦が成立した後、必要がなくなり若江城は壊されてしまいます。もともとは河内守護となった畠山基国の守護所から出発した城で200年にわたり使われました。
大坂夏の陣では、若江城あたりで八尾・若江の戦いが行われ、若き木村重成が討死します。

家のすぐ近くにある足立氏館

足立氏館
朝から書類作成していましたが、午後は雨もあがったので自転車でお出かけ。
先日、東高野街道の歴史本を見ていたら阪奈道路近くに戦国時代の館跡があることを発見!”家の近くだ~”と行ってきました。場所は善根寺6丁目で阪奈道路の大阪側入口の近くです。象印大阪工場や神武天皇が奈良へ攻め入った盾津の碑が近くにあります。
戦国時代に織田信長・豊臣秀吉に仕えた足立昌成が、大坂築城の際には石奉行に任じられて、河内善根寺村に移り住んだそうです。近くには大坂城築城で使われなかった残念石が残っていますので、ここらへんの石材を切りだしていたんですね。2代目宗佐も普請奉行で、以後、足立氏は在地豪族となったそうです。
館跡ですが、平城になっていて敷地の周りは堀に囲まれ完存しています。Googleマップで見ても掘がよく分かります。今も敷地には人が住んでいるので入れませんが、外から堀が眺められます。こんな館跡がすぐ近くに残っていたんですねえ。

茶臼山 真田信繁陣跡

茶臼山
天王寺公園の中にあるのが茶臼山。大坂冬の陣では徳川家康の陣がおかれ、夏の陣では真田信繁の陣がおかれ、ここから徳川勢に突撃しました。小高い丘でハルカスが目の前ですから松平忠直など阿倍野に陣をかまえた徳川勢がよく見えたでしょう。
茶臼山に入るには天王寺公園の入場料がいりましたが、現在は無料で開放されています。茶臼山は古墳と言われていましたが、発掘すると徳川家康が陣で作った台所跡などが出てくるだけで古墳説には疑問がついています。
茶臼山横にある河底池は和気清麻呂が大和川の流れを変えようとして失敗した跡だと言われています。近鉄に河堀口駅があり、ここから上町台地開削工事をはじめました。和気清麻呂といえば宇佐八幡の神託を伝え、道鏡の皇位就任をはばんだとして有名で戦前は拾円紙幣の肖像画になっていました。大和川の付替えは江戸時代の中甚兵衛によって、ようやくなしえました。

我孫子城

あびこ観音
企業さんへ訪問した後、我孫子へ。
我孫子は上町台地の南端になっていて、少し微高地になっています。今は環濠がなくなってしまいましたが、戦国時代は我孫子環濠集落になっていました。地下鉄・御堂筋線が通っていて「あびこ駅」があります。
戦国時代の始まりとなった明応の政変があった頃から、我孫子は軍勢の駐屯地になったことから、いろいろな古文書に登場します。環濠集落の一角にあったのが我孫子城です。城跡は何も残っておらず「あびこ観音」して親しまれている吾彦山大聖観音寺の境内が我孫子城の城域であったと言われています。
615年、大阪夏の陣があり真田信繫の突撃にあった徳川家康が「あびこ観音」に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れて難を逃れたという話があります。

摂津 沢良宜城

沢良宜城
阪急南茨木駅から少し行ったところにあるのが沢良宜城跡。城跡はマンション群になってしまい、マンション横の公園に案内版が建っています。2つの川に囲まれた要害の地に城跡があり、案内版には足利義満が将軍の時に起きた応永の乱について掲載されていました。
応永の乱とは周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護だった大内義弘が、室町幕府に反旗をひるがえし堺に攻め上ってきた事件です。結局、鎮圧されるんですがこの時に沢良宜城主だった藤井三位が将軍の馬廻り衆として出陣したとあります。
沢良宜城は、応仁の乱の頃には廃城になっていたようです。けっこう大きな城で環濠の砦だったようで微高地に作られていました。古い字名に”城ノ内”や”城ノ前”というのが残っていたようです。
マンション横に南北に伸びた佐和良義神社がありますが、ここが馬場跡だったようです。近くに道祖神社があり、裏手に土塁のようなものがあったので、ここは出城だったかもしれません。

石山本願寺跡

石山本願寺跡
大阪商工会議所での理論政策更新研修が終り、近くにある大阪城を通って帰ってきました。
現在の大阪城は徳川時代のもので地下には豊臣時代の大坂城が眠っています。さらにその前にあったのが石山本願寺。
もともとは山科に本願寺がありましたが、本願寺派は細川晴元の援軍要請をうけて木沢長政が守る飯盛山城を攻めます。ところが本願寺派の大きな勢力に危惧をいだいた細川晴元は方針を変え、法華一揆衆や近江守護六角氏に援軍を要請して山科本願寺を攻めて落城させます。
山科本願寺から大坂に拠点を移し石山本願寺となります。裏切った細川晴元や三好長慶との戦いは続き、この時に城郭として整備がすすみます。やがて和議となりますが、この後に織田信長との戦いになりますが、城郭となっていた石山本願寺はなかなか落城せず、10年戦争に突入します。真田丸の時代以前にいろいろと戦いのあった土地です。

堺台場跡

堺台場
堺に台場があったことをご存じですか。
■台場とは
台場とは大砲を備えた防塁のことで、今の大浜公園(南海本線堺駅の近く)の場所に造られ、遺構も残っています。幕末、ペリーによる黒船来航から国防が意識され日本各地で台場整備がすすみます。長州藩では関門海峡に築いた台場から異国船に向かい攘夷実行を行い、馬関戦争を引き起こしています。
台場で有名なのが”お台場”にある台場公園。近くにはフジテレビや湾岸警察署があります。台場公園は東京湾上に造られた第三台場跡で、陣屋跡や弾薬庫跡が残っています。私の郷里の津には岩田川沿いに贄崎砲台、塔世川沿いに西浦砲台が造られ、贄崎砲台の土台が一部残っています。
■大阪に異国船が来訪
黒船によるペリー来航に引き続き、 今度は大阪・天保山沖にロシア使節プチャーチンが来航しました。京都に近い大阪港に異国船が来たことから朝廷では大騒ぎになります。朝廷の要望もあり江戸幕府は大阪湾各所に台場を築きかれ西宮砲台、和田岬砲台は当時のまま残っています。
■堺台場
堺砲台が造られたのが今の大浜公園がある場所で、彦根藩によって稜堡式城郭が造られました。大浜公園の半分ほどが城郭で、大砲8門が備えられました。当時の石垣が阪神高速湾岸線大浜ICの出入口南側と公園内の菖蒲園に残っています。単なる石垣なので大浜公園で遊んでいる人はそんなものがあったとはたぶん知らないでしょうねえ。

登城口がなかなか見つからない山下城

山下城
能勢電鉄に揺られて山下駅へ。駅から山の麓へ歩くと平野神社があります。山城の地図を見ると、この平野神社の裏山あたりで、山道を登りはじめます。山道のところどころに地蔵があり、33ケ所巡りができるような形になっています。さて頂上ちかくに登ってもとんと山城跡がありません。おまけに野生の鹿が出てくる始末。どうも山を間違えたようで、もう一度、下って平野神社まで撤退。
平野神社の奥の方へ行くと「山下城」と小さな木札がかかっているのを発見。”これだ”と歩きはじめると、途中から沢道になってしまいました。しかも、さっき頂上まで行った山につながっているようです。”こりゃ、違うなあ”と山道で行くのはあきらめて、崖の直登を開始。20メートルほど上がると山道を発見。これが城につながる道だろうと歩いていくとピンポン。なんですが、着いたのは城を守るために造れらた二重堀切の跡。見上げると櫓跡のようなものが見えます。山道を行くとかなり回り道になりそうなので、今度は切岸の直登を開始。10メートルほど登ると主郭の櫓跡に着きました。
■獅子山城、一庫城
山下城は獅子山城、一庫城とも呼ばれていたようで、もともとは源頼仲が造った城のようです。源頼仲の婿だった塩川氏が代々、城主になっていたようです。南北朝時代から戦国時代にかけて攻城戦が行われました。まだ細川春元の部下だった三好長慶が三好政長、波多野秀忠らと共に山下城の塩川政年を包囲して戦ったりしています。秀吉の時代まで城はあり、その後に破城になりました。
主郭は公園になっていますが土塁も櫓跡も残っています。いくつも曲輪があり、多くは畑や神社になっていますが、曲輪の形は見事に残っています。写真は主郭からずっと下ってきた七の段にある愛宕神社から眺めた能勢の風景。能勢街道をおさえる城でした。
山から下り、ようやく山城への入口を発見しましたが、「あぶない」という立て看板が立っているだけで、道かどうかも分からない入口。こりゃ気がつくのは無理ですねえ。やっぱり迷ったら直登ですなあ。(笑)直登は体力を使いますので良い子はやめましょう。

日本の国名ができた時代に造られた高安城(古代)

高安城
中世の高安山城から信貴山城へ行く途中にあるのが高安城倉庫跡です。山の上に倉庫の礎石跡が残っていて、ここに7つほどの倉庫があったようです。
■白村江の戦いの後に造られた城
日本史で習いましたが663年の白村江(ハクソンコウ)の戦いで大和・百済連合軍は大敗北。国家存亡の危機に唐・新羅などの侵攻に備えて高安城、屋嶋城(讃岐)、金田城(対馬)を築いた話が日本書紀に出てきます。
倭国は唐と戦後処理を行い、友好関係を目指しますが、そこはどうなるか分かりません。国内では飛鳥浄御原令の制定など律令国家などを急速に進め、国家体制を充実させます。国名も倭国から日本に変えます。そして最後の防衛線として造られたのが高安城です。
■ずっと幻の城だった
高安城は日本書紀に記載されていますが、場所が分からず幻の城と言われていましたが、市民グループ「高安城を探る会」が発見したのが倉庫群。ただ発掘調査したところ廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物であることが判明します。それでも大仏開眼や正倉院よりも以前の話なんで、すごいんですがあ。
ところが1999年に100メートル以上も続く石垣が地元の研究者によって発見されます。調査が進むと城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城だった模様で、東西も1.2kmあったようです。こうなると高安山一体が城跡ということでホンマかいな!!
■壬申の乱の舞台にもなる
壬申の乱というと不破の関での戦いなどが有名ですが高安城も戦場になりました。近江朝廷軍が支配していた高安城を大伴吹負の兵が攻め占領します。朝廷軍が難波から攻め込んできたので高安城から下り、難波から攻めてきた朝廷軍と石川で戦います。
大坂の陣では後藤又兵衛が石川を渡り、小松山で徳川軍と戦いますが、昔から要衝の地だったんですね。

高安山城(中世)

高安山
高安山に登り生駒山縦走路にぶつかります。この縦走路沿いに歩くと丸いドームが印象的な高安山気象レーダー観測所があります。大阪の街からも見えます。
この観測所のすぐ近くに高安山山頂があり、ここに高安山城跡があります。生駒山縦走路が城の真中をつっきっており中世は路ではなく堀切だったようです。以前に通ったことがあるんですが、ここが城跡とは全然気づきませんでした。
今回は地図を調べていったので、路から少し崖を登ると曲輪と曲輪の間の堀切に入れます。曲輪の土塁も残っていて、なかなか見事です。奥にも曲輪があり、かなり大きな城です。高安山山頂にも曲輪があったのですが、こっちはあんまり痕跡が残っていません。
字は出城になっていて信貴山城の出城だったようです。そうなると造ったのは松永久秀でしょう。高安山は標高488mあり、信貴山の標高より高いので大阪よりの防備を固めたのでしょう。高安山城から30分ほど山道を歩くと信貴山です。