月所丸

香川元太郎氏という城郭イラストを書いているイラストレータがいます。雑誌「歴史群像」に「戦国の城」シリーズを書いていて、昔、小谷城の月所丸が載っていました。これがなかなか鄙びた絵で、尾根筋を二重堀切で断ち切った監視所が、なんとも儚げでした。

月所丸
月所丸

ということで小谷城に登ったなら月所丸まで行かなければ!
ハイキング客のほとんどは本丸でリターンして帰ります。小谷城の大堀切を超えて京極丸、小丸、山王丸まで足をのばすのは、歴史好きですね。さらに山王丸から崖道を降りて、一番北側にある月所丸まで巡る人間はまずいません。山王丸のまだ向こうに六坊があり、この六坊からは崖沿いの細い山道しかありません。

城を防御するための道なので仕方ないですね。人が行き違いするのが、けっこう難しい道で、この山道を進んでいくと一番北側にある尾根筋を守る月所丸にたどり着きます。写真では分かりにくいですが、尾根道を見事な二重堀切で切っています。

小丸

京極丸のすぐ上にあるのが小丸。浅井久政が自決した所です。

小丸
小丸

浅井久政は信長モノの映画やドラマなどに浅井長政の父親として登場し、けっこう年配の俳優が演じていますが亡くなったのは48歳。浅井長政が29歳ですので、そんなものでしょう。京極丸を落とした秀吉軍は浅井長政軍と浅井久政軍との分断に成功。そのまま浅井久政が籠る小丸を攻撃します。久政は最後を悟り、部下が侵入をくい止める中、自決します。

浅井家は朝倉家と織田家の両方と同盟していましたが信長が朝倉と戦うようになった時、朝倉との同盟を守ったのが浅井久政です。浅井・朝倉が信長に勝ったら徳川家康のように同盟を守った律儀者と評価されていたでしょうね。元亀争乱では信長もけっこう危ない時が何回もありました。

京極丸

小谷城にある京極丸です。京極という名前でピーンときた、あなたは偉い!そうです、守護の京極氏です。

京極丸
京極丸

京極丸とは京極氏を小谷城に住まわせていたことに由来します。近江源氏の佐々木氏は京極氏と六角氏に分かれます。バサラ(婆沙羅)として有名な佐々木道誉は京極氏でした。京極氏は守護として近江の北半分を支配していましたが、力を落とし浅井氏が台頭してきます。しかし家柄の面で皆が納得がえられないので浅井亮政(浅井長政の祖父)は京極氏を名目上の守護と仰いでいました。

大河ドラマ「麒麟がくる」で齋藤道三が土岐氏を当初は表向きはたてていましたが、あんな感じです。織田家の清州城でも守護の斯波氏を迎える間がありました。この京極丸は大堀切のすぐ横で、秀吉がここを抑えて本丸と小丸を分断したのが小谷城攻めの決定打となりました。

京極氏は没落していましたが浅井三姉妹・初の旦那だった京極高次が関ケ原の戦いの前哨戦となる大津城の戦いで立花宗茂を釘付けにしたことから国持大名に返り咲きます。

小谷城 大堀切

小谷城の本丸北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大堀切があり。ここから上部と下部を明確に分断しています。ようこんな堀切を造りましたね。すごい土木量です。

大堀切
大堀切

本丸を中心に活躍していたのが浅井長政で上部にいたのが父親の浅井久政です。まあ2世代住宅みたいなものなので大堀切で区分けしていたのでしょう。

織田信長の小谷城攻めでは、秀吉が夜半に清水谷からこの中心部に攻め込み、浅井久政が籠る小丸と、浅井長政が籠城する本丸を分断し、落城に追い込むことになります。

金吾丸

金吾とは朝倉宗滴のこと。朝倉宗滴は3代にわたって朝倉氏当主を参謀格としてよく補佐し、各地を転戦し朝倉氏の武名を高めました。最後は実質的に当主の役割でもありました。朝倉宗滴の雑談をまとめたものが「朝倉宗滴話記」で、合戦,治政,修身などについての戦国武将の処世観を今に伝えています。「家柄でなく、その者の能力によって人材を登用せよ」という言葉が残っています。

金吾丸
金吾丸

大永5年(1525年)朝倉宗滴は浅井氏と六角氏との調停のため小谷城へ入り、一角に金吾丸を造って5ケ月にわたって在陣します。浅井亮政をよく助け、これ以降、朝倉・浅井家は固い絆で結ばれることになり、最終的に信長を裏切ることになります。金吾丸は城域に入る手前に造られていて小谷城の主郭を目指すハイカーなどは誰も立ち寄りません(笑)。

朝倉宗滴は茶器・九十九髪茄子を持っていたこともあり、松永久秀に伝わり織田信長に臣従した時に献上しています。

小谷城 浅井長政自刃の地

近江・小谷城、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の舞台です。

浅井長政自刃の地
浅井長政自刃の地

茶々、初、江の浅井三姉妹が生まれた城でもあります。父親である浅井長政が叔父の織田信長を裏切ったことから争いになります。浅井と朝倉は祖父の代からのつきあいで、なんぼ信長の妹を娶っても、今までのつきあいを無視するわけにはいかなかったようです。

浅井・朝倉と戦うことになった信長は危ない場面が何度かありましたが、天正元年(1573年)7月、信長の軍勢により浅井長政は自害することになります。信長は降伏勧告を行ったようですが断り、主郭から出陣。浅井長政は主郭には戻れず主郭のすぐ下にある赤尾屋敷で自害します。主郭から赤尾屋敷に行くには切岸の細い道を歩くしかなく自害する時間稼ぎになったようです。

お市の方と三姉妹は叔父・織田信包の伊勢上野城で保護を受けたと大河ドラマで描かれていましたが、近年では織田信次に預けられ、守山城に滞在していたようです。

長法寺城

長法寺は戦国時代頃に廃絶となったようですが、寺域の入口に山城が造られています。それが長法寺城。高島方面から山道をひたすら登った先にあります。もともとは坊があったようで急遽、山城に造り替えたようです。3つの郭が連格式でつながり、入口は堀切を進む形になっています。寺側の入口は食い違い虎口になっていました。

長法寺城
長法寺城

長法寺は石垣の寺ですが、長法寺城は土の城で、急ごしらえで造ったのでしょうね。打下城方面からの攻撃には特に備えていないので、一帯で運用していたとすると織田信長との戦いに巻き込まれていたのかしれません。

幻の坂本城

1571年(元亀2年)に比叡山焼き討ちが行われた後、織田信長が光秀に近江国滋賀郡を与え、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権をおさえるように命じました。この時に造ら得たのが坂本城で琵琶湖に面した水城で、城から船で安土に向かうことができました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも出てきましたね。現在は石垣の一部が琵琶湖に残っています。

坂本城

坂本城は宣教師ルイス・フロイスが安土城につぐ天下第二の城と評した城でもありました。織田信長が安土城を造る前に天守の試作をしたようで大天守(信長用)と小天守(光秀用)の2つがあったとみられています。

本能寺の変の後も秀吉の城として使われましたが、やがて新たに大津城を造ることになり廃城となり、資材は大津城築城に使用されます。大津城は関ケ原の合戦の舞台となりましたが、こちらも廃城となり、家康は新たに膳所城を築り明治まで残りましたが、現在は碑だけになっています。

白鳥山城

「近畿の城郭」を読むと壺笠山城の西140mの所に別の城跡があると記載されていたので、尾根道を降りて、もう一度、尾根道を登り白鳥山城へ行ってきました。尾根道からは琵琶湖が一望でき、琵琶湖大橋もよく見れます。

白鳥山城
白鳥山城

平安時代以前から京都の一乗寺と近江の坂本を結ぶ白鳥越え(しらとりごえ)という道がありました。重要な街道でしたので道沿いに将軍山城、一乗寺山城、一本杉西城が造られています。この街道をおさえるところに主郭がありました。主郭は30m×20mほどの広さで、今は雑木が一杯で眺めは期待できませんが、当時は辺りが一望だったでしょうね。小規模な段郭が5段ほどあり、石垣跡も残っていました。

戦国時代以降、別の街道が使われるようになり白鳥越えは使われなくなります。

壺笠山城

志賀の陣の舞台となった壺笠山城。

壺笠山城
壺笠山城

織田信長が朝倉義景、浅井長政と対峙したのが志賀の陣。まず朝倉・浅井連合軍が南下して坂本方面に出陣してきました。坂本港を守るために宇佐山城から出陣してきた森可成(森蘭丸のお父さん)が討ちとられます。朝倉・浅井軍が動いた知らせが摂津攻めをしている織田信長に届き、信長が急遽、宇佐山城へ戻ったため落城せずにすみました。

■壺笠山城
朝倉・浅井連合軍は宇佐山城近くの「はちが峰」、「あほ山」、「つぼ笠山」に着陣します。3つのうち位置が判明しているのが「つぼ笠山」にあるのが壺笠山城です。両者ともに膠着状態となり和議を結びますが、和議を結んだのがこの壺笠山城です。それはよいのですが、こんな山城まで和議とはいえ登るのはしんどいなあ。ちちんぷいぷいではありませんが「昔の人は偉かった!」。

白鳥越えといわれる間道が当時あり、京都と坂本を結んでいました。この間道から頂上を目指すと壺笠山城があります。城域に入ると削平地が続いていて、ここに朝倉・浅井連合軍の兵が駐屯したのでしょう。壺笠山城の主郭は円郭式になっていて石垣が積まれています。朝倉・浅井が陣城に使ったのなら石垣は必要ないため、後に坂本を支配した明智光秀が改修したものでしょう。城からは琵琶湖や宇佐山城方面を見ることができます。