伏見城の唐門

伏見城の唐門
伏見城の唐門

五条の正面通りを真っすぐ東へ行くと豊国神社があります。明治になり徳川の世でなくなってから豊臣秀吉を祭神とし創建されました。

豊国神社の唐門は南禅寺の金地院(塔頭)から移築されましたが、もともとは伏見城にあった唐門と言われています。金地院!黒衣の宰相である、あの金地院崇伝ですねえ。

秀吉が最初に造ったのが指月伏見城で慶長伏見地震で倒壊してしまいました。大河ドラマ「真田丸」でやっていましたね。近くに再建したのが木幡山伏見城です。秀吉が亡くなり、関ケ原合戦の前哨戦として伏見城が西軍に攻められ木幡山伏見城は焼失します。

跡地に家康が伏見城を再建し、1619(元和5)年に廃城となりますが唐門は二条城に移築され、その後、金地院に移築されたようです。国宝になっていて、なかなか豪勢な門ですねえ。

将軍山城

将軍山城
将軍山城

250段の階段を上がると狸谷不動院がありますが、狸谷不動院のさらに奥に山道があり、山道を登りきると将軍山城(北白川城、瓜生山城)があります。

幸龍大権現の社がある所が主郭跡で、付近は京都一周トレイルコースにもなっており、ハイカーや山道を走っている人がたくさんいます。もっとも山道からはずれて城巡りをしている人は皆無です(笑)。将軍山城には尾根沿いに、たくさんの郭があり、また付近には他に5つの城がある城塞群になっています。

■有名武将オンパレードの将軍山城
将軍山城を造ったのは細川高国で近江から京都へ攻め入る拠点として築きました。細川高国が大物崩れ(尼崎駅の手前に大物駅があります)で自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元が城を奪います。細川晴元といえば先日の「麒麟がくる」で三好長慶を襲っていた人物です。

それ以前に細川晴元と第12代将軍足利義晴が対立するようになり足利義晴が将軍山城を大幅に修復した記録が残っています。その頃は晴元の家来だった三好長慶軍が城攻めをしています。信長の時代には信長包囲網となった志賀の陣で、明智光秀が将軍山城に入って数カ月、延暦寺を牽制していました。

千草忠顕

水飲対陣碑
水飲対陣碑

京都一周トレイルから雲母坂城へ行く途中に水飲対陣之碑があります。

湊川の戦で楠木正成が討死し、京都へ迫るなか後醍醐天皇は比叡山に移ります。東坂本(琵琶湖側)を新田義貞と名和長年が守り、西坂本(京都側)を後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。千種忠顕は武芸に秀でた公卿で、後醍醐天皇が隠岐島に流罪になると随従し、ずっと後醍醐天皇を助けた人物です。

■水飲対陣
尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂で激しい戦いとなります。水飲対陣之碑があるあたりは音羽川のせせらぎが聞こえる場所で、水飲という名前がついたようです。足利義直が陣を構え、千草軍を目指して三方から攻めあがりました。千種軍は全滅し、忠顕も討死します。

■菰野の千草城
御在所岳の麓にある菰野に千種城があります。千種忠顕は三重郡二十四郷を与えられており、息子の千種顕経によって千種城が築かれたと伝わっています。

修学院・雲母坂城

修学院・雲母坂城
修学院・雲母坂城

一乗寺城から京都一周トレイルコースに入って山をいくつか超えると雲母坂へ向かう登山道があります。この登山道を進んでいくと雲母坂があり、ここに山城がありました。修学院離宮の脇より比叡山山頂に至る古道で、この古道を登ってくる敵を撃退するための城でした。

それほど大きな山城ではありませんが、道を効果的に攻撃できるように郭が並びます。雲母坂から一乗寺城へ回り込めるために、雲母坂を防衛する必要があり一乗寺城と同時期に造られたようです。ですので造ったのは浅井・朝倉連合軍でしょう。

■志賀の陣
三好三人衆を攻めていた織田信長に突然、襲い掛かってきたのが石山本願寺。摂津で動けなくなった信長に対して浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて動きます。迎え撃ったのが宇佐山城の森可成(森蘭丸のお父さん)で討死しましたが宇佐山城は守られました。

浅井・朝倉連合軍は山科まで進軍して京都を狙います。知らせを受けた信長は摂津戦線から撤退して京都へ向かうと浅井・朝倉連合軍は比叡山へ後退します。この時に使われた陣城の一部が一乗寺城と雲母坂城だったようです。

信長は比叡山に対して味方につくか、ダメなら中立を守ってほしい、浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちにすると通告しましたが、返事はありませんでした。「麒麟がくる」でもハイライトになる比叡山焼き討ちは志賀の陣が発端となります。

一乗寺城

一乗寺城
一乗寺城

曼殊院門跡寺院の奥から比叡山への登山道があり、これを登っていくと比叡山トレイルコースにぶち当たり、この道沿いに進んで途中から尾根に入ると一乗寺城に入れます。

一乗寺城は2つの城域に分かれていて、間を京都と坂本を結ぶ白鳥超えの道が走っています。地元の国人である渡辺氏の城という説もありますが、志賀の陣で織田信長と対抗した朝倉・浅井連合軍が作った陣城の一つではないかという説もあります。信長にとっては苦しい戦いで、この後、比叡山の焼き討ちになります。

一乗寺城は土塁などがありますが、技巧に凝っているわけではなく臨時的に作られた陣城の可能性が高そうです。

鬼ノ城

鬼ノ城
鬼ノ城

岡山で仕事だったので、ついでに鬼ノ城へ行ってきました。古代の朝鮮式山城です。

白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し、国家存亡の危機に陥ったため全国に造られた山城の一つです。大阪では高安城が造られました。

麓に砂川公園があり、レンターサイクルを置いて、ひたすら3.5kmの道を登ります。案内では東海自然歩道とあったのに歩いてみたら細い車道になっていて、時たま鬼ノ城に行く車に追い抜かれます。割とだらだらとした坂道なんで、帰りのことを考えたらレンターサイクルを持ってきたらよかった。道沿いにお地蔵さんがマイルストーンのようにあり、これを見学できるのは徒歩者だけですね。

鬼ノ城は発掘調査され西門などが復元されています。門は全部で4つあり、周囲を1時間ぐらいで巡ることができま、これがなかなか楽しめます。眺めはとってもいいですねえ。

五条野城

五条野城
五条野城

近鉄岡寺駅近くに丸山古墳があったのを思い出し、それぐらい見ていこうと坂を登り始めると、あったのは八咫烏神社でした。一本道を間違えていました。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、別名が八咫烏です。神武天皇を熊野から大和まで案内した導きの神様です。

戦国時代、この八咫烏神社は城として活用されました。五条野城で、国民だった五条野氏の居館跡と考えられています。1475年に越智氏・古市氏とともに筒井方と戦って破った記録が残っていますが詳しいことは分かっていません。八咫烏神社の周囲を土塁と堀が巡っていたようで痕跡が境内に残っています。

上居城(多武峰城塞)

上居城
上居城

談山神社・西口から飛鳥へハイキングコースが整備されていますが、そちらではなく旧の多武峰街道に入ります。もっとも街道とは名ばかりの山道です。念誦崛(ねづき)城を過ぎて少し行くと道が分岐していて万葉展望台まで1kmと立札があります。この道が飛鳥の岡寺と多武峰を結ぶ街道で、道沿いに6つほどの城があります。城名がついていませんが字名が上居なので上居城とでも言うしかなさそうです。

山城にはてんで役に立たないGoogleマップではなく、地理院の地図とGPS追跡システムをアプリに入れているので山城探しはバッチリです。6つの城を巡ろうと考えましたが、どう考えても街道から直登するしかない城が3つあったので早々にあきらめました。

この中で一番、見やすいのが万葉展望台で、飛鳥や二上山、當麻などを一望できます。この展望台が城の主郭でした。郭の周りには堀切や他の郭もあり、楽しめます。もう一つ岡寺近くに街道の両方に拡がる城があり、郭がいくつも広がっています。一番、飛鳥に近い城なので、この城が最前線でしょう。実は飛鳥の岡寺にも城があります。岡寺前の県道15号線を少し南に行くと次の丘陵になります。県道から丘陵下の常谷寺へ向かう階段があり、この階段横から岡城の空堀に入れます。郭は単郭で、多武峰城塞群とは関係あったのでしょう。

冬野城(多武峰城塞)

冬野城(多武峰城塞)
冬野城(多武峰城塞)

談山神社・西口から冬野へ向かう山道があり、これをどんどん登っていくと冬野城へ行けます。もっとも冬に、こんな山道は登る酔狂な人はおりません。冬野城は多武峰城砦群の中でも最大の規模で、南の吉野方面への備えの城になっています。平安時代末期には早々と築かれていたようです。多武峰は各峰に城が造られ、記録に残るだけで三度の多武峰合戦が行われました。

南北朝時代、多武峰は南朝の遺臣に占領されてしまい反幕府の拠点にされてしまいます。永享9年(1437年)から始まる「大和永享の乱」(越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦)では幕府軍に焼かれて全山全焼してしまいます。他にも永正3年(1506年)の幕府に派遣された赤沢朝経に対する大和国人一揆の抵抗戦(十市氏、越智氏、箸尾氏)、永禄2年(1559年)からはじまる松永久秀に対する十市氏の抵抗戦でも攻城戦となりました。

山道を登り冬野にたどり着きましたが、郭がある電波塔に入る道は塞がれていて入れません。集落の人に聞いたら登るしかないということなので、結局、郭まで直登でした。波多神社の境内があるところが郭の一つですが、境内の先に堀切を隔てて主郭がありました。たくさんの郭が造られており、各尾根筋には堀切がいれられています。見事なのが談山神社へつながる尾根筋で、3つの大きな堀切で尾根筋を断ち切り、そのまま山の下まで続く竪堀がありました。すごい工事だったでしょうね。

念誦崛城

念誦崛城
念誦崛城

念誦崛は「ねづき」と呼びます。今は地名ですが仏教用語からつけられたんでしょう。今昔物語集に「多武峰(とうのみね)の増賀聖人のこと」という説話があり、狂気の僧として有名でした。この増賀上人の墓が念誦崛にあります。伝承ではここに斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)がありました。

増賀上人の墓の北側尾根上に西の守りとして念誦崛城がありました。多武峰城塞群の一つです。まず城内に入るのが大変です。墓の裏から高い土塁を登ると藪だらけの空堀があり、堀を抜けるとまた高い土塁に阻まれます。こんなところを攻めたら一発でやられます。

ようやく城内にはいると郭がいくつもあり、見事な堀切で区切られています。一番、奥の郭まで行こうと思いましたが、さすがに藪が多く、断念し、あきらめで帰ってきました。