小谷城の本丸北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大堀切があり。ここから上部と下部を明確に分断しています。ようこんな堀切を造りましたね。すごい土木量です。

本丸を中心に活躍していたのが浅井長政で上部にいたのが父親の浅井久政です。まあ2世代住宅みたいなものなので大堀切で区分けしていたのでしょう。
織田信長の小谷城攻めでは、秀吉が夜半に清水谷からこの中心部に攻め込み、浅井久政が籠る小丸と、浅井長政が籠城する本丸を分断し、落城に追い込むことになります。
小谷城の本丸北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大堀切があり。ここから上部と下部を明確に分断しています。ようこんな堀切を造りましたね。すごい土木量です。
本丸を中心に活躍していたのが浅井長政で上部にいたのが父親の浅井久政です。まあ2世代住宅みたいなものなので大堀切で区分けしていたのでしょう。
織田信長の小谷城攻めでは、秀吉が夜半に清水谷からこの中心部に攻め込み、浅井久政が籠る小丸と、浅井長政が籠城する本丸を分断し、落城に追い込むことになります。
金吾とは朝倉宗滴のこと。朝倉宗滴は3代にわたって朝倉氏当主を参謀格としてよく補佐し、各地を転戦し朝倉氏の武名を高めました。最後は実質的に当主の役割でもありました。朝倉宗滴の雑談をまとめたものが「朝倉宗滴話記」で、合戦,治政,修身などについての戦国武将の処世観を今に伝えています。「家柄でなく、その者の能力によって人材を登用せよ」という言葉が残っています。
大永5年(1525年)朝倉宗滴は浅井氏と六角氏との調停のため小谷城へ入り、一角に金吾丸を造って5ケ月にわたって在陣します。浅井亮政をよく助け、これ以降、朝倉・浅井家は固い絆で結ばれることになり、最終的に信長を裏切ることになります。金吾丸は城域に入る手前に造られていて小谷城の主郭を目指すハイカーなどは誰も立ち寄りません(笑)。
朝倉宗滴は茶器・九十九髪茄子を持っていたこともあり、松永久秀に伝わり織田信長に臣従した時に献上しています。
近江・小谷城、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の舞台です。
茶々、初、江の浅井三姉妹が生まれた城でもあります。父親である浅井長政が叔父の織田信長を裏切ったことから争いになります。浅井と朝倉は祖父の代からのつきあいで、なんぼ信長の妹を娶っても、今までのつきあいを無視するわけにはいかなかったようです。
浅井・朝倉と戦うことになった信長は危ない場面が何度かありましたが、天正元年(1573年)7月、信長の軍勢により浅井長政は自害することになります。信長は降伏勧告を行ったようですが断り、主郭から出陣。浅井長政は主郭には戻れず主郭のすぐ下にある赤尾屋敷で自害します。主郭から赤尾屋敷に行くには切岸の細い道を歩くしかなく自害する時間稼ぎになったようです。
お市の方と三姉妹は叔父・織田信包の伊勢上野城で保護を受けたと大河ドラマで描かれていましたが、近年では織田信次に預けられ、守山城に滞在していたようです。
長法寺は戦国時代頃に廃絶となったようですが、寺域の入口に山城が造られています。それが長法寺城。高島方面から山道をひたすら登った先にあります。もともとは坊があったようで急遽、山城に造り替えたようです。3つの郭が連格式でつながり、入口は堀切を進む形になっています。寺側の入口は食い違い虎口になっていました。
長法寺は石垣の寺ですが、長法寺城は土の城で、急ごしらえで造ったのでしょうね。打下城方面からの攻撃には特に備えていないので、一帯で運用していたとすると織田信長との戦いに巻き込まれていたのかしれません。
1571年(元亀2年)に比叡山焼き討ちが行われた後、織田信長が光秀に近江国滋賀郡を与え、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権をおさえるように命じました。この時に造ら得たのが坂本城で琵琶湖に面した水城で、城から船で安土に向かうことができました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも出てきましたね。現在は石垣の一部が琵琶湖に残っています。
坂本城は宣教師ルイス・フロイスが安土城につぐ天下第二の城と評した城でもありました。織田信長が安土城を造る前に天守の試作をしたようで大天守(信長用)と小天守(光秀用)の2つがあったとみられています。
本能寺の変の後も秀吉の城として使われましたが、やがて新たに大津城を造ることになり廃城となり、資材は大津城築城に使用されます。大津城は関ケ原の合戦の舞台となりましたが、こちらも廃城となり、家康は新たに膳所城を築り明治まで残りましたが、現在は碑だけになっています。
「近畿の城郭」を読むと壺笠山城の西140mの所に別の城跡があると記載されていたので、尾根道を降りて、もう一度、尾根道を登り白鳥山城へ行ってきました。尾根道からは琵琶湖が一望でき、琵琶湖大橋もよく見れます。
平安時代以前から京都の一乗寺と近江の坂本を結ぶ白鳥越え(しらとりごえ)という道がありました。重要な街道でしたので道沿いに将軍山城、一乗寺山城、一本杉西城が造られています。この街道をおさえるところに主郭がありました。主郭は30m×20mほどの広さで、今は雑木が一杯で眺めは期待できませんが、当時は辺りが一望だったでしょうね。小規模な段郭が5段ほどあり、石垣跡も残っていました。
戦国時代以降、別の街道が使われるようになり白鳥越えは使われなくなります。
志賀の陣の舞台となった壺笠山城。
織田信長が朝倉義景、浅井長政と対峙したのが志賀の陣。まず朝倉・浅井連合軍が南下して坂本方面に出陣してきました。坂本港を守るために宇佐山城から出陣してきた森可成(森蘭丸のお父さん)が討ちとられます。朝倉・浅井軍が動いた知らせが摂津攻めをしている織田信長に届き、信長が急遽、宇佐山城へ戻ったため落城せずにすみました。
■壺笠山城
朝倉・浅井連合軍は宇佐山城近くの「はちが峰」、「あほ山」、「つぼ笠山」に着陣します。3つのうち位置が判明しているのが「つぼ笠山」にあるのが壺笠山城です。両者ともに膠着状態となり和議を結びますが、和議を結んだのがこの壺笠山城です。それはよいのですが、こんな山城まで和議とはいえ登るのはしんどいなあ。ちちんぷいぷいではありませんが「昔の人は偉かった!」。
白鳥越えといわれる間道が当時あり、京都と坂本を結んでいました。この間道から頂上を目指すと壺笠山城があります。城域に入ると削平地が続いていて、ここに朝倉・浅井連合軍の兵が駐屯したのでしょう。壺笠山城の主郭は円郭式になっていて石垣が積まれています。朝倉・浅井が陣城に使ったのなら石垣は必要ないため、後に坂本を支配した明智光秀が改修したものでしょう。城からは琵琶湖や宇佐山城方面を見ることができます。
泉大津商工会議所でセミナーでしたので、ランチのついでに真鍋城へ寄ってきました。
泉大津駅からちょっと行ったとところに南溟寺というお寺があって、ここが真鍋城(大津城)跡。鎌倉時代から城郭があったようで、この頃は斎藤氏の城ですが、後に真鍋氏の城となります。眞鍋氏はもともとは日根郡淡輪村の土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が和泉郡大津村に城館を構えたそうです。
戦国期には強大な勢力の無かった泉州では、各地の地侍が一つにまとまって(和泉三十六郷士)、行動をとるような体制ができました。泉州に進出してきた織田信長には無抵抗で降伏し所領を安堵されます。真鍋城のすぐ横が浜街道で、海岸がすぐ近くだったこともあり泉州和泉水軍衆(真鍋水軍)を率いていたようです。「村上海賊の娘」には織田方の水軍の将として眞鍋七五三兵衛という名前が出てきます。第1次木津川口海戦で毛利水軍と戦い討死しています。
天正年間に真鍋城は廃城となり、跡地に長泉寺(現在の南溟寺)が建立されました。城跡は残っていませんが周囲にはいくつかの水路があり、堀代わりだったようです。
三木城を攻める平井山付城の麓に竹中半兵衛の墓があります。
竹中半兵衛といえば稲葉山城のクーデターが有名です。美濃・齋藤龍興の家臣でしたが一部の側近を寵愛して政務を顧みなかったため、わずかな手勢で稲葉山城を乗っ取り、齋藤龍興を城から追い出します。半年ほど稲葉山を占拠し、その後は引退していました。織田信長が齋藤家を滅ぼすと秀吉に仕えることになります。
荒木村重が信長を裏切った時には秀吉の幕僚だった黒田官兵衛が説得に行きますが、荒木村重に閉じ込められてしまいます。帰ってこない黒田官兵衛に怒った信長は人質にあずかっていた黒田長政を殺せと命じますが、この時に黒田長政をかばったのが竹中半兵衛でした。
三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は京で養生するように戒めたが竹中半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と亡くなりました。
平井山ノ上付城から谷を挟んだ隣の山にあるのが平井村中村間ノ山付城。土塁に囲まれた小さな郭があり、麓には兵が駐屯できる削平地があります。山への入口には竹中半兵衛の陣所跡となっていました。竹中半兵衛といえば秀吉の軍師として有名な武将です。
郭の北側がすごい垂直の崖になっていて、どう考えても攻撃できないような陣地です。小さな付城なんですが、見事ですね。