鬼ノ城

鬼ノ城
鬼ノ城

岡山で仕事だったので、ついでに鬼ノ城へ行ってきました。古代の朝鮮式山城です。

白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し、国家存亡の危機に陥ったため全国に造られた山城の一つです。大阪では高安城が造られました。

麓に砂川公園があり、レンターサイクルを置いて、ひたすら3.5kmの道を登ります。案内では東海自然歩道とあったのに歩いてみたら細い車道になっていて、時たま鬼ノ城に行く車に追い抜かれます。割とだらだらとした坂道なんで、帰りのことを考えたらレンターサイクルを持ってきたらよかった。道沿いにお地蔵さんがマイルストーンのようにあり、これを見学できるのは徒歩者だけですね。

鬼ノ城は発掘調査され西門などが復元されています。門は全部で4つあり、周囲を1時間ぐらいで巡ることができま、これがなかなか楽しめます。眺めはとってもいいですねえ。

五条野城

五条野城
五条野城

近鉄岡寺駅近くに丸山古墳があったのを思い出し、それぐらい見ていこうと坂を登り始めると、あったのは八咫烏神社でした。一本道を間違えていました。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、別名が八咫烏です。神武天皇を熊野から大和まで案内した導きの神様です。

戦国時代、この八咫烏神社は城として活用されました。五条野城で、国民だった五条野氏の居館跡と考えられています。1475年に越智氏・古市氏とともに筒井方と戦って破った記録が残っていますが詳しいことは分かっていません。八咫烏神社の周囲を土塁と堀が巡っていたようで痕跡が境内に残っています。

上居城(多武峰城塞)

上居城
上居城

談山神社・西口から飛鳥へハイキングコースが整備されていますが、そちらではなく旧の多武峰街道に入ります。もっとも街道とは名ばかりの山道です。念誦崛(ねづき)城を過ぎて少し行くと道が分岐していて万葉展望台まで1kmと立札があります。この道が飛鳥の岡寺と多武峰を結ぶ街道で、道沿いに6つほどの城があります。城名がついていませんが字名が上居なので上居城とでも言うしかなさそうです。

山城にはてんで役に立たないGoogleマップではなく、地理院の地図とGPS追跡システムをアプリに入れているので山城探しはバッチリです。6つの城を巡ろうと考えましたが、どう考えても街道から直登するしかない城が3つあったので早々にあきらめました。

この中で一番、見やすいのが万葉展望台で、飛鳥や二上山、當麻などを一望できます。この展望台が城の主郭でした。郭の周りには堀切や他の郭もあり、楽しめます。もう一つ岡寺近くに街道の両方に拡がる城があり、郭がいくつも広がっています。一番、飛鳥に近い城なので、この城が最前線でしょう。実は飛鳥の岡寺にも城があります。岡寺前の県道15号線を少し南に行くと次の丘陵になります。県道から丘陵下の常谷寺へ向かう階段があり、この階段横から岡城の空堀に入れます。郭は単郭で、多武峰城塞群とは関係あったのでしょう。

冬野城(多武峰城塞)

冬野城(多武峰城塞)
冬野城(多武峰城塞)

談山神社・西口から冬野へ向かう山道があり、これをどんどん登っていくと冬野城へ行けます。もっとも冬に、こんな山道は登る酔狂な人はおりません。冬野城は多武峰城砦群の中でも最大の規模で、南の吉野方面への備えの城になっています。平安時代末期には早々と築かれていたようです。多武峰は各峰に城が造られ、記録に残るだけで三度の多武峰合戦が行われました。

南北朝時代、多武峰は南朝の遺臣に占領されてしまい反幕府の拠点にされてしまいます。永享9年(1437年)から始まる「大和永享の乱」(越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦)では幕府軍に焼かれて全山全焼してしまいます。他にも永正3年(1506年)の幕府に派遣された赤沢朝経に対する大和国人一揆の抵抗戦(十市氏、越智氏、箸尾氏)、永禄2年(1559年)からはじまる松永久秀に対する十市氏の抵抗戦でも攻城戦となりました。

山道を登り冬野にたどり着きましたが、郭がある電波塔に入る道は塞がれていて入れません。集落の人に聞いたら登るしかないということなので、結局、郭まで直登でした。波多神社の境内があるところが郭の一つですが、境内の先に堀切を隔てて主郭がありました。たくさんの郭が造られており、各尾根筋には堀切がいれられています。見事なのが談山神社へつながる尾根筋で、3つの大きな堀切で尾根筋を断ち切り、そのまま山の下まで続く竪堀がありました。すごい工事だったでしょうね。

念誦崛城

念誦崛城
念誦崛城

念誦崛は「ねづき」と呼びます。今は地名ですが仏教用語からつけられたんでしょう。今昔物語集に「多武峰(とうのみね)の増賀聖人のこと」という説話があり、狂気の僧として有名でした。この増賀上人の墓が念誦崛にあります。伝承ではここに斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)がありました。

増賀上人の墓の北側尾根上に西の守りとして念誦崛城がありました。多武峰城塞群の一つです。まず城内に入るのが大変です。墓の裏から高い土塁を登ると藪だらけの空堀があり、堀を抜けるとまた高い土塁に阻まれます。こんなところを攻めたら一発でやられます。

ようやく城内にはいると郭がいくつもあり、見事な堀切で区切られています。一番、奥の郭まで行こうと思いましたが、さすがに藪が多く、断念し、あきらめで帰ってきました。

多武峰城塞群

堀切
堀切

多武峰城塞群シリーズです。談山神社裏手から談山城、御破裂山城を巡り、西にある念誦崛城を目指します。御破裂山から飛鳥へ抜けるハイキングコースがあるのですが、飛鳥に向かって歩き出し、土橋跡を少し抜けると別の山道があります。これが半分、藪になっていますが城塞群への入口です。

山道に入るとすぐに堀切があり、念誦崛城へ向かう尾根筋も要所、要所を堀切で切って防衛力を上げています。一応道はついていますが誰も歩かないので藪をかきわけて進まないといけないところがあります。見どころ近くには木に白いテープが張ってあるので山城マニアが来ているのでしょうね。

■越智氏、十市氏、箸尾氏が立てこもる
昔、大和三山の1つ、耳成山の頂上にある天神山城へ登った時に調べると赤澤朝経(ともつね)が造ったことが分かりました。室町幕府方の人間で大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもり、赤澤朝経は天神山城を本陣にして連日、合戦にむかったと記録に残っています。

これが永正3年(1506)の赤沢朝経の大和乱入で、それ以前に永享9年(1437)から10年にかけて起こった大和永享の乱で越智方が多武峰を中心に抵抗したとありますので以前から多武峰は城塞化され、どんどん拡がっていったようです。飛鳥にも雷丘城などの城塞群があり、このあたりは激戦地だったんですねえ。

御破裂山城

御破裂山城
御破裂山城

談山からさらに山道を行くと御破裂山(608m)に到達します。頂上に中臣鎌足の墓があり、国家に大きな災いのある時は、御破裂山が鳴動するということで御破裂山という名前がついています。

中臣鎌足は摂津の阿武山古墳(諸説あり)に葬られましたが後に大和国の多武峯に改葬されたという記録があり、その場所が御破裂山と言われています。藤氏家伝では墓は山科とも伝わっており京都橘大学へ行く途中にある大塚ではないかと言われています。山科は中臣氏の拠点でした。

御破裂山にも山城が造られました。頂上には中臣鎌足の墓があり、ここが主郭跡です。周りには帯郭がめぐり、頂上から北に向かって郭が三段続き、端まで行くと大きな堀切で尾根が切断されています。談山城からの尾根道の途中と西に続く尾根道の2ケ所に堀切を伴った細い土橋がありました。

密談の場所が山城 談山城

談山城
談山城

中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変の密談を行った場所を談山神社と思っている人が多いのですが、実際は談山神社からさらに登った裏山の頂上です。標高566mの談山(かたらいやま)になりますが、こんな高い所で密談しなくても飛鳥でも十分密談ができると思うんですが

談山神社から10分ほど山道を登ると談山です。談山神社への観光客は多いですが、談山まで向かうのはハイカーだけです。結局、誰にも会いませんでした。

談山神社がある多武峰は室町~戦国時代にたくさんの山城が造られ各峰に造られ城塞群になっています。密談が行われた談山頂上も山城となり、密談場所が主郭で周りを帯郭がめぐっています。入口は堀切で切られた細い土橋になっています。

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。