三里城

三里城の入口
三里城の入口

生駒近辺の山城は、ほとんど登ったと思って戎光祥出版「近畿の城郭」を見ていたら平群駅近くに三里城があるのを発見。さっそく登ってきました。 

【三里城への道】 
平群駅をずっと東に行くと、安明寺叶堂があります。お堂はなく礎石しか残っていません。この叶堂から山道に入り、川沿いの道を登っていくと「右 まや道」という石標があり、ここを登っていくと写真のように道に大きな石があります。 

ここが城の入口です。少し戻ったところから左手に細い山道があるので、ここから藪の中に入って、結局は切岸、つまり崖を登ります(笑)。ずっとひたすら頂上を目指すと郭や見事な横堀を通って主郭にいたります。 

【三里城】 
三里城は誰が造った城か伝わっていませんが、松尾寺へと通じる街道を見張る目的があり、すぐ近くに椿井城がありますので、おそらく嶋氏ゆかりの城だったのでしょう。平群は島左近(石田三成家臣で関ケ原の合戦で討死します)で町おこしをしています。松永久秀が大和を支配した頃には松永方として改修されたかもしれません。 

先日、オープンストリートマップを教えてもらったので、さっそくやろうとしたら竹藪の中ではGPSが全然、違う方向を指していました。よほど眺めがよい山城でない限りは難しいですね。

綾井城

綾井城
綾井城

高石駅からずっと住宅街を歩くと専称寺という寺があり、ここが綾井城跡です。単郭の平城で郭の周りは堀が巡っていたようですが、現在は山門前の堀跡だけが残っています。「沼間日向守綾井城址」と書かれた高石ロータリークラブの白い木標があり、寺の山号も城蹟山になっています。

綾井城は和泉国の国人である田代氏によって鎌倉期に造られ、南北朝の頃は北朝方の守護・細川清氏の命を受けていたようです。戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており沼間伝内は織田信長に従い、織田信長の水軍と石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の 配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。

文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。昔の絵図には一部の堀は二重になっていました。

根福寺城(和泉)

根福寺城(和泉)
根福寺城(和泉)

和泉にある根福寺城へ。

水間寺から秬谷(きびたに)川をさかのぼった秬谷・大川の集落近くの山にあります。主要街道などがない所なので非常用の山城かなと思うわりには、かなり大規模な山城になっています。一城別郭の城になっていて東と西の2つの尾根に郭群が拡がっています。山に入り込み、山道を15分ほど歩くと二重堀切がいきなりあらわれます。大規模な堀切が2つもあり、見事に侵入者を防ぐ形になっています。

東側の郭群を堪能した後、尾根を一度下って今度は西の尾根を登ります。頂上には千畳敷と呼ばれる広い郭があり、ここから泉佐野の街が見え、関空からは飛行機が飛び立つところが見えます。

根福寺城は天文年間(1532年~1555年)に細川晴元に従っていた松浦肥前守によって築かれたと云われています。最初は野田山城という名前でした。細川晴元が三好長慶と対立すると松浦肥前守は三好長慶方となり根来寺勢力と対立していましたが、根来衆が野田山城を接収して根福寺城としたようです。

豊臣秀吉の雑賀、根来攻めで根福寺城も秀吉側になったようです。西にある郭群には見事な畝状竪堀群があるとのことでしたが、切岸を降りる道がなくあきらめました。

天神山砦(岡山城)

天神山砦(岡山城)
天神山砦(岡山城)

岡山には石山、岡山のほかに天神山があり、石山城時代に天神山にも砦が造られたようです。 

天神山はすっかり市街地となって天神山文化プラザや県立美術館ができています。今も高低差が残っていました。宇喜多秀家の岡山城が造られた時に石山とともに、この天神山も城内に取り込まれ、北側にひょこんと楕円形が出ている形の郭になっていました。 

石山城(岡山城)

石山城(岡山城)
石山城(岡山城)

金曜日、岡山で仕事だったので、少し早い目に出かけて石山城へ寄ってきました。 

石山城は宇喜多直家時代の城があった場所で現在は山陽放送などが建っています。岡山市内には岡山、石山、天神山の3つの丘が連なり、宇喜多秀家時代には岡山に城が造られ、これが現在の岡山城の前身となります。地下に秀家時代の石垣などが埋まっています。 

秀家は秀吉にかわいがられましたが、関ケ原の合戦では西軍側で戦い、八丈島にながされてしまいます。これが流人第一号となりました。石山城は岡山城に取り込まれて石山郭となりました。この当時の石垣や西手櫓が残っています。 

石山には南朝側だった上神高直が城をかまえ、その後は国人領主だった金光備前が城を構えていたようです。金光氏が宇喜多直家に滅ぼされ、ここに城を構えました。城跡は高台になっており、主郭があったところは駐車場になっていますが岡山城の天守閣が目の前に見えます。

宿野城(菰野)

宿野城
宿野城

【宿野城】
桑名、員弁、朝明、三重郡の北勢地域は北勢四十八家が群雄割拠する地域でした。四十八家の盟主だったのが千草氏で菰野に千草城を構え、近くの千草神社が出城になっています。

戦国時代、近江の六角氏が北勢へ侵入し、その後、信長の伊勢侵攻がはじまり滝川一益が北勢を支配することになります。北勢にはたくさんの城がありましたが菰野駅近くには力尾城のほか宿野西城、宿野城、福村館(消滅)がありました。

というわけで宿野城へ行ってきました。誰が造った城なのかは伝わっていませんが北勢四十八家のどこかと関係していたはずです。入口は藪になっていますが、そこを抜ければ竹藪の中を進むことができます。スーツ姿で登るのはあまりおすすめできませんねえ。城跡はちょっとわかりにくかったのですが土塁や堀切などがありました。

【巡見街道】
宿野城からは巡見街道を見下ろすことができます。巡見街道とは江戸時代に幕府の巡見使が通った道で三重県では亀山市で東海道から分かれて中仙道にまで続いていました。江戸時代以前から街道として使われていましたので、宿野城はこの街道を監視するための城で、反対側にある宿野西城と共に街道をおさえていたようです。

力尾城(菰野)

見性寺
見性寺(菰野)

【力尾城】
菰野駅のすぐ近くに見性寺があり、この見性寺の裏山にあるのが力尾城です。裏山には八十八ケ所巡りがあり、階段があって城跡まで楽に登ることができます。墓などに改変されているのでよく分かりませんが、一番上まで登ると土塁や帯郭跡などがありました。藪もないので夏でも大丈夫です。

【家康暗殺計画】
力尾城を築いたのが土方雄久という武将で、土方雄久は織田信雄に仕え、小田原征伐後に信雄が改易された後は豊臣秀吉に仕えました。秀吉亡きあとは秀頼、そして家康にも仕え、激戦の戦国時代に家名を全うした武将です。

土方雄久は家康暗殺計画で有名です。関ケ原合戦前に石田三成襲撃事件など権力争いが起きますが、その一つが家康暗殺計画。大河ドラマ「真田丸」でも描かれていました。前田利長を追い落とすために家康と本多正信が謀略を働いたのが通説です。結局、前田利長は生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として送ることになります。

家康暗殺計画の首謀者として前田利長と共に名前があがったのが、浅野長政、大野治長、土方雄久です。土方雄久は大野治長と共に水戸・佐竹義宣のもとへ追放となってしまいました。土方雄久と前田利長は従兄弟だったという説があり本当だったかもしれません。結局、家康の上杉征伐の時に許されて復帰しています。

【菰野藩】
土方雄久は織田信雄が北伊勢を支配していた時代に力尾城を造りました。長男が土方雄氏で、菰野藩の初代藩主となります。力尾城では手狭だったのか新たに菰野陣屋と城下町を整備し、菰野陣屋の跡地は菰野小学校になっています。土方家は明治維新まで12代続き、見性寺には歴代の菰野藩主の墓があります。ここも郭のようでした。

日永城(登城山)

日永城(登城山)
日永城(登城山)

西日野(四日市)にあるポリテクセンター三重で「インシデントと情報セキュリティの必要性」というセミナーを行ってきました。前回、ポリテクセンター三重へ行った時に見つけたのが登城山という地名。城山と名前がついている所には昔、山城がありました。

というわけで午前中でセミナーが終わったので登城山へ登ってきました。さすがに山城の遺構は残っていませんでしたが眺めはいいですねえ。

【日永城】
登城山には鎌倉時代に日永城があり、三日平氏の乱に関係していました。平氏は源義経に破れ壇ノ浦で滅亡しますが残党は残っています。平清盛は伊勢平氏出身ですので、伊勢や伊賀には残党がたくさんいました。この残党が源氏の世になってから鎌倉幕府と戦いましたが三日で鎮圧されたので三日平氏の乱という名前がついています。日永城に日永楯三郎を守っていましたが、この時に落城したようです。三日平氏の乱の舞台となった西坂部城、高角城、松本城、冨田館、関町久我、若菜城も落城します。そうそうアピタ横の四日市市立博物館には三日平氏の乱の展示があったんですが、リニューアルで無くなってしまいました。残念。

【登城山は旗振山】
眺めがよい登城山は旗振山でもありました。旗振山とは江戸時代から明治にかけて堂島の米相場を全国に伝えるために張り巡らされた旗振り通信で旗を振った山のことです。大阪から広島までわずか27分で伝達されています。

豊田城

豊田城

天理の商店街を抜けて山の辺の道に至ると豊田城跡への案内板があり、そのまま堀底道になっている山道を登っていくと豊田城の出郭に到着します。筒井氏の与力だった豊田氏の城という話ですが、城の規模がめちゃくちゃ大きく一国人の城ではないですねえ。

【大和永享の乱】
中世の大和は北側の筒井氏、南側の越智氏に分かれて覇権を争っていましたが、豊田氏は越智氏側で筒井氏とは敵対関係にありました。1429年に豊田氏と井戸氏の間で対立が起きた時に井戸氏側についたのが筒井氏、十市氏で、豊田氏側についたのが越智氏、箸尾氏となります。興福寺と幕府の停戦勧告は無視され、2陣営に分かれて争乱が大和一国に拡がります。これが大和永享の乱となります。

越智氏に属していた豊田氏は筒井氏の反撃を受け、まず越智氏が撃退され、そして豊田城が落城します。やがて松永久秀が大和に侵入し、豊田氏は最初は抵抗していましたが豊田城を落とされ、結局は松永久秀の傘下に入ることになりました。この時に豊田城は松永勢によって大改修されたのでしょう。織田信長が松永久秀から筒井順慶へスイッチングし、筒井順慶が大和を支配することになると豊田氏は筒井氏の与力になったようです。

【豊田城】
郭は藪だらけですが、すごいのが縦横にめぐらされた横堀や竪堀です。大きく分けて5つの郭で構成され、周囲を鉄壁の堀で囲んでいます。しかも外郭掘が2本、発見されており、すさまじい土木力で造られた山城です。

赤尾城

赤尾城

忍坂山口坐神社(式内社)がある赤尾集落の南側にそびえている比高50mほどの山稜先端部が赤尾城跡です。なかなか見ごたえがある山城です。けっこう手間をかけて築いたようで、かなりの高低差がある郭がいくつも造られ、二重堀切や横堀などもあります。ただ竹藪だらけですので、赤尾城に登るならやはり冬ですねえ。写真は堀切です。

【西阿の赤尾城】
赤尾城は戒重西阿が築いた6城の一つで、外鎌城がすぐ正面に見え、赤尾城背後の山稜に続く鳥見山には鳥見山城があり、3つの山城が連携していました。西阿が築いた頃は砦と呼ばれていましたので規模は小さかったようです。西阿の赤尾城は1341年7月に北朝方の細川顕氏軍に攻められて落城してしまいました。

【戦国時代の赤尾城】
戦国時代となり、大和の覇権をかけて筒井順慶と松永久秀が戦います。松永久秀が信貴山城と多聞山城を築き、大和へ侵攻してきました。大和の国人を巻きこんでの戦となり、居城である筒井城も攻められ筒井城を追われることになります。この前後に筒井勢と松永勢がぶつかる鳥見山合戦が行われたので、この時に赤尾砦が大規模に改修されたようです。松永久秀は安倍山城を陣城にしたようなので、赤尾城を改修したのは筒井勢かなあ。

筒井城を追われた時の筒井順慶は17歳と若いこともあり、最初は劣勢でしたがあきらめず、織田信長と松永久秀の反目によってチャンスをつかむことになります。