大和鈴山城

大和鈴山城
大和鈴山城

近鉄五位堂駅から北へ10分ほど歩くと、かつらぎの道という散歩道があって、ここを入ってすぐ左手の丘陵上にあるのが大和鈴山城。郭跡がしっかり残っています。

堀切から城の中に入ることができます。大和鈴山城は単郭で四周に堀を巡らし、櫓台と土塁で囲まれています。誰が造った城か分かりませんが、このあたりは岡氏・高田氏・万歳氏などの大和武士が活躍した地域です。

大和鈴山城は馬見丘陵の西南端に位置しており、馬見丘陵は葛城氏の古墳群(馬見古墳群)で有名です。香芝市の発掘調査を見ていると3つの古墳があって、2号墳がそのまま露台として使われていました。入口の土橋のところにも1号墳があり、古代の古墳を活用して城造りしていたようです。

五位堂という大阪のベッドタウンの中に山城がしっかり残っているのがいいですねえ。

八尾城

八尾城
八尾城

物部の神様である八尾神社境内に矢尾城址碑がありますが、城がどこにあったのかは分かっていません。

室町時代、八尾の豪族だった別当兼幸(顕幸)が築城したと伝わっています。古文書には1337年(建武4年、南朝は延元2年)に南朝方の高木遠盛らが八尾城を攻めたとあり、この頃には城がありました。南北朝から戦国時代にかけて八尾城は合戦の舞台や陣地となっています。

八尾城は戦国時代になると池田丹後守教正の居城となります。池田丹後守教正は三好長慶の後継者である三好義継が若江城主の頃、補佐した家老の一人ですが、やがて松永久秀に属し、久秀が信長に降った時は同じく信長配下になりました。イエズス会が本国に送った報告では、キリシタン武将だった池田丹後守教正の影響で城下には、数多くのキリシタンが住んでいたようです。飯盛山城の城下にあった三箇のような当時の八尾はキリシタンの町だったのでしょう。

河内の城といえば高屋城、若江城でしたので八尾城の戦略的位置づけは相対的に下がっていき、やがて廃城となったようです。

真田丸へ

真田丸
真田丸

午後から鶴橋で仕事でしたので、ちょっと歩いて真田丸跡へ。

大坂冬の陣で真田信繁が活躍した出城です。一緒に戦った兵は大坂城に入った浪人でしたので、それほど時間もないなか、どうやって教育したんでしょね。赤備えで統一し、帰属意識を明確にするなどいろいろな手をうちました。武田以来の赤備えですので徳川軍に与える心理的影響は大きかったでしょう。

写真は大坂城と真田丸との間にあった堀跡で、以前は大坂城と真田丸はつながっていたと考えられていましたが、今は明確に切り離された出城だったことが判明しています。遺構は残っていませんが高低差が往時のまま残っています。

この後、スコールのような雨に遭遇してしましました(泣)

大坂の陣に向かう家康が宿泊した近江・永原城

永原城
永原城

写真の水田が堀跡で本丸は右側の竹藪の中にあります。

■将軍専用宿泊施設
野洲にある朝鮮人街道(中山道の脇街道で織田信長が安土城を通らすために整備、江戸時代は朝鮮通信使が通る道)から琵琶湖側に少し入ったところに永原御殿跡(永原城)があります。関ヶ原の戦いの勝利後、家康が佐和山から安土、永原と朝鮮人街道を凱旋して上洛したことから、この道が吉礼の道となりました。家康の上洛用に本丸御殿を関ヶ原の翌年(1601年)に設けます。

もともと秀吉が家康に野洲を在京賄料(出張経費)として与えていました。やがて江戸幕藩体制となり、将軍専用の宿泊・休憩所として秀忠、家光時代に御茶屋御殿が整備されます。近江にあった将軍専用宿泊施設が永原御殿(野洲市)、伊庭御殿(東近江市)、水口御殿(水口城跡・甲賀市)、 柏原御殿(米原市)の4つです。

■御殿といいながら戦国の土の城
永原御殿という名前ですが、戦国時代に作られたのですから土塁と堀に囲まれた土の城で櫓が建ち並んだ平城でした。本丸内に御殿が建てられ、徳川家光の上洛では、本丸のほか、二の丸や三の丸が設けられます。現在の永原御殿跡は、竹藪や民家・水田などとなっています。

本丸跡に入って土塁を眺めてきましたが、この時期はまだまだ藪蚊だらけで、這う這うの体で退散してきました。城巡りにはもっと冷えないといけませんなあ。

■信長公記に出てくる永原城はここではなかった
佐々木六角氏の重臣だった永原氏によって築かれた永原城があり、信長公記に出てきます。信長の近江侵攻で敗れ、信長の重臣である佐久間信盛が城に入りました。この永原御殿が永原城跡ではないかと言われていました。

発掘調査の結果、どうも永原御殿から700mほど行った祇王小学校にあったようです。信長公記に「永原の佐久間与六郎所」という言葉があり、与六郎が祇王小学校あたりの小字でした。

近江三宅城

近江三宅城
近江三宅城

守山にある金森城(金森御坊)近くにあるのが近江三宅城。蓮生寺が城郭化されたもので寺の周りを今も1.5mほどの土塁が巡っています。金森城の出城でしたが元亀2年に佐久間信盛によって攻められ金森城とともに落ちました。

守山がそもそも一向宗の拠点になったのは比叡山僧兵による「寛正の破却」によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如が、高弟であった道西のもとに身を寄せたことにはじまります。道西は善立寺を開き、蓮生寺とともに守山近辺の門徒衆を結集します。そこへ比叡山の山徒衆が攻め込んできたため争いとなり、これが金森合戦となります。蓮如は琵琶湖対岸の堅田へ移動しましたが、金森は本願寺派の中心地として栄え、織田信長と敵対することになります。

浜田城

浜田城
浜田城

四日市で仕事でしたので、お昼休みに近鉄四日市駅のすぐ近くにある鵜の森公園へ。公園内に鵜森神社があり、ここが浜田城の郭跡で西側と南側に土塁が残っています。

上野国赤堀庄が本貫の赤堀家では三兄弟で羽津城、赤堀城、浜田城を守っていました。浜田城を守っていたのが田原家です。田原家の先祖は田原藤太秀郷、そう百足退治の伝説で有名な藤原秀郷です。

やがて織田信長による伊勢侵攻が始まります。滝川一益に攻められて浜田城は落城。やがて織田信雄に属しましたが秀吉が信雄と対立した小牧・長久手の戦いの一つ、美濃加賀野井城の戦いで討ち死にし田原家は滅亡します。鵜森神社は藤原秀郷と田原家を祀っています。

都会のど真ん中ですが土塁と堀跡(池)が奇跡的に残っています。昔は浜田城の碑しかなかったのですが近年、冠木門が復元されています。

近江・金森城

近江・金森城
近江・金森城

元亀争乱という言葉があります。元亀は、わずか4年間の年号でしたが織田信長にとって姉川の戦いから足利義昭追放まで波乱万丈の4年間でした。石山本願寺との10年にわたる戦闘がこの元亀に始まり、三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄に敗れ、反信長連合の包囲網によって四面楚歌状態に陥ります。

■近江・金森城
近江でも反信長の動きとなり、その舞台となったのが近江・金森城。金森城ですが、微高地という地形が残っているだけで特に遺構はありません。金森は中山道と琵琶湖を結ぶ志那街道が通る交通の要衝でした。金森御坊が作られ寺内町が形成されましたが、寺といっても堀や土塁をめぐらし実質的には石山本願寺と同様に城でした。今も城ノ下などの地名が残っています。

金森城がある守山は、比叡山延暦寺を守る東門院が作られたことから守山と呼ばれるようになりましたが、当時の一向宗は武装集団で宗教間でも争っていました。比叡山延暦寺の僧兵と一向宗との争いとなったのが近江・金森合戦です。法華宗とも争い、法華宗に山科本願寺が攻め落とされ石山本願寺に逃れます。

元亀2年、一向宗徒が金森城に立てこもりましたが、佐久間信盛によって攻められた経緯が信長公記に出てきます。佐久間信盛は金森城の周囲をしし垣で囲んで包囲し、田畑を苅田したため、一向宗徒側は降参。信長は比叡山焼き討ちを優先したため人質を出して和睦しました。金森は一時、荒廃しましたが織田信長が楽市楽座令を出して栄えることになります。ただ江戸時代に琵琶湖の主要港変更の関係から志那街道の役割が薄れ、金森も衰退していきます。

■金森長近
飛騨高山の城主になるのが金森長近。もともと美濃の生まれで父親が守護の土岐頼武に仕えていましたが美濃の内紛に土岐頼武が敗れたため一家で金森に移転し、ここで育ちます。もともとは大畑という姓でしたが、地名の金森に変更します。18歳の時に近江から離れ織田信長に仕えることになり、その後、秀吉、家康に仕えました。

岡山城へ

岡山城
岡山城

午後から岡山でお仕事。 

必然的に早目に岡山へ行って岡山城を散策することになります。まっとな行動です。 

街中に宇喜多家の旗印と池田家の旗印が飾られていました。宇喜多家と池田家との間に岡山をおさめた小早川秀秋はないんですねえ。丸に違い鎌紋もなかなかお洒落なんですが。

岡山へ行ったので、ついでに本屋巡りをして本の宣伝をしてきました。 

岡山城のすぐ近くの城下にある丸善、クレド岡山にある紀伊国屋書店をまわってきました。前回は岡山駅にある三省堂書店とイオンモール岡山の未来堂書店をまわってきましたので、これで岡山市の大型書店は制覇かなあ。

信長より早く、飯盛山城は見せる城だった!!

飯盛山城
飯盛山城

久々にビッグニュースが飛び込んできましたね。 

信長より先に天下人となった三好長慶の飯盛山城から広範囲な石垣が発見されました。おお!!! 

城の南側にある千畳敷郭周辺で、推定で長さ30メートル、高さ4メートルの石垣を発見。大東市教育委員会によると今まで発見された石垣約100カ所のうち約半数が、三好長慶が飯盛山城に居城した時期に造られたことが判明しました。 

これまで石垣を多用し、それまでの「守る城」から「見せる城」へ変えたのが織田信長の小牧山城からと言われていましたが、それよりも早く三好長慶が「見せる城」を実現していたようです。 

飯盛山城は生駒山地の北側に築かれ、河内、摂津、大和、山城が眺められます。麓から見ると今まで見たことがない石垣の城が山上にそびえ視覚効果が高かったでしょうね。三好長慶は織田信長よりも早く足利将軍を追放し、天下人となった人物で、織田信長は三好長慶を手本にしていたようです。三好長慶を支えた松永久秀の多聞城にあった天守閣をまねて安土城天守閣を作ったとも言われています。 

G20となっているインテックス大阪からも飯盛山城が眺められますが、どこもニュースで流さないでしょうね。

太田道灌と戦った石神井城

石神井城
石神井城

石神井といえば有名なのが石神井城で、石神井公園に今も残っています。

石神井城は鎌倉時代に豊島氏が造ったようで、豊島氏の本貫は武蔵国豊嶋郡になり、東京都豊島区の名前はこの豊島に由来しています。豊島氏は他に練馬城(今の豊島園にあったようです)を造り、扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌(江戸城を造ったことで有名)と戦っていました。

当時の関東は公方や関東管領が争い、関東管領に上杉氏も扇谷上杉氏や山内上杉家い分裂、そこに北条早雲まで加わって混沌とした状態になっていました。太田道灌が築いた江戸城と河越城の防衛ラインを豊島氏の練馬城と石神井城が遮断してしまったため、太田道灌との戦いになります。太田道灌は練馬城を攻めた後、石神井城近くの愛宕山に陣を張って石神井城を攻め豊島氏は敗走。これで没落することになります。

石神井城は石神井公園の三宝寺池横の丘上に残り、保存のため立ち入り禁止となっていますが、土塁と空堀を廻らせた内郭が残り、外から眺められます。