新幹線が掛川駅を通過する時、車窓から掛川城の天守閣が見られます。再建された天守閣ですが、復元天守には珍しくコンクリート造りではなく木造になっています。今、名古屋城ですすんでいる復元天守と同じですね。
掛川城は室町時代、駿河の守護大名だった今川氏が遠江進出を狙い、重臣だった朝比奈氏に命じて築城させました。秀吉の時代には徳川家康のおさえとして、山内一豊が城主をまかされます。ところが関ケ原合戦時には家康の味方をして掛川城を提供し、褒美として土佐一国の領主となります。
■今川氏真を守り抜いた掛川城
今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、今川家を率いたのが今川氏真です。去年の大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」では尾上松也が演じていました。今川氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康から挟み撃ちに遭い、駿府館を捨てて朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びます。
結局、掛川城は徳川軍に包囲されてしまいます。家来に裏切られて滅んだ武田勝頼や朝倉義景と違い、今川氏真は家来に恵まれていました。朝比奈泰朝は最後まで主君を守ります。和議で北条への今川氏真の亡命を認めさせると開城します。
■掛川城の戦いで学んだ家康
昨年、発見されたのが徳川家康が築城した時の江戸城の縄張りを書いた江戸始図。堅牢な要塞のような本丸が描かれていました。掛川城の戦いは絶望的な籠城戦でしたが半年間持ちこたえている間に状況が変化し、家康は北条と武田と敵対することになり、今川氏直と和睦します。
鉄砲の時代となると籠城戦では守り切れないというのが当時の常識でしたが、掛川城の戦いで後詰め(応援)がなくても状況変化で生き残れることを家康は学びました。これが江戸城の縄張り(設計)にいかされることになります。
カテゴリー: 城・山城
信長のマイナスイメージ戦略に利用された高天神城
All AboutのRed Ball終了後、掛川へ移動して一泊。
朝、浜岡原発の方へ向かうバス(一人だけでした)に乗って、歴史にしょっちゅう登場する高天神城へ行ってきました。お城ジオラマ復元堂でも有名な山城です。
高天神城はよく整備されて遊歩道や看板もたくさんあり、とっても楽に登れる山城です。一城別郭の城として有名で2つの尾根筋に郭群が二つあり、それぞれが独立した構造になっていますが、この二つの城が連結して高天神城になっています。
古くから城が造られていましたが、歴史で有名なのは徳川家康の支配下になってから、なんせ武田信玄が攻めても落とされなかった名城です。ところが武田勝頼に城を奪われてしまいます。勝頼は信玄以上に優秀でした。
■信長による武田勝頼マイナスイメージ戦略
この後、織田信長の命を受けた徳川家康が高天神城の周りに砦群を作り、持久戦に。高天神城を守っていた岡部元信は降伏を申し出ましたが信長は許しません。この当時、敵の動きで動くに動けなかった武田勝頼は援軍を送れませんでした。結局、岡部元信は残った兵をまとめて最後の攻撃に出撃し玉砕してしまいます。
ここぞとばかり、信長は”武田側で戦っても勝頼は助けてくれない”とイメージ操作をはじめます。SNSによる拡散はできませんので、もっぱら手紙と口コミです。織田、徳川、北条が攻め込んだ時に武田側で裏切りが続出したのは、このイメージ戦略の結果でした。
と言っている信長自身も自軍だった上月城の尼子氏を助けられず見捨てていますので、勝頼と一緒なんですが(笑)信長は別所長治、荒木村重、松永久秀などにずっと裏切られていますのでマイナスイメージは今さら関係なかったようです。
文献に残る山城 井手城
京都府の南にあるのが井手町で橘諸兄旧跡で有名です。この井手町にあるのが井手城。
井手城の位置が大体しか分からないので、ちょうどタケノコの収穫をしていた地元の人に尋ねてみました。
「井手城跡はどこらへんですか?」
「城跡?橘諸兄旧跡については聞かれたことあるけど、城なんて聞かれたのは初めて、そんな城なんてあるの?」
と別の人にも聞いてもらいましたが、誰も城があることを知りません(笑)。
■井手城
仕方ないので山道が途切れたところから頂上目指して登り、そこから尾根沿いに降りていくと大きな堀切がありました。山吹山から西へ派生した丘陵上にある城跡で主郭以外に4つほどの郭があるコンパクトな山城です。
山城には珍しく同時代史料に記録が残っています。「大乗院社寺雑事記」には1485年(文明17年)の条に井手別所寺ノ城という記載があります。山城国が共和国になった山城国一揆の時になります。また「厳助往年記」には1541年(天文14年)に上野源五郎が当城を落としたとあります。上野源五郎というのは細川高国(大物崩れで有名!)の有力被官ですので応仁の乱に巻き込まれていたのでしょう。
「細川両家記」には1568年(永禄11年)織田信長方に攻撃されたとあります。1568年といえば信長が足利義昭を奉じて上洛した時で、京都南部でも掃討戦があったのでしょう。
近江 古城山城
近江 小堤城山城
野洲市に小堤城山城があります。山城では珍しく登山道が整備され、おまけに案内板も出ている!!
藪もなく、切岸を直登しなくても、道に沿って登れる山城です。楽ですな~あ!登山道の入口に尾根コースと曲輪コースがあり、迷わず曲輪コースを選択。大手道の両側に段曲輪が次々に並ぶ、なかなか壮観な山城です。雰囲気は安土城の大手道に似ています。けっこう大きな山城で堀切も巨大でした。曲輪には石垣が残っていて、虎口はきちんと折られ横矢がかかるようになっています。
小堤城山城を築城したのは六角氏の一族である永原氏と言われています。六角氏は近江源氏で鎌倉時代は南近江の守護でした。北近江の守護は京極氏でしたが浅井氏に台頭されます。浅井長政の小谷城に京極丸がありますが、ここで守護を遇していたようです。織田信長が清州城で守護の斯波氏を遇したのと同じですね。
六角氏は織田信長の上洛時に戦い破れ、拠点としていた観音寺城を捨て甲賀に逃れます。小堤城山城も織田方のものになってから改変されたかもしれません。
知高左衛門城
伊賀増田氏城
星ケ崎城(近江)
中山道の鏡宿を見下ろす鏡山の北端の支峰に築かれているのが星ケ崎城。
伝承では室町時代中頃に鏡氏(佐々木源氏)によって築城された山城で、常に暮らしていた館が麓の井上館で、こちらは詰城の模様。承久の変で鏡氏が滅んでからは六角氏が城主となったようです。織田信長が足利義昭の上洛で近江に攻め入った時に、六角氏が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたうちの一つという説もあります。
城はよく整備されていて主郭には石垣が残っていました山城に石垣があるのは珍しく、六角氏の時代のものでしょう。また主郭には「星ケ丘城跡」という石碑や説明版までありました。こんな山城ばっかりだと、どこが主郭跡か藪の中を探し回らなくてすむので楽なんですが。
頂上からは眺めがよく琵琶湖や新幹線が一望できます。近江八幡城などもよく見えます。