八王子城

八王子城
知的生産の技術総会の後は中央線に乗って八王子へ出て宿泊。朝から高尾駅へ出て八王子城に登ってきました。豊臣秀吉の北条攻めで玉砕したのが伊豆の山中城と八王子城で悲惨な歴史の舞台となりました。
八王子城の城主は北条氏照でしたが家臣団とともに小田原城に詰めていました。八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らの将兵と、領内の農民など約3000人が立て籠りました。ここを攻めたのが杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人で堅固な山城でしたが、大軍には勝てず半日で落城してしまいます。
さすがに早朝から山城に登っている人はおらず、本丸から尾根沿いを歩いて詰城まで向かいました。詰城には石垣があり天守閣跡と伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。帰り道にはたくさんのハイカーと遭遇。そこらへんの郭を見て回りましたが、八王子城ってハイキングのメッカだったんですね。

安濃・二子城

二子城
安濃城塞群の一つ二子城。
平山城で「伊勢一国旧城跡附」には城主は村主文宗で本家は村主玄番とあります。村主(すぐり)とは渡来人・漢氏(あやし)系の長を意味します。漢氏といえば倉敷にある阿智神社と関係がある阿知使主(あちのおみ)が祖となります。二子城から少し離れたところに村主村があったので、関係があったかもしれません。
圃場整備竣工記念碑に横からは入れるとありますが、途中で道はなくなり、ひたすら頂上を目指す、いつもの山城登りになります。主郭を中心に複数の郭で構成されています。

安濃・連部城

連部城
今徳城から少し行った穴倉川沿いに連部(つらべ)城があります。
連部城について三国地志には織田信包(信長の弟)が戸木城攻めのため家所帯刀に築かせたとあります。また勢陽五鈴遺響には秀吉が木造城を攻めるために築かせたと記録されています。
石田三成と同じ五奉行の一人が長束正家で水口岡山城主でした。関ケ原の合戦では三成側でしたので戦のあとに自決しています。この長束正家の陣代に家所帯刀がおり、関ケ原の合戦前の伏見城攻めに加わっています。
安濃には家所城があるので、家所帯刀はもともと安濃の出身かもしれません。いずれにしても久居にある戸木城、木造城は、かなり離れていますので戸木城攻めというのはどうでしょうかね。
連部城には土塁を伴った広い郭があり、よく整備されていて藪もありません。これはありがたいですね。また大きな堀切があります。

安濃・今徳城

安濃城塞群の一つが今徳城。
今徳城は安濃町今徳にあります。南光寺境内の裏側に今徳城跡の碑がありますが、実際の城は南光寺東側の小さな道を100mほど入ったマンション横の藪の中にあります。藪に入ると二重になった土塁や堀切が残っています。
今徳城は北畠氏の家臣・奥平平太夫貞兼が築城したと伝わっています。子孫の奥平常陸加介は剛の者としられ、織田軍の伊勢侵攻で織田信包の攻撃にも耐えて落城しなかったと伝わっていますが、規模の小さな平城ですので、本当かどうかは分かりません。木造氏が北畠氏から離反した時、信長側が小森上野城をおさえ、津田一安らが今徳城をおさえました。
北畠家は織田家と和睦し、織田信雄が養子として入りますが、奥平常陸加介は織田信雄に属することになります。この後、北畠を殲滅するために織田信雄が三瀬御所を攻める時には病気と行って加わらず今徳に戻ったとあります。関ケ原の合戦の前哨戦として美濃で竹鼻城の戦いが行われましたがこの美濃竹鼻の陣で戦死したようです。南光寺には供養塔が建っています。

能勢・森上館

森上館
能勢の栗栖の近くに岐尼(きね)神社があります。
式内社ですので歴史は古いですねえ。社伝によると782年(延暦元年)創始で、祭神には多田源氏発祥の源満仲も入っています。
神社の裏山にあるのが森上城と今西城で、岐尼神社のすぐ裏手には森上館があったようです。館の周りを土塁が巡っていたようで、この土塁の一部が竹藪の中に残っています。
戦国時代、平時は麓の館にいて、有事の際は詰めの城(山城)で戦うのがオーソドックスな形でした。朝倉義景の一乗谷もそうですし、甲斐の武田信玄も躑躅ヶ崎館が平時で詰め城が要害山城でした。
能勢には野間館と野間城もあり、なかなか館と詰め城セットを見る機会がないので、能勢はいいですねえ。

能勢・今西城

今西城
森上城の西に平坦地が続いており、ずっと行くと今西城があります。深い堀切が3方向にありますが、西側にだけ土塁があるので森上城とは一城別郭だったようです。つまり森上城の一部だったようで、森上城はかなり大きな城だったようです。
吉村城、森上城、今西城で能勢街道をおさえていたんですね。

能勢・森上城

森上城
吉村城から能勢街道を挟んだ反対側の山頂にあるのが森上城。
さすがにGoogleマップに山道まではのっていないので、適当にあたりをつけて登れそうなところを探して登り始めます。結局、山城までの道を発見できず、ひたすら坂を登って山城跡に到着しました。
月峯寺の往古水帳に森上殿という言葉が出てくるので、森上という地名を本貫とする武士がおり、地元の土豪だったようです。能勢なので多田院御家人だったのでしょう。
森上城の東側は尾根を3重の堀切で遮断し、西側にも堀切がありました。土塁に囲まれた広い郭が3つほどあり、それ以外にも削平地があるので、けっこうな人数を収容することができたようです。今は木が生えて眺望は望めませんが、当時は能勢街道をおさえる山城でした。

能勢・吉村城

吉村城
山辺城のすぐ近くにあるのが吉村城。
Googleマップでもバッチリ出てきます。山頂にありますが、山城の常ですが道がない。(笑)必然的に切岸を登ることになります。頂上まで登ると単郭があり、北東背後の尾根を堀切で遮断して土塁がありました。
防御はこれだけですので臨時的な城だったようです。天文年間(1532年~1555年)に吉村備前守盛光がいたと伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。ここらあたり山城が多いので能勢街道をおさえるためのネットワークの一つだったのでしょう。

能勢・山辺城

能勢・山辺城
能勢・宿野へ行く途中にあるのが栗栖という土地。コメリやスーパーもある賑やかな一角です。この近くに城山と呼ばれる山があり、これが鷹爪山。能勢富士とも呼ばれ、山上にあるのが能勢で一番大きな山城である山辺城(鷹爪城)です。
能勢一族だった大町氏の城で大町氏は多田院御家人でした。山辺城は1579(天正7)年に織田信忠、信澄らに攻められた記録もあります。
麓に月峯寺というお寺があり、近くに住宅街がありますが、これが急坂が多い住宅街になっています。かなりの傾斜がある坂を登った一番奥の住宅地から直登すると城にたどり着きます。ちょうど郭をつなぐ土橋に出られました。
山辺城は3つの郭からなっていて、郭間はかなりの高低差があります。一番高い所にある主郭は広く、くびれた所に虎口があり、別の郭群に続いています。土橋や堀切もあり、きれいに整備されており、なかなか見ごたえがある山城です。

大坂城築城残石群

大坂城築城残石群
前島(牛窓)の展望台近くにあるのが大坂城築城残石群。
大坂の陣で廃墟となった大坂城を土に埋めて、造り直すために運ばせたのが瀬戸内海の石です。船で輸送しやすいからで江戸城を造る時は伊豆半島から運ばれました。
けっこうな山の上に広大な石切り場がありました。石垣にするには整形しなけらばなりません。石を割る必要があり、目(割れる方向)を見定めて、石に矢穴と呼ばれる穴をあけて石を割り石垣にしていきます。
残石のなかには松江藩堀尾家(国宝・松江城の城主)、鳥取藩池田家(姫路城城主でしたが池田光政の時代に鳥取藩に移ります)の刻印が残っています。