伊坂城


新名神道路の工事前に発掘調査が行われた山城です。 発売中の「季刊考古学 第139号 特集 戦国城郭の考古学」にも伊坂城が載っていました。
城がある大矢知周辺は大矢知そうめんが有名で、近江とは八風街道で結ばれた交通の要所です。発掘調査では堀底道、郭、高さ6メートル以上の巨大な櫓門跡などが見つかっています。伊坂城は信長の北伊勢攻めで攻め落とされ伊坂氏は滅亡したと言われていますが、織田信雄の家来衆に伊坂氏がいますので、どうも信長に降伏したようです。
新名神の開通で城跡の半分ほどは破壊されましたが、郭や土塁跡は残っているという情報を見つけたので専門家派遣のついでに寄ってきました。
登山道の途中から竹藪に入り帯郭や土塁を見ることができます。一番高い主郭を目指しますが到達できそうな道はなく途中で断念。竹藪だらけでスーツ姿で行くのはオススメしません。
郭と郭の間を歩いていくと新名神のフェンスにぶつかりました。この先にあった郭などは工事で破壊されたようです。500年も残った遺跡なのに破壊はもったいないなあ。

中野城

中野城
三岐鉄道の保々駅近くにあったのが中野城。
土塁跡が一部だけ残っていますが、周りは住宅地で、少し高台になっています。城主は赤堀秀基で赤堀村から中野村へ移り中野氏を称したとありますが、ここらへんは伊勢朝倉氏の支配地でしたので、本当のところは分かりません。
織田信長は美濃攻略とともに北伊勢侵攻をはじめ、この方面は滝川一益が担当していました。保々西城、市場城ともども落城した模様です。
中野氏の元である赤堀氏の本貫は上野国赤堀郷で、祖先は平将門を破った藤原秀郷(俵藤太)です。

市場城

市場城
保々西城の支城だったのが市場城で朝倉氏の城です。朝倉氏といえば信長と戦った越前の朝倉義景が有名ですが伊勢朝倉氏はこの越前朝倉氏の分家だという説もあります。よく分かっていません。
市場城は、朝明川に面した南側が崖となった河岸段丘に築かれている城です。市場地区の公会堂裏手に竹藪が広がっていて、この竹藪の中に市場城があります。なかなか城の入口が分からなかったのですが、ようやく竹藪の中に虎口を見つけました。土橋がかかっていて空堀と高さ8メートルほどはある土塁がめぐっています。主郭は保々西城と同じような縄張になっています。 写真は主郭から見た虎口の様子です。見事な折れですねえ。
保々西城と同様に信長の伊勢攻めで落城した模様です。丘城なのでスーツ姿で大丈夫ですが主郭の中は竹藪だらけですので中に入るにはご注意ください。

保々西城

保々西城
専門家派遣の依頼で最初は断ったのですが支援先が三岐鉄道に乗って行くところでしたので思わず快諾。
というわけで専門家派遣の合間をぬって三岐鉄道に乗り保々西城へ行ってきました。北勢中央公園の一角に城があるのですが現地に着いても案内版も何もなし。公園関係者に聞くと野球場のボードの裏側から城に入る道があることを聞き、いざ潜入。城の碑もありました。
郭の土塁や虎口だけでなく城の前に拡がる屋敷跡の土塁も見事に残っていました。保々西城は丘城ですのでスーツ姿でも大丈夫です。これで雨さえ降ってなければよかったのですが...。
保々西城を造ったのは茂福城主である朝倉備前守。織田信長が伊勢侵攻してきた時に滝川一益の攻撃を受け落城、朝倉氏は滅亡します。

御着城

御着城
大河ドラマ「軍師官兵衛」の前半でよく出てきた御着城です。
大河ドラマでは片岡鶴太郎が播磨御着城主である小寺政職を演じていました。小寺政職は家老・官兵衛の進言に従って織田方についたのですが、別所一族や荒木村重の裏切りをみて毛利方につきます。織田は石山本願寺とも戦っており、けっこう危ない時期だったので判断としては妥当でしょう。
ところが織田はしぶとく生き残り、御着城は結局は織田に攻められて落城し、落ちのびます。小寺氏は播磨守護であった赤松氏の一族でした。
御着城は平城で川の水をひき堀にしていました。広大な敷地の城だったようですが、城跡は何も残っておらず、本丸跡は公園になっているだけです。JR御着駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。

英賀城

英賀城
山陽姫路駅から3駅目が飾磨駅(しかまえき)。ここから山陽電鉄網干線という支線が出ていて一駅目が西飾磨駅です。
駅から歩いてすぐの所にあるのが英賀(あが)城で、ほとんど住宅地に埋没してしまったのですが墓地や神社などに土塁が少し残っているのと堀跡が水路として残っています。この水路がけっこう湾曲していて昔は横矢はかかるように考えられていたんですね。
瀬戸内海が近く、英賀は古代より水の要所と栄えていました。夢前川の河口にあり、南が瀬戸内海、西に夢前川、東に水尾川が流れ、川を堀替わりにした平城で、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城の一つです。大河ドラマ「軍師官兵衛」では播磨進出を狙う毛利と小寺氏の部下だった黒田官兵衛が英賀で戦い、毛利軍を撃退する英賀合戦が描かれていました。英賀城は秀吉の播磨進出で敵対したため攻められ落城しました。

向島城

向島城
伏見指月城の横を宇治川が流れています。豊後橋(現在の観月橋)を渡ると向島です。
向島は昔、巨椋池を拡がる湿地帯でした。ここに造られたのが向島城で伏見城の出城の役割がありました。秀吉が亡くなってから家康の一時的な居城にもなっています。古地図を見ると本丸、二の丸、三の丸からなる大きな平城でした。水堀も大きかったようです。
今は市街地となってしまい、何も残っていません。本丸町、二の丸町という名前がついていますが昭和のはじめにつけた町名のようで、当時は堀跡などがまだ池として残っていました。昔の堀跡の位置に水路があったり微妙な高低差があったりして楽しめます。

伏見指月城 舟入

伏見指月城 舟入
京都橘大学へ。それにしても今日の京都は暑かったですなあ。
大学へ1年ぶりに行くと、けっこう色々と変っていて学食に行ったらカフェに変っていました。他の学食を探して、ようやく昼飯をゲット。帰りには伏見に行くスクールバスがあったので乗車。伏見指月城の舟入を見てきました。
秀吉が最初に造った伏見城で、観月橋近くの丘に造られましたが、慶長大地震で倒壊してしまいます。新たにの木幡山に造りなおすことになりますが、大河ドラマ真田丸では、新しい城の縄張図を真田昌幸に命ずるシーンが登場していました。伏見指月城跡は団地になってしまいましたが東側に大きな舟入があり、川から城に入れるようになっていました。
写真の先が深い谷になっていて、ここが舟入跡です。今は住宅地になっていますが高低差が見事です。

小松原館(紀伊)

小松原館
久しぶりに専門家派遣で紀州国へ行ったので、御坊駅で途中下車。
御坊駅のすぐ北側にあるのが亀山で頂上に紀伊亀山城があります。代々湯川氏の居城でした。紀伊亀山城は昔、これまた専門家派遣のついでに行きましたので今回は平城の小松原館を目指します。十一代城主・湯川直光が造った小松原館です。紀伊亀山城は山の上なので、寒風の季節は住みにくいというのが造った理由ですが、本当ですかねえ。そんな標高の高い山でもないし、温暖な紀州ですから冬の別荘替わりといったところでしょうか。河内国のもっと標高が高い飯盛山城に三好長慶なんか、ずっと住んでいました。
城跡はほとんど遺構が残っておらず、紀央館高校と湯川中学校になっています。湯川神社に堀の一部が残っています。後に羽柴秀吉による紀州攻めがあり、湯川氏は小松原館、紀伊亀山城を焼き払って退去したと伝わっています。

龍野城

龍野城
鶏籠山の麓にあるのが龍野城で平城になっています。龍野城の裏から龍野古城へ行けるのですが、ふつうの観光客は龍野城と城下町巡りを楽しみます。山城へ登るような、酔狂な人間はいません。(笑)
龍野城は戦国も終り、幕藩体制が整った頃に造られたので陣屋形式の城となりました。造ったのは脇坂安政です。石垣しか残っていませんでしたが隅櫓や埋門などが再建されました。脇坂家は幕末まで続くことになります。脇坂家の初代といえば”賤ヶ岳の七本槍”の一人である脇坂安治です。秀吉のもとで福島正則や加藤清正らと共に活躍しましたが、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋と一緒に裏切りました。まあ家康には事前に裏切ると言ってあったようです。
■しつこくて細かな性格だった秀吉
昨年、秀吉から脇坂安治へ宛てた手紙33通が新たに見つかり話題になりました。秀吉が佐々成政を相手に北陸攻めをしていた時、脇坂安治は京都御所などの建設用資材(材木)を運ぶ役割でした。ところが脇坂安治は北陸攻めに参加したかったようで、秀吉から”しっかり身をいれて材木を運べ、戦に参加したいとか言うな”という叱責の手紙をもらっています。しかも10日おきぐらいに出している時があり、秀吉は北陸ですから返事が来る前に出していたようです。子飼いの武将なんで秀吉も信用していたのでしょう。