
京都府の南にあるのが井手町で橘諸兄旧跡で有名です。この井手町にあるのが井手城。
井手城の位置が大体しか分からないので、ちょうどタケノコの収穫をしていた地元の人に尋ねてみました。
「井手城跡はどこらへんですか?」
「城跡?橘諸兄旧跡については聞かれたことあるけど、城なんて聞かれたのは初めて、そんな城なんてあるの?」
と別の人にも聞いてもらいましたが、誰も城があることを知りません(笑)。
■井手城
仕方ないので山道が途切れたところから頂上目指して登り、そこから尾根沿いに降りていくと大きな堀切がありました。山吹山から西へ派生した丘陵上にある城跡で主郭以外に4つほどの郭があるコンパクトな山城です。
山城には珍しく同時代史料に記録が残っています。「大乗院社寺雑事記」には1485年(文明17年)の条に井手別所寺ノ城という記載があります。山城国が共和国になった山城国一揆の時になります。また「厳助往年記」には1541年(天文14年)に上野源五郎が当城を落としたとあります。上野源五郎というのは細川高国(大物崩れで有名!)の有力被官ですので応仁の乱に巻き込まれていたのでしょう。
「細川両家記」には1568年(永禄11年)織田信長方に攻撃されたとあります。1568年といえば信長が足利義昭を奉じて上洛した時で、京都南部でも掃討戦があったのでしょう。
カテゴリー: 城・山城
近江 古城山城
近江 小堤城山城

野洲市に小堤城山城があります。山城では珍しく登山道が整備され、おまけに案内板も出ている!!
藪もなく、切岸を直登しなくても、道に沿って登れる山城です。楽ですな~あ!登山道の入口に尾根コースと曲輪コースがあり、迷わず曲輪コースを選択。大手道の両側に段曲輪が次々に並ぶ、なかなか壮観な山城です。雰囲気は安土城の大手道に似ています。けっこう大きな山城で堀切も巨大でした。曲輪には石垣が残っていて、虎口はきちんと折られ横矢がかかるようになっています。
小堤城山城を築城したのは六角氏の一族である永原氏と言われています。六角氏は近江源氏で鎌倉時代は南近江の守護でした。北近江の守護は京極氏でしたが浅井氏に台頭されます。浅井長政の小谷城に京極丸がありますが、ここで守護を遇していたようです。織田信長が清州城で守護の斯波氏を遇したのと同じですね。
六角氏は織田信長の上洛時に戦い破れ、拠点としていた観音寺城を捨て甲賀に逃れます。小堤城山城も織田方のものになってから改変されたかもしれません。
知高左衛門城
伊賀増田氏城
星ケ崎城(近江)

中山道の鏡宿を見下ろす鏡山の北端の支峰に築かれているのが星ケ崎城。
伝承では室町時代中頃に鏡氏(佐々木源氏)によって築城された山城で、常に暮らしていた館が麓の井上館で、こちらは詰城の模様。承久の変で鏡氏が滅んでからは六角氏が城主となったようです。織田信長が足利義昭の上洛で近江に攻め入った時に、六角氏が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたうちの一つという説もあります。
城はよく整備されていて主郭には石垣が残っていました山城に石垣があるのは珍しく、六角氏の時代のものでしょう。また主郭には「星ケ丘城跡」という石碑や説明版までありました。こんな山城ばっかりだと、どこが主郭跡か藪の中を探し回らなくてすむので楽なんですが。
頂上からは眺めがよく琵琶湖や新幹線が一望できます。近江八幡城などもよく見えます。
今も子孫が住む井上館(鏡城)
前田城(安濃)
金ケ原城(菰野)
南北朝時代の忠臣のお城 千草城

菰野にあるのが千草城
住宅街の中の丘の上にあるお城で、公園として整備されていて藪もなく、とても見やすい城になっています。東へ張り出した丘陵に千草城は築かれていて、東西二郭があり、虎口には空堀と土橋が残っています。特に見事なのが西へ続く尾根を断ち切った大空堀です。
■三木一草
千草城は南北朝時代に千種顕経によって築かれたと伝わっています。千種忠顕という後醍醐天皇に仕えた公家がいて、後醍醐天皇が隠岐に流された時にもついていきました。後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、伯耆の名和長年を頼り、船上山で挙兵をします。
これが鎌倉幕府の討幕へと進んでいきます。足利尊氏とともに六波羅攻めにも加わっています。南北朝に分かれてからは南朝方で戦い討死しています。千種忠顕は楠木正成、名和長年、結城親光と共に、「三木一草」と称されています。
■千草城
三重郡を領していた時は禅林寺城を居城としていましたが、子供の顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったようです。数代たった千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていたと言われています。
最後の千草氏は千草顕理で織田信雄、秀吉、秀頼に仕え、大坂夏の陣で討死し千草氏が滅び、この時に千種城も廃城になったようです。





