JR王寺駅から和歌山線に乗り換えて一駅目が畠田駅。駅を降りて丘を登ると片岡城があります。中世の城では珍しく案内板まであります。堀切などが見事に残っています。
珍しく誰が築城したかもわかっていて片岡国春という人物。1550年に築いたようです。片岡氏は鎌倉時代から続く武士団で、太平記に大塔宮護良親王に付き従う九名の中に、赤松則佑とともに片岡八郎の名がでており、片岡氏の一人とみられています。
大和は筒井党と越智党との抗争のなどがあり、最終的に片岡氏は筒井方についていましたが、松永久秀に片岡谷を攻められ落城しています。
松永久秀の配下となった片岡城は大改修され、現在の遺構はこの時のもののようです。松永久秀が信貴山城に立て籠もり織田信長に反旗を翻しましたが、支城の片岡城は明智光秀勢の攻撃を受けて落城します。
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御土居(上賀茂)
信長・六角氏同盟
先日、読売新聞に信長・六角同盟の新説が紹介されていました。
桶狭間合戦討死者書上という江戸時代に書かれた書状があり、このなかに今川方の戦死者が2,753人。織田方の死者が990人余りと書かれています。この織田方の死者に272人の近江・六角氏の援軍が含まれていたという記述があり、注目を集めています。
■六角氏
六角氏といえば佐々木氏の一族で、同じ一族である京極氏と争い、北近江が京極氏、南近江を六角氏がおさめることになります。この京極氏を追い落としたのが浅井氏。浅井氏の小谷城には京極丸があり、旧主である京極氏に由来します。
信長が足利義明を奉じて上洛する時、六角氏は信長に対抗します。信長に攻められて破れ、居城である観音寺城を立ち退きます。この観音寺城の横に後年、造られたのが安土城です。信長と六角氏はずっと争っていたのが定説でしたが、この書状の情報が本当なら桶狭間の戦いの時は同盟していたことになります。足利義昭は京都脱出後、一時期、六角氏にかくまわれていたので、この時に足利義昭を介して信長と六角氏が同盟を結んでいた可能性があります。
もし同盟が小牧山城築城あたりまで続いていると、小牧山城の三段の先進的な石垣はテクノクラート集団だった穴太衆を六角氏から借り受けて、実現したものかもしれません。
Googleマップで発掘中の伊坂城を発見
信長が焼いた枚岡城
全国に一宮があります。一宮とは、その地域で最も社格の高いとされる神社で大和国なら三輪神社、摂津国なら住吉神社になります。河内国の一宮が枚岡神社で、ウチの近くなので散歩コースにしています。枚岡神社は生駒山の山裾にあり、高低差がかなりありますので城には最適な土地だなと思っていたら城があったようです。
阪神高速東大阪線、東の端が水走出入口で、そのまま走ると第二阪奈になります。この地名の元になったのが水走氏。今は陸地ですが昔は大和川が流れ、古代河内湖の残りもあり水運が発達したところでした。
■信長が焼いた枚岡城
水走氏は河内国、大和国の一部(現在の東大阪市、大東市、八尾市、生駒市など)を支配する豪族で武士団でした。中臣氏と同流の平岡連の末裔と言われています。枚岡神社は中臣氏祖神となる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っており、代々、水走氏が枚岡神社の神職をつとめています。
水走系図に枚岡神社宮司だった水走左近有忠は信長の怒りをかい、信長は大軍をさしむけて”枚岡城”や有忠の屋敷を焼き、有忠は大和の筒井に去ったという記載があります。館城だと思いますが枚岡城があったんですねえ。
蒲生氏郷が築いた松坂城
昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング
平野環濠
大坂の古地図を見ると、必ずあるのが平野の文字。古代から栄えた集落です。坂上田村麻呂の次男である坂上広野麿が”薬子の変”の武功でこのあたりの土地を得て開発しました。広野麿の広野(ひろの)が平野(ひらの)という地名に転訛したと言われています。広野麿ですが、酒の飲み過ぎが原因で死んだといわれています。平野は500年間、宇治平等院の寺領でした。
戦国時代には7つの集落を集めて一つの郷とし、郷の周囲に町の周りに二重の濠と土居を巡らせ防御を整えて自治都市となりました。堺と同じ環濠自治都市です。堺と同様に織田信長から矢銭を要求され、最初は断っていましたが抵抗できず支払うことなります。環濠には13ヶ所の出入口が設けられ各地への街道に接続されていました。大坂の役では、平野に徳川秀忠の陣がおかれたこともあり、戦場となり町は焼け落ちましたが復興されました。
環濠は大正時代ぐらいまで残っていたようですが、昭和になって埋め立てられてしまいました。一部が復元されています。
城郭だった山科本願寺
十字軍とイスラムとの戦い、カトリックとプロテスタントの戦いなどの宗教戦争があり、今も続いていますが、日本でも宗教戦争が当たり前という時代がありました。
大坂城の前にあったのが石山本願寺ですが、もともと本願寺は京都の大谷にありました。ところが比叡山の僧兵に焼かれてしまいます。
■山科本願寺
そこで山科に山科本願寺を造ります。寺といっても高い土塁や堀などを整備した城でした。現在も山科中央公園などに土塁が一部、残っていて上に登れますが、けっこうな高さがあります。山科本願寺は日蓮宗と手を組んだ細川晴元・茨木長隆らの軍勢に攻め落とされてしまいます。
■石山本願寺
そして造ったのが石山本願寺。今度は強固な城造りをしたようで、織田信長との十年戦争に持ちこたえました。最終的には信長と和睦し、和歌山に退去。鷺森本願寺(雑賀御坊)を造ります。秀吉と和睦し大坂の天満本願寺に移り、最終的には京都へ移転し、本願寺として今に続いています。
大阪城 石垣の謎の穴
大阪府よろず支援拠点からの帰り、大阪城の南外堀横を通って森ノ宮駅へ出ています。大阪城公園は緑が多く、なかなか快適です。
いつも通る二の丸南面側の六番櫓近くの石垣にポッカリ穴が空いています。これが大阪城の謎の一つ。大坂の陣で真田幸村が城内から外へ通じる秘密の抜け穴を掘ったという伝説などが残っていますが、この穴はどの資料にも出てこず、昭和34年に行われた調査まで誰も気づいていませんでした。私なんか通るたびに気になるのですが、当時は埋まっていたんですかね。
石垣から積み石一個分が抜かれており、約90cm四方の穴ですから大人でも入れます。中は2mほど入ったところが崩れて行き止まりになっており、木の柱らしきものがあり人工的に掘られた穴のようです。
誰が穴を開けたのでしょうか。徳川が大阪城を再建した時、この周辺の石垣を担当したものが開けたのか、明治になってから大阪城には帝国陸軍第四師団がおかれましたので陸軍が開けたのか分かりません。
そもそも穴の目的が分からず今も謎になっています。大阪城の周りは散歩やランニングしている人が多いのですが、いろいろと面白いものがころがっています。
伊坂城
新名神道路の工事前に発掘調査が行われた山城です。 発売中の「季刊考古学 第139号 特集 戦国城郭の考古学」にも伊坂城が載っていました。
城がある大矢知周辺は大矢知そうめんが有名で、近江とは八風街道で結ばれた交通の要所です。発掘調査では堀底道、郭、高さ6メートル以上の巨大な櫓門跡などが見つかっています。伊坂城は信長の北伊勢攻めで攻め落とされ伊坂氏は滅亡したと言われていますが、織田信雄の家来衆に伊坂氏がいますので、どうも信長に降伏したようです。
新名神の開通で城跡の半分ほどは破壊されましたが、郭や土塁跡は残っているという情報を見つけたので専門家派遣のついでに寄ってきました。
登山道の途中から竹藪に入り帯郭や土塁を見ることができます。一番高い主郭を目指しますが到達できそうな道はなく途中で断念。竹藪だらけでスーツ姿で行くのはオススメしません。
郭と郭の間を歩いていくと新名神のフェンスにぶつかりました。この先にあった郭などは工事で破壊されたようです。500年も残った遺跡なのに破壊はもったいないなあ。