明日香というと蘇我馬子や聖徳太子などが活躍した古代の宮跡というイメージがありますが、その後も現在に続く歴史がありました。応仁の乱から戦国時代にかけて大和では国人どおしの戦いがあり、最終的に織田信長が大和を平定するまで戦乱が続きます。明日香には山も多く、城造りにはうってつけの土地でした。
大和三山・耳成山の頂上には天神山城という城が造られ、この城で室町幕府方の赤澤朝経(ともつね)という武将が大和の国人と戦っていました。越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰(中大兄皇子と藤原鎌足が密談した談山神社のある所)の城塞群にたてこもっており、明日香も戦場になっていました。
雷丘の北側200メートルぐらいの所に雷丘と同じような丘があり、ここが雷ギヲ城です。見事な郭跡と堀切が残っていました。雷丘のすぐ近くなので連携して用いられたか、付城としたのかなど詳しいことは分かっていません。
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明日香城塞群(1) 雷丘城
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも
皆さんご存じのように柿本人麻呂の有名な歌で、歌の舞台は明日香にある雷丘(いかづちのおか)です。雷丘のすぐ近くで小治田宮と書かれた土器が見つかり、この付近に推古天皇の小治田宮があったようです。教科書の記載でもめている聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を渡し、翌年には隋使・裴世清を連れて帰国します。一行を迎えた場所がこの小治田宮となります。
■雷丘城
雷丘は高さ10メートルほどの小高い丘で上に登ることができます。この丘は中世には城になっていました。一番上に主郭があり、隣りの郭との間には堀切もあります。これがなかなか見事な堀切でしっかり残っていました。よく見ると帯郭もありました。ただ掲示板などには城に関する説明はどこにもないので明日香を散策する人にとっては単なる丘です(笑)
「春の坂道」の舞台 柳生藩家老屋敷
柳生藩陣屋の近くにあるのが柳生藩家老屋敷。国家老・小山田主鈴の邸宅で江戸時代の武家屋敷がそのまま残っています。
明治まで子孫が住んでいましたが、その後、売られ、やがて手に入れたのが作家・山岡荘八。全26巻の徳川家康などで有名な作家です。ここで「春の坂道」の構想をねりました。
本が発売され、1971年にはNHKの大河ドラマとなりました。柳生但馬守宗矩(中村錦之助)、柳生十兵衛(原田芳雄)、柳生石舟斎(芥川比呂志)、徳川家康(山村聡)という俳優陣でした。柳生でロケが行われた写真の展示がありました。
知り合いの鎌田さん情報によれば、大河ドラマ「春の坂道」は唯一1話も映像がNHKに残っていない大河ドラマで、たまたま視聴者が録画していた最終回がDVDとして発売されたそうです。
柳生陣屋跡
柳生但馬守、柳生十兵衛といえば徳川将軍の剣道指南役で、柳生新陰流で有名です。
”新”という名前がついているので、もともとは陰流がありました。伊勢の五ヶ所浦出身の愛洲移香斎が編み出した流派です。柳生石舟斎(但馬守)が戦国時代の人を殺す剣法ではなく、人を活かす活人剣として発展させ、また無刀取りでも有名となりました。
柳生石舟斎は筒井氏に敗れ、柳生城などが落城し筒井順慶に従うことになりますが、やがて筒井を追い出して大和を支配した松永久秀の配下となります。ところが勢力を盛り返していた筒井純慶と松永久秀が辰市城でぶつかり松永久秀は敗退します。この時、柳生は久秀側で戦います。のちに筒井とは和睦しますが柳生の里に逼塞することになります。逼塞している時に新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい新陰流の奥意を極めることになります。自身も鍛錬していた家康との縁ができ、将軍指南役になっていきます。
柳生城のすぐ近くの丘の上にできたのが柳生陣屋。柳生石舟斎の子である柳生宗矩が築きました。ここが柳生藩の政庁となります。横は川が流れ、高台にあり城にはもってこいの立地でした。
柳生古城
柳生城から北側に少し歩いたところに古城山があります。城山という名前の通りに、こちらにも山城がありました。バス停の背後から剣塚に向かう山道を歩くと城跡にたどりつけます。剣塚があるところが主郭となっています。
柳生古城もいつできたのか分かりません。ひょっとすると柳生城と同じ時期に造ったのかもしれません。奈良から月ヶ瀬に抜ける街道を柳生城と挟撃する形になっています。
柳生城と違い、藪もなく整備されているので堀切などがよく分かります。手前の堀切はL字型になっていて食違虎口のようになっているのが特徴です。ただ北側は二重堀切で防御を固めていますが、ちょっと北へ行くと直ぐに山頂になっていて、なんでここに郭をつくらなかったのかが不思議です。北側の笠置方面からの攻撃はあまり想定していなかったようです。
柳生城
今日は原稿書きの予備日だったんですが、思ったより早く原稿があがったので、奈良からバスに乗って柳生へ出かけてきました。
柳生氏の菩提寺である芳徳禅寺の東南の丘にあるのが柳生城。
ただ案内も何もないので登る道が分かりません。とりあえず坂を登っていくと堀切と曲輪の一つを発見。主となる曲輪は8メートルほど上がったところのようです。仕方ないので切岸、つまり崖を直登します。けっこう広い曲輪がありました。登った反対側に虎口があり、そこからだと直登しなくても、よかったのですが後の祭りです。
芳徳禅寺の前に石舟斎塁城跡の碑があります。柳生石舟斎とは柳生宗厳のことです。高台にある芳徳禅寺も曲輪の一つだったようです。
城が造られたのはいつか分かりませんが、天文13年(1544年)に筒井氏の大軍に攻められ、落城したとあるので、それ以前に城はあったのでしょう。柳生家巌・宗巌父子は筒井氏に降ることになります。
客坊城
「応仁の乱」(中公新書)が話題になっています。
足利義政が弟の義視を後継者にしたところ、日野富子が子供(義尚)を生んだことで後継者争いに発展。それぞれ細川勝元と山名宗全がくっついて、応仁の乱が勃発したというのが一般的なイメージなんですが、そんな単純なものでは途中でクーデターが起ったりして波乱万丈な戦いでした。
■客坊城
京都だけでなく大和や河内国も戦乱に巻き込まれ若江城、天王寺城、八尾城と共に客坊城が舞台になりました。客坊って、ウチの近くの客坊町?
客坊城では畠山政長方(東軍)が守っていましたが、西軍の畠山義就に攻められて陥落したと大乗院寺社雑事記に記載されています。というわけで自転車に乗って出かけてきました。生駒山の山麓を登った東大阪市立郷土博物館 の北側に昔、客坊寺があり、そこが客坊城でした。遺構はなにも残っていませんが、眺めがよく大阪平野が一望できます。
西側を見ると若江城や天王寺城がよく見えます。こんなところも応仁の乱の戦場になったんですなあ。
笠置山城
鎌倉幕府打倒計画が漏れ、危なくなった後醍醐天皇は京都を脱出。三種の神器を持って挙兵したのが笠置山です。
ところが圧倒的な鎌倉幕府軍に囲まれ、笠置山は落城。後醍醐天皇は捕らえら隠岐に流されます。その間に楠木正成や赤松円心などの反幕勢力が勃興し、隠岐を脱出した後醍醐天皇と合流。足利尊氏、新田義貞を巻き込んで南北朝時代へ突入していきます。
全ての発端となったのが笠置山。ICカードが使えないJR笠置駅からすぐ見える山で、頂上に寺があり、ここが山城になっていました。あまり山城の遺構は残っていませんが稲荷神社や六角堂跡付近は高台で郭になっていました。ところどころに竪堀もあります。それはよいのですが笠置寺の住職が”猿が4匹、山の中を走りまわっているので気をつけて”と言っておりました。どう気をつけたらいいんだか。(笑)
笠置山の北、東、西は急峻な崖になっており、南側(柳生方面)は少しなだらかになっています。東海自然歩道から一歩入ると郭が5つほど並んでいました。こちらは戦国時代に造られたもののようです。
明石城
船上城(明石)
キリシタン大名・高山右近といえば高槻城が有名ですが、高槻の後に築城したのが明石の船上城(ふなげじょう)で明石川の河口に造られた水城です。
吉が関白になった時に全国的に国替えが行われ、高山右近は高槻から明石に国替えとなりました。明石は目の前が淡路島で現在は明石海峡大橋がかかるぐらい狭いところなので瀬戸内航路を監視するにはもってこいの場所です。当時は堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていました。
船上城ですが堀跡が小さな水路として残っているだけで、住宅地に埋没してしまいました。主郭のあったところだけは、こんもりとして丘になっています。近くの児童公園に船上城の説明版がありました。一国一城令が出て明石城が造られる時に船上城の部材がリサイクルで使われました。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓といわれています。
高山右近ですが、この船上城時代にバテレン追放令が出ます。
その後、右近は天正15年(1587年)に発令されたによって船上城を追放されてしまった。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地などを捨てることを選んで、世間を驚かせます。