能勢電鉄に揺られて山下駅へ。駅から山の麓へ歩くと平野神社があります。山城の地図を見ると、この平野神社の裏山あたりで、山道を登りはじめます。山道のところどころに地蔵があり、33ケ所巡りができるような形になっています。さて頂上ちかくに登ってもとんと山城跡がありません。おまけに野生の鹿が出てくる始末。どうも山を間違えたようで、もう一度、下って平野神社まで撤退。
平野神社の奥の方へ行くと「山下城」と小さな木札がかかっているのを発見。”これだ”と歩きはじめると、途中から沢道になってしまいました。しかも、さっき頂上まで行った山につながっているようです。”こりゃ、違うなあ”と山道で行くのはあきらめて、崖の直登を開始。20メートルほど上がると山道を発見。これが城につながる道だろうと歩いていくとピンポン。なんですが、着いたのは城を守るために造れらた二重堀切の跡。見上げると櫓跡のようなものが見えます。山道を行くとかなり回り道になりそうなので、今度は切岸の直登を開始。10メートルほど登ると主郭の櫓跡に着きました。
■獅子山城、一庫城
山下城は獅子山城、一庫城とも呼ばれていたようで、もともとは源頼仲が造った城のようです。源頼仲の婿だった塩川氏が代々、城主になっていたようです。南北朝時代から戦国時代にかけて攻城戦が行われました。まだ細川春元の部下だった三好長慶が三好政長、波多野秀忠らと共に山下城の塩川政年を包囲して戦ったりしています。秀吉の時代まで城はあり、その後に破城になりました。
主郭は公園になっていますが土塁も櫓跡も残っています。いくつも曲輪があり、多くは畑や神社になっていますが、曲輪の形は見事に残っています。写真は主郭からずっと下ってきた七の段にある愛宕神社から眺めた能勢の風景。能勢街道をおさえる城でした。
山から下り、ようやく山城への入口を発見しましたが、「あぶない」という立て看板が立っているだけで、道かどうかも分からない入口。こりゃ気がつくのは無理ですねえ。やっぱり迷ったら直登ですなあ。(笑)直登は体力を使いますので良い子はやめましょう。
カテゴリー: 城・山城
松永久秀が散った信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。
日本の国名ができた時代に造られた高安城(古代)
中世の高安山城から信貴山城へ行く途中にあるのが高安城倉庫跡です。山の上に倉庫の礎石跡が残っていて、ここに7つほどの倉庫があったようです。
■白村江の戦いの後に造られた城
日本史で習いましたが663年の白村江(ハクソンコウ)の戦いで大和・百済連合軍は大敗北。国家存亡の危機に唐・新羅などの侵攻に備えて高安城、屋嶋城(讃岐)、金田城(対馬)を築いた話が日本書紀に出てきます。
倭国は唐と戦後処理を行い、友好関係を目指しますが、そこはどうなるか分かりません。国内では飛鳥浄御原令の制定など律令国家などを急速に進め、国家体制を充実させます。国名も倭国から日本に変えます。そして最後の防衛線として造られたのが高安城です。
■ずっと幻の城だった
高安城は日本書紀に記載されていますが、場所が分からず幻の城と言われていましたが、市民グループ「高安城を探る会」が発見したのが倉庫群。ただ発掘調査したところ廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物であることが判明します。それでも大仏開眼や正倉院よりも以前の話なんで、すごいんですがあ。
ところが1999年に100メートル以上も続く石垣が地元の研究者によって発見されます。調査が進むと城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城だった模様で、東西も1.2kmあったようです。こうなると高安山一体が城跡ということでホンマかいな!!
■壬申の乱の舞台にもなる
壬申の乱というと不破の関での戦いなどが有名ですが高安城も戦場になりました。近江朝廷軍が支配していた高安城を大伴吹負の兵が攻め占領します。朝廷軍が難波から攻め込んできたので高安城から下り、難波から攻めてきた朝廷軍と石川で戦います。
大坂の陣では後藤又兵衛が石川を渡り、小松山で徳川軍と戦いますが、昔から要衝の地だったんですね。
高安山城(中世)
高安山に登り生駒山縦走路にぶつかります。この縦走路沿いに歩くと丸いドームが印象的な高安山気象レーダー観測所があります。大阪の街からも見えます。
この観測所のすぐ近くに高安山山頂があり、ここに高安山城跡があります。生駒山縦走路が城の真中をつっきっており中世は路ではなく堀切だったようです。以前に通ったことがあるんですが、ここが城跡とは全然気づきませんでした。
今回は地図を調べていったので、路から少し崖を登ると曲輪と曲輪の間の堀切に入れます。曲輪の土塁も残っていて、なかなか見事です。奥にも曲輪があり、かなり大きな城です。高安山山頂にも曲輪があったのですが、こっちはあんまり痕跡が残っていません。
字は出城になっていて信貴山城の出城だったようです。そうなると造ったのは松永久秀でしょう。高安山は標高488mあり、信貴山の標高より高いので大阪よりの防備を固めたのでしょう。高安山城から30分ほど山道を歩くと信貴山です。
住宅街に残る菜畑城
「近畿の城郭3」を読んでいたら住宅街にある城を発見。さっそく行ってきました。
大阪から生駒トンネルを抜けると生駒駅、ここで生駒線に乗り越えて一駅目が菜畑駅。少し歩くと往馬大社で、この近くに城があるはずなんですが、なかなか見つかりません。
けっこう迷っていると住宅地図の看板を発見。城山という字名があったので、たどりつくとピンポン、城跡でした。といっても住宅地なので丘の上に家が並んでいるだけで土塁などは残っていませんが、堀切(曲輪と曲輪の間を断ち切った堀)などが狭い公道で残っていました。
■住宅地に残る菜畑城
曲輪がそのまま住宅地として残っていて見事ですね。住宅地開発では城は壊されたり津の渋見砦公園のように何もなくなって、単なる公園になるケースがほとんどですが、曲輪だけですが見事に城跡が残っていました。
城の横は小川が流れていて、これが堀代わりだったのでしょう。この堀から切岸(侵入できないような崖)になっていました。誰が領主だったのか記録にもまったく出てこない城ですが、けっこう大きな城です。近畿大学のグラウンドと緑ヶ丘中学校のちょうど間ぐらいにあります。
大和三山に山城があった
大阪から三重へ行く時に、よく大和八木駅で乗換しています。大和八木駅の横に見えるのが耳成山。大和三山の1つです。
先日、6,480円の大枚を払って買ってきた「近畿の城郭3」を読んでいたら、天神山城という山城が出てきました。場所をよく見ると耳成山頂上!耳成山に山城があったんだあ!
■天神山城へ
ということで雨が降る前の午前中に大和八木まで出かけてきました。耳成山の頂上近くに耳成山口神社があり、かっては天神社と呼ばれ、耳成山も天神山と呼ばれていたそうです。それで天神山城なんですなあ。この神社の裏手が城跡です。
明治天皇が陸軍の演習見学で頂上へ登った時に少し改変していますが、割と城跡が残っていました。郭もたくさんあり、帯郭もあって、けっこう大きな城です。
城を造ったのは赤澤朝経(ともつね)という人物で室町幕府方。大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもっており、赤澤朝経は山城を本陣にして連日、合戦にむかっていたと記録に残っているそうです。香具山にも城跡があるそうなんで、これは行かねば!
高山右近がキリシタンになった沢城(宇陀)
宇陀松山城(秋山城)の後、レンターサイクルで沢城へ行ってきました。
沢山の頂上に造られた山城で、自転車を置いてずっと山道を登っていきます。途中で分岐して上に登る道があり、”沢城への道はてっきりこれだ”と思って登ったのが運のツキ。途中で山道がなくなってしまいます。見上げると郭らしきものがあるので、”目標はあれだ!”と8メートルほどの切岸(敵の侵入を防ぐために造った人工的な断崖)を直登。3度ほど、ころびましたが、なんとかたどりつくとピンポン、沢城の郭でした。
沢城の主郭は藪だらけでしたが、出丸跡の土塁や堀切跡が見事に残っていました。城跡には看板もあり、山道を途中で上に登らずにずっと歩けば、無事に城にたどりつけたことが帰りに判明します。ムリに直登して、ころばなくてもよかったんだあ。
■高山右近がキリシタンとなった沢城
沢城を造ったのは宇陀三将の一人である沢氏。宇陀から山を越えれば三重県の多気で、沢氏は南朝方だったこともあり伊勢国司・北畠の重臣でした。沢氏古文書が現在まで伝わっており津にも領地をもっていたことが分かっています。ところが三好長慶の家来である松永久秀が大和を支配するために攻めてきて沢城は落城。松永久秀に従っていた高山友照(高山右近のお父さん)が新しい城主となります。
沢城が有名なのが、ここで高山友照や少年だった高山右近が洗礼を受けてキリシタンになったことで、ポルトガルの医師アルメイダが沢城を訪れており、アルメイダから報告を受けてルイス・フロイスが「日本史」に沢城につて書いています。城には教会や礼拝堂も建てられました。高山友照や家臣らがキリシタンになったことで、三好長慶の本拠地である河内・飯盛山城でもキリシタンが広まり、岡山城や砂、三箇城に教会が建てられ河内キリシタンとなっていきます。
宇陀松山 陣屋
大坂の陣が終わった1615年に宇陀松山城が破城となり、麓に陣屋が作られ、宇陀松山藩の中心は陣屋になりました。陣屋そのものは残っておらず西口門、春日口に石垣の一部と城下町に枡形が残っています。
■信長の次男、織田信雄
この宇陀松山藩に入ったのが織田信雄。信長の次男です。信雄は信長の伊勢攻めでは伊勢・国司だった北畠家にM&A戦略で入り込み、最終的に北畠家を乗っ取ります。本能寺の変のあとは秀吉と組んで三男・信孝と対立し、賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に味方します。ところがその後は家康とくっついて秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いましたが、秀吉に伊勢に攻め込まれて単独和睦します。
大坂の陣が終わった時には、60歳前でしたので家康から与えられた宇陀松山の土地は隠居地でした。山上にある宇陀松山城(秋山城)は宇陀三人衆だった秋山氏の城で、秋山氏は伊勢の北畠家中でしたので、宇陀でも織田信雄にやられたことになります。実際は途中に福島正則の弟がおさめるという中継ぎがありました。
織田信長の子孫で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけになります。宇陀松山藩は元禄7年(1694)に丹波国柏原へ国替えとなってからは、幕府の天領となり城下町は宇陀千軒と呼ばれるようになります。古い町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。街並みを眺めただけで、道の駅へ寄って、そのまま沢城へ向かいました。
秋山城(宇陀松山城)
昨日、原稿書きは終わったし、天気もよく、おまけに誕生日ということで山城登りに出かけてきました。
榛原駅前でレンターサイクルを借り、目指すは宇陀松山。古い城下町の街並みが残っていて、重要伝統的建築物群保存地区になっていますが、町並みを横目に春日神社の脇からひたすら山登り。目指すは宇陀松山城です。もともとは宇陀三将の一人、秋山氏の城で秋山城といっていました。豊臣秀長が大和を支配するようになって近代城郭に生まれ変わります。
山城というとうっそうとした木々の中にあるものですが、国史跡ということもあり、きれいに整備され天守台跡に建てば360度、宇陀地域を見渡すことができます。昔、柿本人麻呂が「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」と歌った阿騎野も見えます。
発掘調査もすすめられており、門跡や大手道などには石垣が使われて、なかなか見応えがあります。発掘で分かってきたのは豊臣時代の大和は大和郡山城、高取城の2城体制だではなく、宇陀松山城も足した3城体制だったようです。大坂夏の陣の後、大坂方だったため小堀遠州らによって宇陀松山城は廃城にされました。
「図解 近畿の城郭3」買ってしまった!
サンパル6階にある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談。神戸での窓口相談は3年目になり、この3月末で卒業です。今日を含めて残り3回となりました。
サンパル1階や周辺に飲食店が多いのでランチには困りません。そういえば名古屋市新事業支援センターが入っていた吹上ホールの周りには何もなかったなあ。
サンパルの隣がダイエーでジュンク堂が入っており、お昼に本を買うのも便利です。さてジュンク堂の日本史コーナーに立ち寄ると「図解 近畿の城郭3」(6,480円)がデーンと置いてありました。
城郭談話会・創立30周年を記念して出しているシリーズ本です。今回は近畿6府県の山城・城館182ヵ所が縄張図入りで紹介されています。このシリーズ、1も2も買っていますので、3を買わないワケにはいきません。
ということで6,480円を出して買ってきましたが、このシリーズいつまで続くんだあ!!
ずっと買わせる戦略はデアゴスティーニの週刊サンダバードシリーズと同じじゃないかあ!!