石仏城

石仏城

河内長野の先に南海電車・美加の台駅があり、この近くにあるのが石仏城です。事前に城への行き方を調べましたが情報が少なく、2つほどのピークを越えてたどりつけたという情報を見つけ正月明けにトライしました。

新池ちかくの細い道から山に入れる山道があるという情報でしたが発見できず、仕方ないのでピークに向けて直登です。なんとかピークにたどりついて今度は城の方向へ下っていくと途中で山道を発見。これをたどっていきましたが、保全用の路だったようで、結局は鉄塔が建っている山頂にたどりつき城跡を探しましたが、どこにもなし。1時間以上もさまよったのでこの日は断念して下山しました。後で調べると北にずれていました。

再度、調べなおすと新池からの細い道を通って、途中から城に登れる山道があるという情報を発見。新池の北東角から細い道に入って右手に棚田をみながら進んでいきます。だんだん登り道になり山に入るところで道が二手に分かれています。あれま!

とりあえず城にちかい左の道を選びましたが下り道になり、どうも違うようです。仕方ないので道が二手に分かれる付近に戻って尾根を直登することにします。冬なので藪も突破しやすく、ひたすら登りますと郭跡に出ました。藪が多いのが主郭や土塁などが確認できました。

石仏城は東高野街道沿いにあり紀伊との国境に最も近い山城で楠木正成が紀州からの来襲を防ぐ目的で築城したと言われています。戦国時代は畠山氏の合戦で使われたようです。

大河原城

2025年初山城は大河原城へ

大和街道(関宿から伊賀上野を経由して奈良へ至る道)沿いにある山城で、木津川の支流である渋久川がすぐそばを流れています。貞観元年(896)年の記録に出ている古社・国津神社の東側に春光寺があります。寺の前の道を東に進むとグランドの北側に公園があり、この公園を横切ると山裾にお墓があります。このあたりから堀切になっているようで登っていくと土橋らしきものに出て、ここから尾根まで斜めに登れる道があり郭に入れます。

三日月状の郭になっていて、郭がいくつも連なっています。周りを土塁に囲まれた大きな郭があり、ここが主郭だったようです。南西方向に350mにも延びる連郭式と言われる大きな城で、JR関西線や大和街道などによって城域が途切れています。

采女城

采女城

四日市でお仕事でしたが時間があったので四日市あすなろう鉄道に乗って内部駅へ。ちょっと歩いて久しぶりに采女城へ登ってきました。標高は低く、きれいに登山道が整備されていてスーツでも登れます。おすすめはしませんが。

1260(文応元)年に後藤基秀が武功により三重郡采女郷の地頭職となり采女の地に移住し、城を築いたと伝わっています。また承久の乱で上皇側について敗れた後藤基清が築いた説もあります。後藤氏は南北朝から室町にかけては北畠氏に仕えたようです。

采女城は足見川と内部川の合流地点の北岸にある丘陵尾根にあります。南北に延びる尾根に一の郭,二の郭,三の郭を置き、西に四の郭,九の郭、南西に五の郭,六の郭,七の郭、南に八の郭が連郭式に配されています。永禄年間(1558~70年)、織田信長が伊勢侵攻がはじまり、滝川一益に攻められ、落城しました。

浜田城

近鉄四日市駅の北西にあるのが浜田城。跡地は鵜森神社と公園になっていますが神社の周りに土塁と堀跡が残っています。都会の中によく城跡が残りました。浜田城は文明2年(1470年)に田原氏(赤堀氏)によって築かれましたが信長の伊勢侵攻で滝川一益に攻められ落城、廃城になりました。

時が流れて小牧・長久手合戦が起き、伊勢も戦場になりました。松ヶ島城(松阪)を服部半蔵ら甲賀衆とともに守っていた滝川勝利は羽柴秀長(2026年大河ドラマの主人公)に攻められて開城します。滝川勝利はもともと一志にいた木造氏で滝川一益に気に入られて娘婿になります。

松ヶ島城を出た後、織田信雄の命で浜田城に入り、廃城になっていた浜田城を改修します。秀吉側は浜田城の周りに羽津城など付城をつくります。どうも滝川勝利は秀吉と連絡をとっていたようで動きを封じるだけで、織田信雄が秀吉と和睦を結ぶまで守り切った形になりました。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

北陸の雪解けで始まったのが賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、秀吉側、双方とも陣城戦になりました。

秀吉側は弟の羽柴秀長が田上山城に入り本陣にしました。北国街道を封鎖する神明山砦、堂木山砦、東野山城、溝谷砦、菖蒲嶽城に第一防衛ラインを築きます。また余呉湖東側の尾根に賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦を築き第二防衛ラインにします。

対する勝家側は玄蕃尾城を本陣とし、行市山砦に佐久間盛政、派生する尾根筋に前田利家・利長が入った別所山砦などを築きます。

勝家側は挙兵した滝川一益との連携でしたので秀吉の封鎖を突破する必要がありました。ですので陣城は簡易的なものが造られます。反対に秀吉側は南下を食い止めながら、滝川一益を孤立させ各個撃破したらよいので、技巧的で守りに徹した陣城を築きあげます。

ですので山城的に面白いのは秀吉側の陣城になります。秀吉側の陣城を優先して、ほぼすべてに登りましたが、まだ勝家側の陣城が残っています。これから積雪シーズンですので賤ヶ岳の戦いと同様に雪解けシーズンを狙うしかなさそうです。

神明山砦

神明山砦

堂木山砦と連携していたのが神明山砦です。堂木山砦を一巡りした後、各砦への分岐点に戻り、西側にある山頂へ向けて登っていきます。途中に切岸と郭らしきものがあり、出丸のようです。さらに登っていくと大きな郭があり山頂に主郭がありました。

神明山砦の守将は蜂須賀家政(蜂須賀小六の息子で徳島藩の藩祖)と記載されていますが「賤ヶ岳合戦記」には木村隼人(大坂の陣で有名な木村重成のお父さん)が中心になって守備したとあります。郭の周りにも削平地があり兵が駐屯したのでしょう。

この主郭を中心に東西尾根に郭が配置されています。奥には二重になった堀切があり、茂山砦へと続いています。茂山砦は前田利家が佐久間盛政の中入り攻撃を助けるため移動した茂山に築かれた砦です。ただ一時的な利用のためか遺構が残っていないようで行くのは断念。茂山から堂木山にかけてはハイキングコースになっていて、山城では珍しく2組のハイカーとすれ違いました。

堂木山砦

堂木山砦

賤ヶ岳の戦いの最前線になったのが堂木山砦です。柴田勝家に対抗するために秀吉は天神山砦-今市山砦を防衛ラインとしましたが、天神山砦を見下ろせる行市山砦に佐久間盛政が陣取ったため防衛ラインを1.5km南側に下げます。

神明山砦・堂木山砦を尾根沿いに配置し、北国街道を挟んだ反対側の尾根に東野山城を築きました。堂木山砦と東野山城の間には土塁の壁を造り最前線の防衛ラインにします。堂木山砦には秀吉方に寝返った長浜城主・柴田勝豊の家臣が入りました。城主は寝返りましたが反対した家臣も多く砦を脱走して柴田側に寝返るものもいたため、最終的には木下一元が守将となります。

余呉駅のすぐ北にある山にエッチラオッチラ登ると堂木山砦と神明山砦への分岐点に出ます。ここから登っていくと堂木山砦に到達しますが砦というより城になっています。郭が4つあり、虎口も食い違いになっており、なかなか技巧的です。

吉田城

吉田城

せっかく豊橋まで出たので吉田城へ。

もともとは牧野古白(こはく)が築いた今橋城でしたが松平の支配下になると酒井忠次が東三河を統治する拠点としました。西三河の筆頭は石川数正です。三方ヶ原の戦いで家康に勝った武田信玄は家康の本拠地である三河へ進撃します。また水軍を組織して三河を攻めはじめます。陸と海から攻められた家康は吉田城に入って信長に援軍を要請しましたが、信長は機内の戦いで身動きがとれない状況でした。ところが信玄はなぜか撤退をはじめます。結局は病から死亡し、家康はなんとか虎口を脱します。

家康が関東に移封されると池田輝政が入って改造を始めます。この当時の城の遺構が残っていて本丸を中心に堀切や土塁が残っています。二の丸の土塁も低いながら残っていました。シンボルとして豊川に面する鉄櫓(くろがねやぐら)が復興されています。

馬場信房の墓

馬場信房の墓

長篠城の近くに馬場信房の墓があり、信房の首を埋めたと伝えられています。馬場信房は武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた重臣で、三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めました。

長篠の合戦では鉄砲の弾という物量戦と武田軍が攻めつかれたところへ信長が温存していた兵力をぶつけたため武田軍は崩れます。馬場信房は撤退する武田軍の殿隊をつとめ、武田勝頼が戦場を脱出したのを確認し、そのまま引き返して敵方に突入し戦死します。62歳でした。

武田家の武将の討死は撤退時が多く、勝頼を逃がすために身代わりになったようです。勝頼は決して凡庸な2代目ではありませんでした。真田信綱・昌輝兄弟も長篠の戦いで討死にしたため、真田昌幸が家督を継ぐことになり真田丸につながっていきます。長篠の合戦は武田家に致命的な影響は与えませんでした。

■武田家滅亡の引き金
高天神城を家康が攻め、武田勝頼は高天神城の後詰にいけず、落城したことで勝頼の信頼が落ちます。信長は勝頼と和睦交渉しており、交渉を長引かせて救援にいけないよう時間稼ぎしていました。高天神城が落ちてから勝頼が見捨てたと宣伝する心理戦でした。

また上杉謙信の跡目争いで勝頼が上杉景勝に加担したことが致命傷になりました。上杉景虎を敵に回すことは景虎の兄である北条氏政を敵にしてしまい、これが武田家滅亡へつながっていきます。

設楽ヶ原

設楽ヶ原

徳川家康・織田信長連合軍と武田勝頼軍が戦った設楽ヶ原です。現地へ行ってみたら思った以上に狭い場所で両軍が対峙した連呉川も小さな川でした。互いがよく見えたでしょう。観光用に馬防柵が作られていました。

信長の鉄砲で有名な戦いですが、鉄砲の装備率を見ると武田勝頼と信長との差はあまり、ありませんでした。問題は弾で信長、家康軍はタイから輸入した鉛を使っていました。武田領に金山はありましたが鉛山はなく、武田軍は最初に鉄砲を討った後に弾が少なくなるため突撃したようです。

■信長の経済封鎖
武田側の長峰砦跡から見つかった弾は中国からの渡来銭と成分が同じで銅銭を材料にしていました、また神社に賽銭の中の悪銭を上納させて弾にしようと命じていました。信長側はは堺で硝石をおさえ伊勢商人にも東国に物資を流してはいけないと圧力をかけていました。また大津、草津を抑えていたので琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われていました。武田信玄が三方ケ原の戦いなど西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると起こした行動ではという説もあります。

■長篠の戦いは銅山の取り合い
武田信玄と家康で奥三河の争奪戦が行われましたが理由の一つが銅山です。長篠城ちかくの睦平鉛山の銅で作られた弾が長篠古戦場から出ています。長篠がある奥三河には睦平鉛山があり、徳川側の弾の原料である鉛に使われていました。長篠の戦は、この鉱山の取り合いでもありました。経済戦争の側面があったんですね。

■しかみ像
信長は本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出しますが、当事者の家康側は馬防柵の外へ出て戦いました。有名な家康の「しかみ像」がありますが、三方ヶ原の負け戦を忘れないために書かせたと言われていますが書かせたのは尾張藩祖の徳川義直のようで長篠の戦の時のようです。徳川美術館が出した図録の解説で三方ヶ原の戦いと記載したため広まったようです。