天神山砦

天神山砦

JR余呉駅からずっと北へ行ったところに天神山砦があります。天神山砦へは草岡神社の裏側から動物除け柵の入口を通ると遊歩道があるという事前の情報をチェックして向かったのですが、行ってみたら藪の中。ようやく柵の入口を見つけても遊歩道は見つかりません。ひたすら急坂を登るだけで、かってあった遊歩道は山道に変貌していました。何とか苦労して砦の虎口に到達。

天神山砦は天正11年(1583年)に起きた賎ヶ岳合戦で秀吉方が築いた砦です。賎ヶ岳合戦では柴田勝家側も秀吉側も、たくさんの砦を作り、均衡状態になります。天神山砦は最前線の砦として築かれました。最前線なので、けっこう大きな陣城になっていて東西二郭を中心としており、西郭の方が高所にありましたから主郭だったのでしょう。土塁が巡った郭が続き、郭の間は堀切で区切られています。

かなりの土木工事で砦を作りましたが、柴田勝家側の佐久間盛政が天神山砦を俯瞰できる行市山砦に布陣したことから、不利になりました。秀吉は天神山砦と茶臼山砦(遺構はほぼなくなっています)を破棄して、東野山城・堂木山砦・神明山砦まで前線を下げます。

高屋城(東高野街道)

東高野街道をゆく

高屋に築かれたのが高屋城で、もともとは畠山義就が築城したようです。応仁の乱は足利義政の正室である日野富子が我が子を将軍につけたいというワガママが原因ではなく、畠山家の家督相続が発端で、畠山義就は当事者の一人です。高屋城の中を東高野街道が通るようになっていて東海道を城に取り込んだ北条氏の山中城のようです。

■室町時代の事業承継問題
鎌倉時代は後継ぎとなる惣領以外にも所領を分配していたため、結果的に土地が細分化され困窮したところに、貨幣経済に巻き込まれて幕府滅亡の遠因となりました。そこで室町時代になると惣領が全てを承継する形に改められましたが、家督相続争いが各家で勃発することになります。本人だけでなく家来や外野の思惑もあって支離滅裂な状態に。興味がある方はベストセラーになった「応仁の乱」 (中公新書 呉座勇一)をぜひどうぞ!

不動坂(高屋城)

■戦いばかりだった高屋城
高屋城は河内守護の居城のため畠山氏が長く支配しますが、交通の要衝だったこともあり、力をつけてきた三好長慶などと争奪戦が行われ、城主が頻繁に変わることになります。高屋はしょっちゅう戦場になりました。最後は天正3年(1575年)に織田信長が攻めて落城させ、その後は廃城になったようです。ほとんどが住宅地になっていますが城の遺構があちこちに残っていて、東高野街道が通る近鉄南大阪線の踏切がある不動坂には櫓台跡があり土塁の一部が残っています。

水盛城

水盛城

東高野街道をゆく

近鉄・古市駅から一駅、河内長野訪問へ行くと喜志駅があります。東に向かうと大阪芸術大学や聖徳太子のお墓(叡福寺)などがあります。また河内源氏の本拠でもありました。喜志駅の近くを東高野街道が走っているので北上を開始。東高野街道は高台を通るようになっていて河岸段丘の上を通る道になっています。

街道の途中、Googleマップで見つけたのが水盛城跡という表示。行ってみたら何のことはない住宅街で遺構は何も残っていませんでした。城の一帯は東高野街道から、さらに高台になっていて平山城だったようです。高屋城の南を守る出城として使われていたようです。すぐ隣に三角縁神獣鏡などが見つかった庭鳥塚古墳(前方後方墳)があり、古墳は高台の眺めがよい所に使われているので櫓台になっていたのでしょう。

野崎城

野崎城

野崎観音の裏山にあるのが野崎城。飯盛山の東にある支脈が突き出した地で東高野街道を通る軍勢を上から攻撃できます。飯森山城の出城として使われていました。野崎城は公園にはなっていますが郭跡がよく残っています。

■東高野街道
当時、南北に大和川が流れていたため大量の兵士を大坂に送るには東高野街道を南下し、柏原あたりから西に向かうしかありませんでした。ですので東高野街道は昔から戦場となり野崎近くで行われたのが高師直と楠木正行が戦った四条畷の戦いです。大坂の陣では徳川軍の南下にも使われ、野崎のちょっと北にある岡山(現在は忍陵神社)には徳川秀忠が本陣をおきました。

大坂夏の陣では大坂城の堀がないため野戦に持ち込むしかなく、木村重成が若江から長宗我部盛親が八尾から湿地帯を突破して、東高野街道を南下する徳川軍を横から攻撃します。徳川軍に打撃を与えましたが木村重成が討死します。

飯森山城へ

ようやく涼しくなり、まもなくシーズン到来ですのでリハビリがてら飯森山城へ登ってきました。

飯森山城

麓の野崎から登りはじめましたが、だいぶ体がなまっていますね、途中でけっこう息がきれました。ヒーハー言いながら1時間ほどかけて山頂を目指します。

飯森山城は南北朝時代には築かれていて、高師直軍と楠木正行が戦った四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城をおさえたようです。それもあって頂上には楠木正行の銅像があります。その後、守護・畠山氏の被官だった守護代・木沢長政が城として整備をし、本格的な山城としてスタートします。石垣の城として整備したのは三好長慶で、織田信長よりも先に天下人になった人物です。

少年の時に父親を殺した細川晴元と手を結び、戦国時代には珍しく、兄弟で役割分担しながら畿内を平定します。しかし嫡子に先立たれるなど晩年は恵まれせんでした。この三好長慶に仕えていたのが松永久秀です。そうそうキリスト教の布教も認めていて高山右近がキリスト教に改宗したのも三好長慶の影響がありました。

三好長慶はこの飯森山城で病死し、御体塚郭に埋葬されていると伝わっています。大きな郭が稜線に連続し、一番北側の出丸からは山城、摂津、河内、大和の国を270度パノラマで見ることができます。

小田原城・総構

山ノ神堀切

先月、茅ヶ崎で集会があった後、大阪へ帰るついでに小田原駅に寄ってきました。目的は小田原城です。とは言いながら天守閣は以前に行ったので今回はパス。小田原駅の北側からひたすら坂を登って城山を目指します。戦国時代の小田原城には城の周りに長大な総構があり、武田信玄、上杉謙信、秀吉が小田原城を攻めましたが落城することはありませんでした。秀吉は小田原城攻めで総構の鉄壁さを知ったため、このあと大坂城にも取り入れています。

市街地にあった総構は早川口など一部には残っていますが、山側の総構が比較的によく残って整備されています。山ノ神堀切、稲荷森、小峰鐘ノ台大堀切と巡ってきました。小田原駅にいた、たくさんの観光客の誰一人もこんな場所にはいませんね(笑)。

大庭城

大庭城

先月、鎌倉巡りをした後、藤沢という所へ泊ったので朝から大庭城へ出かけてきました。藤沢駅からバスが出ていました。大庭城は城址公園として整備されていて登りやすくなっています。この地域にあったのが大庭御厨という伊勢神宮領、いわゆる荘園です。大庭氏が支配していましたが、石橋山の合戦で大庭景親(國村隼さんが演じてました)が源頼朝を打ち破ります。結局は頼朝に負けますが、景親の兄である大庭景義が頼朝に仕えていたので御家人としては残ります。

大庭城は大庭氏の拠点として作られましたが、本格的に手をいれたのは太田道灌のようです。後に後北条氏が改造しました。台地の端に築かれた城で、空堀や土塁が残っています。台地の端に連郭式に郭が作られており一番奥には建物跡などが見つかりました。同じ連郭式の深大寺城に似ています。切岸の下には帯郭が見事に残っていました。後北条氏の時代のようです。

山科本願寺から石山本願寺へ

山科本願寺跡

イスラム教のスンニ派とシーア派との対立、またキリスト教でもカトリックとプロテスタントの対立があり世界中で宗教戦争があります。日本もかっては同様でした。特に一向宗と法華宗が争っており、政治的な話もからんでグチャグチャの状況です。

■大谷本願寺
本願寺が京都の大谷にあった頃、蓮如がやり手で、御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)という、庶民が分かる書簡を使った教化を行い全国に信者を増やしていきます。近江に力をいれて布教しており、怖れをいだいた比叡山が京都に僧兵を送りこんで大谷本願寺を壊してしまいます。

■山科から大坂へ
そこで新しく造られたのが山科本願寺。寺と言いながら、二重の土塁と堀で囲まれた、ふつうの城です。ところが、ここも細川春元が率いる法華宗、近江守護六角氏の連合軍により焼き討ちにあいます。鉄壁の守りですが油断をついて攻め込まれました。次に移ったのが石山本願寺。いままでの経験をいかし徹底的に防備を固め、出城をいくつも作ったため、さしもの信長も攻めあぐね10年戦争(石山合戦)になりました。

最後は和睦して大阪を立ち退き紀州(鷺森本願寺)へ移ります。信長亡き後、秀吉と和睦して天満へ移り、その後に京都へ移ります。信長、秀吉、家康が宗教を非武装化したことにより、世界でも珍しく日本では宗教戦争がなくなっていきます。

山科本願寺公園

山科本願寺公園

先週のブラタモリを見ていたら山科が舞台で、山科本願寺の土塁跡が取り上げられていました。山科中央公園の一角に土塁跡が残っていて、そちらが紹介されていましたが、その後に出てきたのが本願寺跡にあった風呂設備の遺構です。

当時のお風呂は湯船タイプではなく、いわゆる蒸し風呂、つまりサウナです。そういえば先週の「どうする家康」でも蒸し風呂に入っている家康のシーンが出ていました。湯船タイプは江戸時代からになります。山科中央公園の土塁跡は昔、行ったのですが、風

呂設備についてははじめてで、さっそく山科本願寺公園へ出かけてきました。史跡公園として、できたのは2021年、つい最近なんですね。公園は山科本願寺の中枢である宗主空間があったところで、建物跡や堀跡が示されています。すぐ近くを新幹線が走っていますので、新幹線の窓からも見えます。山科の街を通り過ぎる北側になります。

千貫櫓

千貫櫓

大坂城の大手口に対し、北西から横矢を狙うことができるのが千貫櫓です。豊臣大坂城の上に盛り土をして徳川大坂城を築きましたが、千貫櫓ができたのが元和6年(1620)です。乾櫓とともに大坂城内で最も古い建築物になっています。年に何回か公開されています。

千貫櫓という名前は古く、石山本願寺と信長が戦っていた時に、櫓からの横矢に悩まされ、信長が「銭千貫文を出しても取りたい」と言ったことが由来です。その後、建替えられた豊臣大坂城でも徳川大坂城でも名前が踏襲されました。

大坂城の最後の主が徳川慶喜。鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城で戦う予定でしたが徳川慶喜は敵前逃亡し、江戸へ軍艦で戻ります。「何で!」ということですが、いろいろな理由がありました。一つがイギリスの動きで、鳥羽伏見で幕府が敗退すると、イギリスは「局外対立を保たないかもしれない」と幕府を脅します。イギリス海軍が大坂城を海上封鎖したら詰みになってしまいます。

もう一つ、お金の問題もありました。大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったようです。