スーツで登れる上野山城(木津)

城山台
JR木津駅から見えている小山の上にあるのが上野山城。
木津駅の東側は木津高校があるぐらいで、あとは山々でしたが城山台という住宅地が開発され、あれよあれよという間に高台にできた街になってしまいました。
住宅街を通って、半分、ハゲ山になった城山の麓に行くと、城郭公園という小さな矢印があり、ここを登っていくと城跡に到達します。木津の町が見下ろせ、なかなか眺めがよいです。ですのでスーツでも登れます。
城跡は頂上にありますが、東西南北50メートルほどの土塁に囲まれた曲輪が見事に残っています。史跡公園として整備されているので藪も木もなく、曲輪がそのまま見られるのがいいですね。曲輪に入る土橋や堀もしっかり残っていて土橋は2ケ所ありました。3つの尾根に曲輪が続いていたようですが、これは城山台開発でなくなってしまいました。
地元の国人であった木津氏の木津城とも考えられていましたが、木津城は平城で、木津駅の西側にあったようです。ですので上野山城は街道を抑えるための見張りのために造られたもでしょう。城跡の解説板には地元の農民や土豪が逃げ込んで、たてこもるための城と書かれていました。
多くの城山が住宅地で跡形なく消えていくなか、曲輪の一つだけでも残ったのは幸いですね。

伊勢長島城

伊勢長島城
名古屋へ専門家派遣に向かう途中、長島駅で下車。
長島というとホワイトサイクロンのあるナガシマ・スパーランドがある所ですが、昔は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の河口に点在する島々で構成されていました。
輪中と呼ばれる地帯で、治水に常に悩まされ、徳川幕府が薩摩藩に三川を分流する工事を命令します。薩摩藩では多額の費用と犠牲をはらって工事を行い、これが千本松原になっています。工事を指揮した薩摩藩士平田靱負は完成後に切腹しています。
長島は伊勢湾台風でも甚大な被害をうけ、町の数カ所に棒が建てられ伊勢湾台風の水位が刻まれていました。3メートルぐらいの頭上ですので、町は完全に水底になったんですね。
■信長との戦いの舞台 長島一向一揆
戦国時代は長島を舞台に本願寺門徒と信長が戦いました。石山本願寺に呼応して決起し、結局、4年もの長期の戦いになりました。一揆といっても島の要塞を攻める攻城戦です。織田方は甚大な被害を受け、織田信長の弟や親族の多くも戦死、西美濃三人衆の一人である氏家卜全は逃げる時の殿(しんがり)となり討ち取られています。
鎮圧した後は滝川一益が居城とし、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となります。江戸時代は長島藩がおかれました。本丸跡などは小学校や中学校になっており、堀跡が水路として残っています。大手門が近くの寺に移築されて残っています。

原田城

原田城
今日は曽根にある企業さんへ。伊丹空港の近くにある駅です。
着いた時間が早かったので曽根駅近くにある原田城跡へよってきました。住宅街の少し高台になっている所にある城跡です。このあたりの土豪であった原田氏のお城でした。
原田城には北城と南城がありましたが南城は市街化でなくなってしまっています。北城も市街化が進んだのですが土塁などが一部残っています。ただ旧羽室家住宅の庭の一部になっており、土日だけ公開されています。
原田城は応仁の乱の時からいろいろと戦乱に巻き込まれました。荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは、有岡城(伊丹城)に近いこともあり織田信長方の付城として活用されました。

善照寺砦

善照寺砦
先日、沓掛城へ行ったついでに善照寺砦へ寄ってきました。
織田信長は今川方だった鳴海城の周りに丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、封鎖をします。
鳴海城は名鉄・鳴海駅のすぐ近くにあり、見晴らしのよい公園になっています。城は台地の西側端に造られていますので織田方を意識した防御になります。もともとは信長のお父さんだった織田信秀に従っており今川に対する城として造られました。室町時代に造られて廃城になっていた城を再利用しましたが、なんで西の端にしたのでしょう。
信長が造った砦ですが、丹下砦、中島砦は住宅地になってしまって遺構はなし、善照寺砦跡だけは公園の形で残っています。善照寺砦を守っていたのは佐久間信盛ですが、砦は台地の東の端、つまり今川に対して造られています。砦はけっこうな高台に造られていて台地の西へ行けば、鳴海城を見下ろすことができそうです。そもそもなんで鳴海城をこっちに造らなかったんですかねえ。
織田信長は清州城を出発し、熱田神宮で兵が集まるのを待った後、丹下砦、善照寺砦、中島砦をへて桶狭間へ向かいます。この桶狭間ですが、昔は桶廻間と呼んでいました。清水が湧き出る地域で、水の勢いで桶がくるくるまわったことから桶廻間という地名がついたようです。

城氏城(伊賀)

城氏城
昨日、掛田城に登った時、すぐ近くに城氏城があるので、こちらにも回ろうとしましたが、なんせ正確な地図なんてないものですから、大雑把に尾根を歩いて行ったら違う尾根に出てしまい。山をさまようことになってしまいました。(笑)
城氏城は室町時代に城氏によって築かれました。天正伊賀の乱では城八太夫という名前が伝わっていますので、城主だったのでしょう。
ようやく城にたどり着いて帰る時に小道から送電鉄塔の保守道を登ると城に入れることが判明。なんとかスーツでも登れる山城です。城には長く続く堀跡が残っていて、主郭には見事な土塁が残っていました。城氏城も掛田城と同様、石垣が使われていたようで石が散乱していました。そして、主郭にはおなじみの青い札がありました。
伊賀上津駅の次の駅が青山町駅なんですが、この駅のすぐ近くにも城氏城があります。3kmほどしか離れていない同じ城氏の城ですから一族の城だったんでしょうね。

掛田城(伊賀)

掛田城
午後から津駅前にあるアスト津でマイナンバーセミナ。私の担当は法人番号の怖さと倒産した会社から個人番号が漏れる怖れがあるといった、各地のマイナンバーセミナーではあんまり聞かれない内容をしゃべってきました。
■スーツはちょっと無理な掛田城
午前は大阪から津へ向かう途中の伊賀上津駅で降りて、掛田城へ。初瀬街道を見下ろす丘陵の端にある山城です。
比高25メートルとあったのでスーツ姿でいけるだろうと登ったのですが、主郭の中は少し藪がありスーツじゃない方がいいですね。(笑)藪の中にある主郭にまでたどりつくと伊賀の城ではお約束の、青い札がかかっていました。
土塁が取り囲んでいますが下部には石垣があり、野面積よりももっと素朴な積み方なんですが戦国時代の伊賀の山城では珍しいです。
■天正伊賀の乱の舞台
掛田城は誰が造った城か分かっている珍しい城。室町時代に富増伊予守によって築かれました。富増伊予守城とも呼ばれています。
伊勢の北畠家を乗っ取った織田信雄が、伊賀を手に入れようと丸山城を築城しますが、城が完成した頃に攻められて敗退。敗れた織田信雄は再度、伊賀を攻めます。これが第一次天正伊賀の乱で青山峠を超えて峠を降りたところにあるのが掛田城。1300の織田軍が取り囲んだのを200の軍勢で守り抜きました。
織田信雄の失敗に信長は怒りますが、今度は信長自身が乗り出してきました。これが第二次天正伊賀の乱。滝川雄利・織田信澄を先鋒に1万の織田軍に囲まれたため籠城は無理と他の城へ落ちのびていきました。

今川義元 最後の夜となった沓掛城

沓掛城
名古屋で専門家派遣でしたので、ちょっと足を伸ばして沓掛へ。ここには今川義元が最後の夜を過ごした沓掛城跡があります。
城主は近藤景春で織田信秀(信長のお父さん)の勢力が強いうちは織田方でしたが、信秀が死ぬと鳴海城ともども今川方になりました。織田家では家督争いもあり、このまま先行きはないと思ったのでしょう。
沓掛城、大高城、鳴海城が今川方となり、境目の城になったのが大高城と鳴海城。織田信長はこの2つの城の周りにいくつもの砦を作り封鎖をはかります。今川方の最前線基地となったのが沓掛城で、今川義元は、ここで軍議を開き、松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを、各武将に陣立てを命じます。
義元もまさか翌日、桶狭間山で討死するとは夢にも思っていなかったでしょうね。桶狭間の合戦の後、織田方の攻められ落城。今川義元の居場所を報告し、勲功一番となった簗田政綱が新しい城主となりました。
沓掛城の遺構はよく残っていて本郭をとりまく堀や2つの郭跡が見事に残っています。

野崎城

野崎観音
昨日、飯盛山城へ登る前に野崎城へ登ってきました。
上方落語に「野崎まいり」という話があります。「野崎まいり」というのは野崎観音(大東市にあります)にお参りすること。昔は寝屋川を舟で行く人と、堤を行く人とがいて、互いに悪口をあびせ合う奇習があり、それを題材にしたものです。
この野崎観音は東高野街道沿いから少し高台になったところにあります。この高台の裏手の山にあるのが野崎城。といっても郭跡らしきものが残っているだけです。写真は野崎観音でこの裏山にあるのが野崎城。
太平記では北朝側が野崎城に陣取って、楠正行と対峙したとあります。高さは110メートルほどですが見晴らしがいいので、城には最適ですね。
交通の要所だった東高野街道をおさえることができます。今ではなんてことのない道路ですが、四条畷の合戦やら織田信長の本願寺攻め、大坂の陣など軍を動かす時にはなくてはならない街道でした。
飯盛山城が築かれると田原城などと同様に野崎城は出城として活用されることになりました。

飯盛山城

飯盛山城
だいぶ涼しくなり、まもなく山城シーズンの到来。リハビリをかねて家から一番近い、飯盛山城へ行ってきました。
東高野街道を自転車で30分ほど走ると野崎観音で、ここから1時間ほどかけて飯盛山に登ります。頂上へ登ると京、摂津、河内が一望できます。この頂上一体が飯盛山城。藪蚊もだいぶ少なくなっていました。ハイカーも多かったですね。
飯盛山城は南北朝時代から使われていましたが、有名な城主が三好長慶。徳島県の三好出身です。室町幕府の将軍・足利義晴、義輝を京都より放逐し、三好政権を樹立。織田信長よりも先に天下人となりました。
それまでは高槻の奥にある芥川山城を居城にしていましたが、息子に譲って1560年に飯盛山城へ居城を移しました。飯盛山城には石垣が使われ、芥川山城も石垣が使われていましたので、けっこう早い時期から石垣を使っていたようです。さすがに当時は上まで積む技術がなかったので階段式石段になっています。でも当時はすごい威圧感があったでしょう。
近年、小牧山城の天守近くで同様の階段式石垣が見つかりましたので、信長はこの飯盛山城を参考にしたのかもしれません。

大坂城 乾櫓

乾櫓
乾というのは西北の方角を差し、大坂城の一番西北にある櫓が乾櫓。
大坂の陣で天守閣などが燃えたため、徳川秀忠の命令で豊臣時代の大坂城に盛り土をし建てたのが現在の大坂城。ですので大坂城は太閤さんのお城ではなく、徳川のお城です。その後、天守閣や櫓は江戸時代の火事や太平洋戦争などで燃えてしまいましたが、秀忠によって再建された最古の建物が2つ残っていて、一つが千貫櫓でもう一つが乾櫓。乾櫓はL字型をした櫓です。
■固定資産税免除を家光が決定
徳川幕府による第一期工事が終わった時、大坂や堺の町人代表に通達して乾櫓近くの堀に集めます。大坂の陣で大坂が荒廃してしまったので、大坂、堺の地子銀(固定資産税)を永久免除することにしました。徳川家光が新しく造られた乾櫓に入り、町人に向かって金の采配を振ります。これが地代免除決定の知らせでした。
固定資産税免除に喜んだ町民は恩を忘れないために記念に釣鐘が作られることなりました。釣鐘屋敷が作られ、釣鐘は2時間おきに1日12回撞かれ、大坂中に時を告げることになります。近松門左衛門の曽根崎心中ではお初、徳兵衛の最後の道行に、この鐘を聞くシーンが出てきます。釣鐘屋敷はなくなってしまい釣鐘は二転三転しましたが、今も残っていて、この釣鐘屋敷跡に復活しています。この一帯は釣鐘町と呼ばれています。