近畿の城郭

近畿の城郭
原稿を1本書こうと思っていたら、「図解 近畿の城郭」が届きました。
城郭談話会が創立20周年を記念して出した「図説 近畿中世城郭事典」の改定新版で、選りすぐった183の縄張図が載っています。これがちょっと高くって定価が5,800円。まあ買う読者層が限られるので仕方ないですね。
滋賀県、京都府、奈良県、大阪府、兵庫県、和歌山県の城郭が紹介されています。大阪府では22の城郭が紹介されていますが、三好長慶が亡くなった有名な飯盛山城は載っていなく、立ち入りができないマイナーな岡ミンザイ古墳が紹介されています。測量図から城郭を復元しており、これはなかなかすごい。
って、こんな本が届いたら原稿が書けませんがな(笑)

山出氏館跡

小出氏館跡 虎口
午後、伊賀で仕事だったので少し早い目に出て城跡へ。
場所は佐那具駅で降り伊賀国庁跡を通り過ぎ、東条という集落。ここの集落の奥にある山すそが城跡という情報までは調べていったのですが、なかなか見つかりません。
縄張り図には堀の外に川が流れているので、小川を見つけて遡ると土塁がようやく見つかりました。けっこう高い土塁で、登るのは無理だなと思ったら、虎口(城の入口)を見つけ、無事に城の中へ。
城跡と言っても周りを土塁に囲まれた館跡です。館の主は山出氏で、信長に攻められ伊賀が焦土となった、天正伊賀の乱では忍田砦に立て籠もった郷士。
城跡は集落のすぐ近くですが、東、西、南の土塁と虎口が見事に残っていました。集落のすぐ近くなのでスーツ姿で行ける城跡です。
写真は城跡から虎口を見たところです。

大阪の高安と関係があった紀伊・亀山城

かえる橋
和歌山市からはるか向こうにある印南まで専門家派遣に行ってきました。遠かった!印南と言えば有名なのが「かえる橋」です。JRからよく見えます。
帰りは御坊で途中下車。紀伊・亀山城へ登ってきました。御坊駅の裏側(北側)にある山が亀山城跡。舗装された小道が頂上まで続いているのでスーツでも大丈夫。ただし汗だくになります。(笑)
頂上は公園になっていますが郭や腰曲輪が残っていて土塁もしっかりありました。城跡からは御坊の町船体から海上を行く船も見えて、なかなか絶景です。代々湯川氏の居城でしたが、秀吉の紀州進攻で湯川氏は城を焼き払って退去しゲリラ戦を展開。秀吉は手を焼いたようで後に和睦します。湯川氏の子孫はそのまま続いたようで城跡には子孫が建てた供養塔がありました。
信長が登場する前に三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢がぶつかった教興寺の戦いがあり湯川直光が畠山軍として出陣し亡くなっています。教興寺って、近鉄・高安駅の近くにあり、高安に住んでいた時に教興寺へ行ってきました。境内に湯川直光公勇戦の地碑が建っていたんですが、調べてみると昭和63年に御坊市民が建てたんだそうです。そうか、この亀山城の城主だったんですが、大阪の高安の地で亡くなったんですねえ。

郭が見事に残る安濃城

安濃城
専門家派遣で津の田舎にある安濃へ。
専門家派遣は昼からでしたので、少し早く出て、安濃城へ登ってきました。主郭跡には阿由多神社が建っていますが周りの土塁や空堀も見事に残っています。色んな郭も残っていて見応えがある山城でした。藪もなくきちんと整備されていて汗だくにはなりますがスーツ姿で登れます。
安濃城を守っていたのは名門・長野氏の一族である細野藤敦。織田信長の伊勢攻めがはじまり滝川一益が攻め寄せますが、はね返し落とせませんでした。結局は、織田信長の弟・信包を長野家の養子に迎えて和議を結ぶことになります。
ただ信包は信長の命令でしょうが、長野氏の排除に動きます。北伊勢の神戸氏、多気の北畠氏も同じようにやられてしまいましたので信長の常套手段ですね。城を追い出された細野藤敦は京都に逃れ、江戸時代に豪商・荒木家となり、郷里の阿由多神社に大般若経を奉納します。
織田信包は三谷幸喜監督の映画『清須会議』では伊勢谷友介が演じていました。安濃城を落城させた後に伊勢上野城の城主になりましたが、小谷城が落ちた後のお市や茶々、初、江をかくまっていました。伊勢上野城の次に津城へ移りますが、本能寺の変後に信長のお母さんである土田御前をかくまい。土田御前は津で亡くなっています。

なにも残っていない御殿山城

御殿山城
新幹線で品川に近づくと左に見えるのが御殿山。高台になっていて高級マンションが建っていますが、江戸時代に将軍家の鷹場御殿があったことから御殿山という名前がつきました。江戸時代以前には太田道灌の居城がありました。これが御殿山城。
北条氏綱軍と扇谷上杉朝興軍の合戦が行われた高輪原の戦いは、御殿山近くの高輪で行われました。戦いは北条氏綱軍が勝って、江戸城を奪います。
朝、早めに出て品川駅で降り、大崎駅まで御殿山経由で歩いてみましたが、城跡はなにもありませんでした(笑)。でも眺めはいいですねえ。当時は線路のすぐ向こうが海でしたので街道を見張るには絶好の場所でだったのでしょう。

織田信長が歩いた道が残る勝幡城

勝幡城
名古屋市新事業支援センターの窓口相談が終わってから名鉄で勝幡(しょばた)駅へ。駅から少し歩いたところに勝幡城跡があります。
織田信長は那古野城(現在の名古屋城の前)で生まれたという説がありましたが、最近の学説では勝幡城で生まれた説が有力です。二重の堀で囲まれていた館城で、江戸時代まで城跡は残っていたようですが、尾張藩が日光川を開削する時に城をぶっこわしてしまったようです。ただし縄張図を残したため、どんな城だったかが現在まで伝わりました。
主郭の半分は現在の日光川になり、半分は住宅街になっていますが、城西や城之内などの地名が残っています。岩波新書から「信長の城」(千田 嘉博著)が出ていて、現在の地図と勝幡城跡を重ね合わせて考察していますが、住宅街にある小さな小道が勝幡城の虎口につながる道と判明。城跡にはなにも残っていませんが、織田信長や織田信秀、柴田勝家らが歩いた道が残っていました。
感慨に浸って織田信長が歩いた道を歩いていたら夕立が!落ち武者のごとくずぶぬれになりました。

余野本城へ登り汗びっしょり

余野本城 虎口
摂津の池田からずっと山に分け入った豊能町へ専門家派遣で行ってきました。せっかく豊能町まで行ったので山城へ行ってきました。(笑)
行ったのは余野本城。応仁の乱の後に廃城になった説もありますが、しっかりした虎口もあるので戦国時代に改修して使っていたようです。看板などがある山城はほとんどないので、城への入口をネットで調べるとネットで資材置場ちかくから尾根まで直登とあります。つまり尾根まで崖を登れということです。
行ってみたらヤブだらけ。さすがにスーツ姿では無理だなあ、冬にもう一度来るかなと思ったのですが、あきらめ悪く、そこらへんを探していると空堀を発見。空堀沿いにすすむと主郭に出ることができました。ラッキー!
なかなか広い縄張のお城で、ヤブや余計な木が伐り倒されており、とっても見やすくなっています。虎口(郭への入口)が見事で、2回、折り曲がらないと郭へ入れず、張り出した土塁から横矢がかかる仕組みになっていました。こんな複雑な虎口は戦国時代のものでしょう。土塁の高さも10メートルほどもあり、よく遺構が残っていました。堪能しましたが、汗びっしょりになりました。やっぱり山城めぐりは冬がベストシーズンです。

信長が2度攻めて落とせなかった高岡城

高岡城
鈴鹿にある高岡城跡。鈴鹿川沿いの標高50メートルほどの高岡山に築かれた山城です。
ここは信長の伊勢侵攻を2度もくいとめた城です。城主は神戸友盛の家老である山路弾正。滝川一益を大将として信長が攻めてきましたが、城はなかなか落ちません。
美濃三人衆の謀反の動きが出てきたこともあり、信長は兵をひきます。翌年にも攻めましたが落ちません。仕方ないので信長は三男・信孝の養子を条件に和睦をすることとなりました。織田信孝は神戸家に入り神戸信孝と名乗りますが、北畠などと同様に結局は信長に乗っ取られます。
高岡城から川向こうを見ると楠城が見えます。直線距離は1.8kmほど。反対側の方にあるのが采女城で、こちらも3kmしか離れていません。楠城、采女城ともに滝川一益に攻め滅ぼされましたが、高岡城からよく見えたでしょう。
郭跡と堀跡が残っています。

徳川家康が攻め落とした丸根砦

丸根砦
大高城がのぞめる小高い丘の上にあるのが丸根砦。鷲津砦と共に織田信長が大高城を封鎖するために築いた付城です。
砦を守っていたのは佐久間盛重。松平元康(後の徳川家康)が率いる岡崎勢に攻め寄せられ、佐久間盛重は清州城の織田信長へ急使を送ります。
そして、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と敦盛の一節を舞い、茶漬けを食べながら、「螺(ほらがい)を吹け、具足をよこせ」と映画やドラマでよく描かれる信長が出陣していくシーンとなります。
清州城を飛び出した信長は熱田神社で兵がまとまるのを待ち、大高方面へ進軍。やがて信長の目には丸根砦と鷲津砦の陥落を告げる二筋の煙が上がるのが見え、善照寺砦に向かいます。
佐久間盛重らが玉砕した丸根砦ですが、今は住宅地の中に郭跡などが遺構として残っています。もっともマニア以外には単なる土の広場なんですが。

家康が捕虜生活を脱した大高城

大高城
日が長くなってきたので、名古屋市新事業支援センターでの窓口相談が終わってから東海道線に乗って大高城跡に行ってきました。
住宅街の中にあるこんもりとした小山が大高城跡。「大高城跡公園」という矢印のついた小さな看板の所を曲がり民家と民家の間を通る細い路地を登ったところにあります。看板がなければ、絶対に気づきません。
大高城は桶狭間の合戦の前哨戦が行われたところです。大高城は今川義元が奪った城で尾張の最前線。織田信長は周りに砦を築いて対抗します。戦国時代は城のすぐ近くが海岸線でしたが、この海からの補給を砦網で塞いでしまい大高城は孤立してしまいました。
そこで今川義元が大高城を救援するために起こしたのが桶狭間の合戦の発端と言われています。この時、徳川家康が大高城に兵糧を入れる役目を命じられ、丸根砦を落として、見事に兵糧入れに成功します。
やがて大高城へ届いたのが今川義元が織田信長に敗れたという知らせ。撤退して岡崎城へ向かうことになり、家康にとっては、長い捕虜生活から開放され新しい門出となった場所となりました。