太平記の舞台 摩耶山城

maya201312.jpg暮もおしつまっているのに山城に登ってきました(笑) 

場所は神戸にある摩耶山。王子公園駅で降りて、坂道をひたすら上がり、上野道という登山道を登ってきました。摩耶ケーブルの終着点「虹の駅」あたりから、ずっと城跡になっています。と言っても見た目は単なる山道です。山道横の丘を登ると、そこが曲輪跡になっていて、山道を上から攻撃できるようになっています。 

大晦日前日なのに歩いているハイカーが多いですね。もっとも皆さん、山歩きを楽しんでいるようで山城跡を見ているような酔狂な人物はおりませんでした。山道からは六甲アイランドやポートアイランドなどが一望できます。 

摩耶山城を造ったのは赤松則村。南北朝時代に活躍した人物で、鎌倉幕府(京都の六波羅探題)を倒すため播磨国で挙兵。摩耶山麓に陣を構える六波羅探題軍を破り、摩耶合戦として太平記に書かれています。足利尊氏の湊川の戦にも協力し、足利幕府を支えることになります。 

この赤松氏ですが室町幕府6代将軍足利義教を暗殺します。日本史で習った嘉吉の変(かきつのへん)ですが、恐怖政治を行っていた将軍でしたので、自分の側についてくるものがいるだろうという目算もありました。結局、誰も賛同せず幕府方討伐軍に敗れて討たれてしまいました。 

昔、観光エレベータがあった日和山の山城(鳥羽)

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子供の頃、鳥羽へ行くと楽しみは観光船で行くイルカ島と日和山展望台の観光エレベータ。観光エレベータは鳥羽駅のすぐ横にありました。10名ぐらいは乗れたと思いますが、ヨーロッパにあるような鉄製の外から丸見えで風通しのよいエレベータです。これで50メートルほど上がると日和山展望台につき鳥羽の海が一望できました。調べたら昭和9年にできたエレベータなので戦前のもの、よくエレベータなんか作りましたねえ。残念ながら昭和49年に鳥羽駅が火事となり、この時にエレベータも燃えてしまって撤去されてしまいました。 
江戸時代、鳥羽を出航すると一気に遠州灘を渡りきり、伊豆の下田まで避難できる港がなかったため天候を見定める必要がありました。白子を出航した大黒屋光太夫は暴風に巻き込まれて、遠くアリューシャン列島まで流されてしまいました。鳥羽で天候を見定める場所だったのが日和山。 
観光エレベータがなくなったので今は登山口を登らないといけません。鳥羽駅の裏側からも登れますが、鳥羽市街の賀多神社からも登れます。こちらから登ると鳥羽城が見え、やがて登山道の横に藪だらけの廓がいくつも見えます。上まで登ると高台になっているところがあり、ここが戦国時代の城の本丸跡。泊浦城(取手山砦)で九鬼嘉隆が志摩を平定する前、志摩地域に勢力を持った海賊衆の盟主的存在であった橘宗忠の城。鳥羽が一望できますので出入りする船から関銭を徴収する監視場所にしていたようです。九鬼嘉隆が平定した後は居城にしていたようで、後に鳥羽城を造り、居城を移しました。 
日和山の尾根沿いに曲輪が拡がっており、よくみると櫓が建っていたような跡や虎口が見えます。一番先に行くと見晴台になっていて、ここが観光エレベータで上がって来た時に鳥羽の海を見た場所。よく見ると曲輪になっていて、ここで戦国時代に船を監視していたんですなあ。

交通の要所だった田丸城(清州会議)

tamaru201312.jpg今は1時間に1本程度しか列車が止まらないJR田丸駅。田丸駅から少し歩いた所に田丸城跡があります。石垣や土塁が見事に残っています。 

戦国時代は交通の要所でした。奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道(伊勢本街道)、そして紀州へと続く熊野古道が交わる所で、城からは伊勢の街がよく見え、伊勢神宮を抑える戦略的要衝でした。城を造ったのは伊勢国司であった北畠。 

ところが織田信長の伊勢進攻によって北畠は敗退。養子として二男の織田(北畠)信雄が送り込まれ、田丸城は織田(北畠)信雄の居城となり、天守が造られます。 

映画「清州会議」ではバカ殿として描かれた人物で妻夫木聡が演じていました。伊勢は尾張の隣ということもあり織田信長が美濃と同時におさえようとした国です。まずは鈴鹿の有力氏族だった神戸氏に、養子として三男の織田(神戸)信孝を送り込み、神戸城に天守を築きます。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。かしこい方です。

津城には信長の弟である織田信包が入り、城を整備し5重天守と小天守を造ります。映画「清州会議」では伊勢谷友介が演じていて、映画の最後では秀吉に向かって「織田家を乗っ取れ」とか格好いいセリフを言ったりします。映画に出てくる3人の織田家の人物が伊勢に揃っていたんですね。

まだまだ山城が中心の時代、伊勢には平城である神戸城、津城、田丸城に天守がそびえていました。

いざという時に砦になる寺 八事・興正寺

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名古屋の繁華街・栄から城下町を斜めに走っているのが飯田街道。碁盤目の街を斜めに通っているので、城下町では珍しい3方向の道が交差する複雑な交差点がそこらへんに生まれます。
飯田街道は徳川家康が作った、尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道で、途中の豊田から南下すると岡崎に到達します。つまり西から攻められ名古屋城が落城すると飯田街道を通って次に岡崎城が狙われます。そこで一気に岡崎を攻められないよう八事に砦が作られました。大坂の陣は終わりましたが、まだまだ戦国時代の気風が残っている頃です。
飯田街道は栄から吹上を通り、最初の山が八事山。八事と言えば現在は高級住宅街ですが、江戸時代は名古屋の東の端でした。八事にあるのが五重塔で有名な興正寺。五重塔は愛知県では興正寺にしかありません。
興正寺は西山と東山に分かれていて五重塔など主要な伽藍は西山にありますが、東山が小高い山になっていて、こちらが砦の役割をもっていました。峠道(飯田街道)に面した所には東山門(黒門)があります。名古屋城から移築された出丸門で、両側が格子になっていて弓や鉄砲が撃てるようになっています。門の前には堀がありましたが、現在は埋め立てられて飯田街道の一部になっています。
東山門を入ると坂になっていて、まっすぐ侵入されないようS字の蛇腹道になっています。もっとも名古屋城を落城させるような敵なら、興正寺は小さな平山城程度ですので簡単に落とされるので岡崎で戦闘準備を整える時間稼ぎにしかなりません。東山は公園となり散歩コースになっています。
興正寺の近くには隼人池があり、江戸時代に尾張藩の家老成瀬隼人が新田開発のために整備したため池です。成瀬家と言えば、犬山城城主で明治維新後も、そのまま城主を勤め、2004年まで国宝・犬山城を代々私有していたことで有名です。

本丸に小学校校庭があった鳥羽城

toba201311.jpg鳥羽駅から歩いてすぐの所にある城山公園は昔の鳥羽城跡。 

鳥羽城を造ったのは九鬼水軍で有名な九鬼嘉隆で海に浮かんだような城でした。城の大手門があったのが現在の鳥羽水族館のところで、当時は海。つまり海を向いた大手門になっていました。さすがに九鬼水軍です。城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城(錦城)とも呼ばれました。 

本丸跡が一番高いところにあったのですが、以前は鳥羽小学校の校庭で自由に立ち入れませんでした。2009年に鳥羽小学校が校舎の老朽化を理由に移転したので、発掘調査が行われ天守跡などが確認され、九鬼水軍の城として整備されています。 

校舎は一段低い、二の丸にあり、校庭が一番高い本丸にあります。本丸からの眺めは鳥羽が一望でき、神島なども見え最高です。考えてみたら毎日、城跡に通えなかなか贅沢な小学校だったんですね。もっとも平山城と言いながら階段を登って毎日、本丸まで行かないといけないので大変ですね。 

民家が立ち並ぶ古墳にあった城(丹下城)

tange201311.jpg河内松原にある古市古墳群の巨大前方後円墳「大塚山古墳」。全長335メートルあり日本で5番目の大きさの古墳です。昔は丹下城が墳丘内に築かれていました。 

古墳が城に使われることは多く、古市の高屋城もそうですし、山崎の合戦では明智光秀が恵解山古墳に本陣をかまえました。大坂冬の陣では茶臼山古墳が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村が本陣にしていました。継体天皇陵ではないかと言われている摂津の今城塚古墳も織田信長が三好家を攻める時に築いた城と言われています。それで今城という名前がついています。 

丹下城ですが北朝側に組みする丹下氏の城郭で、南北朝時代から戦国時代まで使われていたようです。織田信長によって城は壊されました。 

江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には村の氏神さんである天満宮が祀られました。古墳の中に民家が立ち並んでいたんですね。ところが、大正14年に陵墓参考地になってしまい民家は古墳の外に立ち退きとなってしまいました。古墳に民家が立ち並ぶところは見てみたいですね。 

住宅街に土塁が残る高屋城(古市)

takaya_201311.jpg阿倍野で仕事でしたので、阿部野橋駅から近鉄南大阪線で古市駅へ。阿倍野橋駅の横にあるのがアベノハルカスです。 

古市駅から少し歩いたところにあるのが安閑天皇陵。この古墳が戦国時代は高屋城の本丸でした。高屋城はもともと応仁の乱後に畠山義就が築いた城です。古市は河内長野から高野山へ抜ける道、穴虫峠から奈良へ抜ける道の接点でもあり、交通の要所でしたから30回以上も城主が入れ替わっている城です。 

奈良から大阪へ大勢の軍隊が入ろうとすると生駒山脈が連なっていますので、北の枚方方面から入るか南の穴虫峠からしか入れません。ですので壬申の乱では近江軍と大海人皇子軍との戦いや大坂夏の陣では後藤又兵衛が敗れた戦いなどが行われました。最後は織田信長に攻められて落城し、廃城になりました。 

城跡ですが天皇陵以外はすっかり住宅地になっています。本丸以外に二の丸、三の丸がありましたが、こちらも住宅地。ただ地名は城山になっています。不動坂という近鉄の踏切があるところがありますが、ここだけは土塁が残っていました。写真の左手は5メートルほど。右手はほとんど残っていませんでしたが、こっちは10メートル以上の土塁でした。ここに不動坂門があり、信長にこの門を突破されて落城してしまいました。 

踏切近くで写真を撮っていたら、ドライバーが怪訝な顔をして見ておりました(笑)まあ単なる土の山ですからねえ。 

信長が清洲城から小牧城に移った理由

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    名古屋駅前にあるウィンク愛知の会議室で愛知県のマネージャーが集まっての会議。 

    最初は支援事例紹介ということで中小企業基盤整備機構、名古屋市新事業支援センター、豊橋科学技術大学、あいち産業振興機構の順番で発表。休憩をはさんで中部経済産業局から来年度に要求している概算予算と事業の説明。名古屋市新事業支援センターの事例発表を担当しておりました。 

    会議室はウィンク愛知、最上階の18階。ここの窓は床まであるので高所恐怖症にとっては、足がすくみます。 

    その代り眺めはいいですねえ。町のずっと先に見えるのは岐阜の山々。そのうちの一つが金華山があり、山の上には岐阜城(稲葉山城)があります。金華山は山脈から少し離れて前面に出た形になっており、岐阜城からは濃尾平野が一望。信長が天下布武を唱え出したのも岐山になぞらえた金華山から壮大な風景を見たからでしょう。 

    そんな濃尾平野に一カ所だけ小山があります。ウィンク愛知の18階から見ると平野にちょこんと島がある感じで、これが小牧山。他にはありません。信長が平城だった清州城から、より稲葉山城に近い場所に移るとなると小牧山しかありません。18階の高さから見ると、城を移した理由がよく分かります。

織田信雄が伊賀攻めの拠点にしようとした丸山城

maruyam201311.jpg近鉄・伊賀神戸駅から北上する伊賀鉄道に乗ると3つ目の駅が丸山駅。駅のすぐ近くにこんもりとした山があり、ここが丸山城跡。 

信長が伊勢国司だった北畠を攻め、むりやり織田信雄を北畠に養子に送り込み伊勢を支配しました。織田信雄は映画・清州会議では妻夫木聡が演じていたバカ殿です。 

丸山城はもともと北畠が城を作っていましたが、伊勢の次に伊賀を領国にしようと家臣である滝川雄利に命じて、大幅修正します。天守まである大きな城でした。 

驚いたのが伊賀の郷士達。城が完成するまでに攻めようと総攻撃を開始。不意を突かれた滝川雄利は伊勢へ逃げ帰ります。翌年、織田信雄は軍を伊賀へ進めますが、敗退してしまいます。第一次天正伊賀の乱です。 

敗戦を知った信長は激怒。勝手に軍を動かして、しかも敗退するとは親子の縁を切るとまで言われています。織田信雄がバカ殿と言われるゆえんの一つになっています。ですが京都に近い伊賀をそのままにするわけにもいかず、信長は伊賀の殲滅戦を行います。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀は焦土になりました。 

丸山城は曲輪跡もよく残っていて、天守のあった所には丸山城の碑が建っています。石垣もあったのですが伊賀鉄道を通すときに持ち運ばれたそうです。道も割と整備されて山城にしては歩きやすいのですが、蜘蛛の巣だらけなのが難点。 

新神戸駅裏にある戦国時代のお城

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    新幹線・新神戸駅のすぐ裏、というか駅から5メートルぐらいの所に布引の滝を行くハイキングコースがあります。こっちへ向かわずに左手に山を登るコースがあり、これを登ると滝山城へ向かうコース。坂を登りはじめると、すぐ下に新神戸駅が見えます。 

    滝山城が登場するのは、鎌倉幕府滅亡となる建武の親政の頃。また戦国時代は三好長慶の拠点となりました。三好長慶の死後は三好三人衆と松永久秀の間が険悪となり、松永久秀方の滝山城を攻めて落城させました。荒木村重の謀反の時は神戸の花隈城を攻める織田川の拠点になったようで、城主もめまぐるしく変わっていたようです。 

    大都会・神戸のすぐ裏に30以上の曲輪群、堀切、土塁など戦国時代の遺構が残っているのは奇跡ですね。坂を登りはじめてすぐの所にも郭跡があり、なかなか楽しめます。すぐ上を神戸布引ロープウェイのゴンドラがすぎていきますが、まさか下に戦国時代の城が拡がっているとは知らないでしょう。 

    250mほど山道をえっちら登りますが、この山道が昔の大手道になっています。戦国時代の大手道なので幅は1メートルもなく、ふつうの山道となんら変わりません。ハイキングコースになっていますので何名かのハイカーと会いましたが、城だけを目的に登っている酔狂な人物はいませんでした(笑) 

    本丸近くの堀切などの写真を撮っていると「何、しているんですか?」とハイカーから声をかけられました。単なる窪みを一生懸命、写真を撮っているヘンなおっさんと思われたようですねえ(笑)