都会のど真ん中に残る末森城

suemori201209.jpgお釈迦さんの舎利が奉納されている日泰寺のすぐ近くに小高い山があり、山上にあるのが城山八幡宮。ここには前から行きたかった末森城跡があります。 

織田信長のお父さん、織田信秀が築城した末森城。三河の松平や駿河の今川に備えた城で、織田信秀は古渡城から移ってきました。古渡城は現在の東別院にあります。やがて織田信秀はこの末森城で亡くなりました。 

城山八幡宮がある場所が本丸で、周りには空堀が掘られていましたが、これが見事に残っています。空堀の底まで降りて撮影した写真ですが、単なる道にしか見えませんね(笑)。けっこう深い堀になっているところもあり本丸をぐるっと囲んでいます。それにしても都会の真ん中によく戦国時代の遺構が残りましたね。 

信秀が死んで、末森城の新しい城主になったのが信長の弟である信行。母の土田御前がウツケと呼ばれる信長よりも品行方正な信行を溺愛していたこともあり、家臣が二手に分かれて家督争いに発展。やがて稲生が原の戦いが起き、信長は信行派だった柴田勝家らと戦い勝利をおさめます。桶狭間の戦いが起きる4年前のことです。 

前田利家の生誕地(荒子城)

arako201209.jpg午後から「あおなみ線」沿いの企業さんに専門家派遣で行く用事がありましたので、午前中に前から気になっていた荒子へ行ってきました。 

前田利家が生まれた荒子城。城といっても戦国時代ですので堀で囲まれた館のようなもの。現在、城跡はなにも残っておらず、天満天神宮になっています。この天満天神宮は荒子城の中にありました。今は住宅街に囲まれた中にポツンと残っています。 

すぐ近くにある近鉄・伏屋駅に前田という地名があり、こちらに前田城がありました。この前田城で前田利家が生まれたという説もありますが、中心になったのは荒子城でした。信長の清須城からもそれほど離れておらず、そばを流れている川沿いに清須まで移動することもできました。当時、海岸線がずっと内陸部でしたので、荒子城は海を守る南の拠点にもなっていたのでしょう。 

前田利家は信長の命で越前(石川県)に移り、城を守っていた前田利長も越前に移ることtなり荒子城は廃城になりました。尾張荒子から前田利家に従って移住した人が住んだことから金沢に尾張町ができています。 

羽津城跡

hanedusiro201207.jpg津から名古屋へ向かう途中、近鉄四日市駅を超えて2駅目の阿倉川駅を超えたところで電車は小さな切通しのような所を通ります。電車の上に2つ橋がかかっていて森のような雰囲気。ネットで調べると城跡ということで、昨日、理論研修前に出かけてきました。

普通電車しか止まらない阿倉川駅から歩いて5分ほどのところにあります。小さな公園になっていて、お年寄りがゲートボールをやっていました。この
小さな公園が羽津城の本丸跡で碑が建っています。今でも土塁跡が残っていますが本丸の真ん中を近鉄が分断してしまっています。なんとも残念ですね。

藤原秀郷という、ムカデを退治した俵藤太という俗名の方が有名な武士がいて、この子孫である藤原盛宗が建てた城です。いわゆる伊勢赤堀氏で、もともとは、上野国赤堀庄の出身。

足利尊氏から鈴鹿の地頭職をまかされて伊勢に赴任しました。他に赤堀城や浜田城を兄弟が守っていました。赤堀城は住宅街の中に碑だけが残っていま
す。浜田城は近鉄四日市駅のすぐ近くにある鵜の森公園にあり、鵜森神社の周囲3ケ所に土塁が残っています。四日市の人間でも城跡が残っていることを知らな
い人が多いですね。

天王山(山崎城)

yamazaki201206.jpg毎年、この時期に行なっている京都橘大学の集中講座がスタート。講義は午前中だけですので午後は山崎で下車。

秀吉と光秀がぶつかった山崎の合戦の舞台で、天下分け目の天王山と言われます。行楽シーズンになると高速道路の天王山トンネルの渋滞でも有名なところです。この天王山ですが、山の中腹にある山崎天王社に由来するんですね。

山崎駅から急坂を登るとハイキングコースになっています。月曜の午後にハイキングしている人なんていないだろうと思ったら、けっこうハイカーとすれ違いますね。クールビズとは言いながら皮靴で登っているので、周囲からは浮いています。

天王山の頂上に登ると、小学生の一団がワイワイやっています。この頂上付近は山崎城の跡地で光秀を破った秀吉が山崎城を作り、大坂城に移るまで利用していました。現在も曲輪の後などが残っています。

頂上付近をウロチョロしていたら、小学生に「おじさん、何してんの?山登り?」と尋ねられました。

「チャウチャウ、このあたりは昔の城跡なんだ」

「エー、ほんま」

そら小学生から見たら、ただの空き地にしか見えないでしょうなあ。

有岡城(伊丹城)

arioka201205.jpg法事が伊丹市であったので朝から出かけてきました。法事が終わってからJR伊丹駅の目の前にある有岡城へ。

織田信長に所属していた荒木村重が突然謀反を起こし、伊丹城の戦いとなりましたが、この舞台となったのが有岡城です。と言っても本丸跡が公園として少し残っているぐらいですが、堀跡や土塁跡を見ることができます。都会のど真ん中によく残っていますね。

荒木村重を説得に有岡城へ行った黒田官兵衛が捕えられてしまい城の中の牢獄に1年間投獄されてしまいます。黒田官兵衛は息子の黒田長政を信長に人
質に出していましたが、信長はなかなか帰ってこない黒田官兵衛を裏切ったのではないかと考え秀吉に、人質の黒田長政を殺すように言います。この時、竹中半
兵衛が信長の命に逆らって黒田長政を匿うというシーンはよく時代劇などで描かれています。

有岡城は城下町を含めた惣構えになっていて、町の周りが土塁や堀で囲まれた大きな城でした。今のところ日本最初の惣構えのようです。さすがの信長も攻めあぐね、最後は城内からの裏切りで落城します。

北の端には「岸の砦」があり、現在の猪名野神社と考えられています。行ってみると神社の中には土塁跡が残っていました。JR伊丹駅と阪急伊丹駅のちょうど真ん中が惣構えの範囲にすっぽり入っています。

清洲城

kiyosu201204.jpg新大阪から新幹線に乗って名古屋駅の手前に見えるのが清洲城。

いつも気になっていたので名古屋へ行ったついでに寄ってきました。信長が10年間、居城にした城で、ここから桶狭間の戦いに出陣しました。信長が
本能寺の変で倒れたあとに行われた、織田家の跡目について話し合う清洲会議もここで行われ、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀などが出席していました。

清洲城は織田信雄が継ぎ、天守などを整備しましたが場所は現在の城の対岸側で、当時の石垣の一部が残っていますが、遺構は残っていません。現在の
清洲城は復元され博物館になっていて、発掘された金箔の瓦などが展示されています。名古屋城の櫓の一つに清須櫓があり、これは清洲城にあった天守を移した
ものと言われています。

この清洲城から桶狭間までは距離にして24km。時速6kmで行くと4時間の距離になります。ここで敦盛を舞って出陣する信長は時代劇の定番ですねえ。

物集女(もずめ)城

mozume201111.jpg午前中は向日市で仕事。

午後から向日市をウロウロ。結局、有名な竹の径から戦国時代の城、物集女城まで行ってきました。竹の径は竹林を切り開いた道で、ずっと竹林が続くのは見事でした。ただ舗装ではなく土の道ならもっと風情があるんですが、農道目的なので無理でしょうね。

物集女は「もずめ」と呼び、古い土地です。少し前に「京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城」(文理閣)という本を読んだのですが、室町時代から戦
国にかけて村を統括する土豪が作った城がこの地域にたくさんあり、その一つです。室町幕府の配下で意気盛んでしたが信長の進出で細川藤孝が支配することに
なり、物集女城の主であった物集女氏は勝竜寺で殺されてしまいました。

城跡は住宅地の真ん中にあるのですが主郭は畑の形で残っています。周りには土塁と堀の一部が残っていて、よく現代まで残りましたね。近くに物集女公民館があり、係員に声をかけると復元模型がありますと案内してもらえ、パンフレットをもらいました。

ちょっと離れたところに寺戸城跡がありましたが、こちらは遺構は残っておらず児童公園に碑がたっていました。古城という字が残っているそうです。

開田城跡から勝龍寺城へ

nagaoka201101.jpg午前中は長岡京市でお仕事。名前の通り、平安京の前に作られた長岡京のあったところです。安倍晴明の陰陽師では早良親王の怨霊の舞台となったところです。さすがに長岡京の痕跡は残っていません。

昼過ぎに終わったので阪急長岡天神駅近くの商店街を歩いていたら、バス停のすぐ近くにちょっと変わった公園がありました。公園といってもポケット公園でイスが置いてあるのですが名前が開田城跡公園!

開田城(かいでんじょう)!以前に「京都 乙訓‥西岡の戦国時代と物集女城」という本を読んだのですが、その本で紹介されていた城です。こんな商
店街のど真ん中にあったんだあ!遺構は土塁の一部だけが残っています。後で調べたら敷地跡に建つマンションの1階に開田城の復元模型があるそうで、今度
行ったら見てこよう!

阪急長岡天神駅から少し歩くとJR長岡京駅で、駅前にはムラタ本社があります。ここから少し歩くと勝龍寺城があります。信長の時代は細川藤孝が拠
点としており、ガラシャ夫人が輿入れした城で、11月には長岡京ガラシャ祭が行われるということで城の周りにはノボリが立っていました。

山崎の合戦では明智光秀の拠点となった城で、すぐそばが天王山です。敗れた光秀は勝龍寺城に戻り、夜陰に乗じて城を出て坂本城に向かったのですが途中の山科で殺されてしまいました。

姫路城

himeji201109.jpgいつもは新幹線で通過する姫路駅に初めて下車。駅前商店街が長く、よく賑わっていました。商店街が元気な町はいいですねえ。姫路で午前中は仕事でしたが、午後は予定がなかったので国宝・姫路城へ行ってきました。

2014
年まで大天守保存修理工事ですので、外観は見えませんが天守閣にフードがかぶっていて、エレベーターで上まであがり修理の様子を見ることができます。天守
閣の屋根を外から見るというのは、修理中でないと見られないのでお値打ちです。ただし月曜でも、まあまあ観光客がいましたので土日はけっこう混むでしょう
ね。

巨大な城ですが、町に遺構がよく残っています。お城から少し行ったところに国道2号線が走っているのですが、ここが中堀跡。堀は道路
になっていますが土塁がずっと続いて、ところどころに門跡が残っています。ここまで外部の遺構が残っている城は見たことがないですねえ。家老屋敷跡が公園
になっていたり姫路の町は見どころ満載です。

姫路から長浜行きのJR新快速で大阪へ戻ってきましたが、秀吉はよくこの距離を大返ししましたね。山崎の合戦跡を越えて、秀吉の居城があった長浜までJRが走っているのは、なかなか面白いですなあ。

浜田城(四日市)

hamada201109.jpg四日市駅のすぐ近くにあるのが鵜の森公園。すぐ近くを近鉄内部線・西日野線が走っています。日本で現役で走っているナローゲージで、他には桑名から出ている三岐鉄道北勢線しかありません。

鵜の森公園の中に少し高くなって森になっているところがあり、中にあるのが鵜森神社。この神社、戦国時代は城でした。

戦国時代の城なので江戸時代の天守閣があるような城ではなく周りを土塁で囲んだ簡易な城でした。浜田城という名前で城主は浜田氏。すぐ近くにある
赤堀城主・赤堀氏の一族です。浜田氏は街道を城の東に移し替え、市を立てて四日市の基礎を築きました。城は織田信長の伊勢攻めで滝川一益に攻められ落城
し、廃城となりました。

とは言いながら神社を囲むように北、東、西に土塁が残っています。「私有地につき立入禁止」とあるだけなので土塁と気づいていない人も多いのですが、都会の中に戦国時代の城の遺構が残っているのは珍しいですねえ。