飯森山城へ

ようやく涼しくなり、まもなくシーズン到来ですのでリハビリがてら飯森山城へ登ってきました。

飯森山城

麓の野崎から登りはじめましたが、だいぶ体がなまっていますね、途中でけっこう息がきれました。ヒーハー言いながら1時間ほどかけて山頂を目指します。

飯森山城は南北朝時代には築かれていて、高師直軍と楠木正行が戦った四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城をおさえたようです。それもあって頂上には楠木正行の銅像があります。その後、守護・畠山氏の被官だった守護代・木沢長政が城として整備をし、本格的な山城としてスタートします。石垣の城として整備したのは三好長慶で、織田信長よりも先に天下人になった人物です。

少年の時に父親を殺した細川晴元と手を結び、戦国時代には珍しく、兄弟で役割分担しながら畿内を平定します。しかし嫡子に先立たれるなど晩年は恵まれせんでした。この三好長慶に仕えていたのが松永久秀です。そうそうキリスト教の布教も認めていて高山右近がキリスト教に改宗したのも三好長慶の影響がありました。

三好長慶はこの飯森山城で病死し、御体塚郭に埋葬されていると伝わっています。大きな郭が稜線に連続し、一番北側の出丸からは山城、摂津、河内、大和の国を270度パノラマで見ることができます。

小田原城・総構

山ノ神堀切

先月、茅ヶ崎で集会があった後、大阪へ帰るついでに小田原駅に寄ってきました。目的は小田原城です。とは言いながら天守閣は以前に行ったので今回はパス。小田原駅の北側からひたすら坂を登って城山を目指します。戦国時代の小田原城には城の周りに長大な総構があり、武田信玄、上杉謙信、秀吉が小田原城を攻めましたが落城することはありませんでした。秀吉は小田原城攻めで総構の鉄壁さを知ったため、このあと大坂城にも取り入れています。

市街地にあった総構は早川口など一部には残っていますが、山側の総構が比較的によく残って整備されています。山ノ神堀切、稲荷森、小峰鐘ノ台大堀切と巡ってきました。小田原駅にいた、たくさんの観光客の誰一人もこんな場所にはいませんね(笑)。

大庭城

大庭城

先月、鎌倉巡りをした後、藤沢という所へ泊ったので朝から大庭城へ出かけてきました。藤沢駅からバスが出ていました。大庭城は城址公園として整備されていて登りやすくなっています。この地域にあったのが大庭御厨という伊勢神宮領、いわゆる荘園です。大庭氏が支配していましたが、石橋山の合戦で大庭景親(國村隼さんが演じてました)が源頼朝を打ち破ります。結局は頼朝に負けますが、景親の兄である大庭景義が頼朝に仕えていたので御家人としては残ります。

大庭城は大庭氏の拠点として作られましたが、本格的に手をいれたのは太田道灌のようです。後に後北条氏が改造しました。台地の端に築かれた城で、空堀や土塁が残っています。台地の端に連郭式に郭が作られており一番奥には建物跡などが見つかりました。同じ連郭式の深大寺城に似ています。切岸の下には帯郭が見事に残っていました。後北条氏の時代のようです。

山科本願寺から石山本願寺へ

山科本願寺跡

イスラム教のスンニ派とシーア派との対立、またキリスト教でもカトリックとプロテスタントの対立があり世界中で宗教戦争があります。日本もかっては同様でした。特に一向宗と法華宗が争っており、政治的な話もからんでグチャグチャの状況です。

■大谷本願寺
本願寺が京都の大谷にあった頃、蓮如がやり手で、御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)という、庶民が分かる書簡を使った教化を行い全国に信者を増やしていきます。近江に力をいれて布教しており、怖れをいだいた比叡山が京都に僧兵を送りこんで大谷本願寺を壊してしまいます。

■山科から大坂へ
そこで新しく造られたのが山科本願寺。寺と言いながら、二重の土塁と堀で囲まれた、ふつうの城です。ところが、ここも細川春元が率いる法華宗、近江守護六角氏の連合軍により焼き討ちにあいます。鉄壁の守りですが油断をついて攻め込まれました。次に移ったのが石山本願寺。いままでの経験をいかし徹底的に防備を固め、出城をいくつも作ったため、さしもの信長も攻めあぐね10年戦争(石山合戦)になりました。

最後は和睦して大阪を立ち退き紀州(鷺森本願寺)へ移ります。信長亡き後、秀吉と和睦して天満へ移り、その後に京都へ移ります。信長、秀吉、家康が宗教を非武装化したことにより、世界でも珍しく日本では宗教戦争がなくなっていきます。

山科本願寺公園

山科本願寺公園

先週のブラタモリを見ていたら山科が舞台で、山科本願寺の土塁跡が取り上げられていました。山科中央公園の一角に土塁跡が残っていて、そちらが紹介されていましたが、その後に出てきたのが本願寺跡にあった風呂設備の遺構です。

当時のお風呂は湯船タイプではなく、いわゆる蒸し風呂、つまりサウナです。そういえば先週の「どうする家康」でも蒸し風呂に入っている家康のシーンが出ていました。湯船タイプは江戸時代からになります。山科中央公園の土塁跡は昔、行ったのですが、風

呂設備についてははじめてで、さっそく山科本願寺公園へ出かけてきました。史跡公園として、できたのは2021年、つい最近なんですね。公園は山科本願寺の中枢である宗主空間があったところで、建物跡や堀跡が示されています。すぐ近くを新幹線が走っていますので、新幹線の窓からも見えます。山科の街を通り過ぎる北側になります。

千貫櫓

千貫櫓

大坂城の大手口に対し、北西から横矢を狙うことができるのが千貫櫓です。豊臣大坂城の上に盛り土をして徳川大坂城を築きましたが、千貫櫓ができたのが元和6年(1620)です。乾櫓とともに大坂城内で最も古い建築物になっています。年に何回か公開されています。

千貫櫓という名前は古く、石山本願寺と信長が戦っていた時に、櫓からの横矢に悩まされ、信長が「銭千貫文を出しても取りたい」と言ったことが由来です。その後、建替えられた豊臣大坂城でも徳川大坂城でも名前が踏襲されました。

大坂城の最後の主が徳川慶喜。鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城で戦う予定でしたが徳川慶喜は敵前逃亡し、江戸へ軍艦で戻ります。「何で!」ということですが、いろいろな理由がありました。一つがイギリスの動きで、鳥羽伏見で幕府が敗退すると、イギリスは「局外対立を保たないかもしれない」と幕府を脅します。イギリス海軍が大坂城を海上封鎖したら詰みになってしまいます。

もう一つ、お金の問題もありました。大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったようです。

京都新城から移された飛雲閣

そうだ 京都、行こう。

飛雲閣

ゴールデンウィークの最終日だし、おまけに朝から雨が降っている。飛雲閣なんてインバウンドの観光客は絶対に知らないはずだ!
そうだ 京都、行こう。というわけで京都へ。西本願寺で特別公開している飛雲閣を見てきました。雨の中、人は、ほとんどおらず、ゆっくり見てきました。

飛雲閣は三層柿葺(こけらぶき)の楼閣建築で、秀吉の聚楽第から移されたと伝わっています。1595年に豊臣秀次事件が起きて、聚楽第は破却されました。当時、西本願寺の前身が出来ていたので、辻褄はあいます。ところが1617年に西本願寺の伽藍が全焼したという記録が見つかって、移転説はほんまかいなということになっています。

■飛雲閣は京都新城から移転?
と思っていたら幻だった京都新城が発見されます。京都新城には秀吉没後に北政所が住み続けていました。北政所が亡くなり、寛永4年(1626年)に後水尾天皇の譲位にあわせて、仙洞御所を作ることになり、京都新城が破却されることになります。この頃に西本願寺へ移した可能性があります。知らんけど。

笠上砦、見つけられず

東野山城からの帰り道、Googleマップを見ると笠上砦のマークが!

鉄塔

東野山城の出城がいくつか造られたので、その一つでしょう。林道から山の中に入って、マークの場所を目指しますが、結局は送電線の鉄塔のところをGoogleマップが笠上砦として示していました。「こんなところなの!」と、とりあえず周辺を探訪。けっこう歩き回りましたが城の痕跡はなし、大体、砦なら切岸があるはずですが、なだらかな坂になっているだけです。別の所を指しているのではと林道から反対側に登って、ひたすら尾根道を歩きますが、こちらも城の痕跡はなし。結局、さっき歩いてきた林道に行き当たりました。

Googleマップの山城の位置は、けっこう間違っていることも多いので、その一つですね。Googleマップが間違っている場合はフィードバックができ修正できます。送迎山城なんかも場所が間違っていたので修正したこともあります。笠上砦も調べなおして次のベストシーズンにアタックするしかないですね。

東野山砦

賤ケ岳の合戦で堀秀政が守ったのが東野山砦。秀吉軍の防衛線である連珠の砦よりも、さらに前に出て築かれた山城です。今も土塁や空堀などが見事に残っています。入口は堀底道になっていて高い土塁から攻撃を受けながら進まないと虎口にまでたどりつけない複雑な構造になっています。東野山砦からは余呉湖方面も柴田軍方面もよく見えたでしょう。現在は余呉湖方面しか見えません。東野山砦はもともと京極氏、浅井氏の配下だった東野豊前守一族の居城でしたが、堀秀政が整備しなおしました。

東野山砦

柴田軍にとっては、やっかいな場所に造られた城で、正面突破ができないので、佐久間政盛が行市山を出て、南下し余呉湖をまわりこむ形で中入りをしました。中入りといえば小牧・長久手の戦いで秀吉軍の中入りが失敗しましたが、堀秀政は冷静な判断で家康軍に一矢報いました。その後の小田原攻めの最中、陣中で病没しました。

連珠の砦

ちょっとした土の高まりしかないのですが、ここが連珠の砦跡です。

連珠の砦

賤ヶ岳の戦いで先手をとったのが柴田勝家側。玄蕃尾城、行市山城など次々と高台に拠点をつくり持久戦にかまえる体制を整えます。出遅れたのが秀吉側で防衛線を南に下げ、北国街道の西側の山に神明山砦、堂木山砦を築き、東側の山には東野山城を築きます。この砦の間の平地には塹壕を掘って、掘った土で土塁を築き、柵を設置します。塹壕が数珠のようにつながっていたので連珠の砦と呼ばれました。

三木城攻めでは各砦の間が土塁で連結されていました。あれよりも小規模ですが、賤ヶ岳の戦いの最前線になったところです。ただ、北国街道などが整備させれて、遺構はほぼ無くなりました。