片道40分、こんな通勤はいやだ(高取城)

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    月曜日、日本三大山城の一つ高取城へ登ってきました。 

    高松塚古墳、石舞台、飛鳥浄御原宮など古代史を彩る飛鳥の隣に城下町土佐町があり、土佐街道が走っています。なんで土佐という地名がついているかというと6世紀頃、大和朝廷の労役で土佐の国から呼び出されましたが、帰郷費用を出してくれるようなことはなく、労役が終わってもそのまま住み着いて土佐町となったそうです。ひどい話ですなあ。 

    土佐街道から上り坂になっていて、標高583.8メートルの山頂に向かって延々3キロの大手道が続きます。ひたすら山登りをすると大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城があらわれます。申し訳程度の石垣しかない山城や土塁だけの山城と違い、平地の城と同じような規模の城。よく山頂まで大量の石を上げて、あんな壮大な石垣を作りあげましたなあ。国見櫓からは生駒、葛城金剛山から飛鳥、奈良が一望でき、大和で軍勢が動けば丸わかりです。 

    江戸時代の城主は家康の旗本であった植村氏ですが、山上の生活は不便なため藩主や家臣の屋敷は土佐町に作られ、城下町が形成されていきます。とはいえお城は山の上なので、えっちらおっちら大手道(単なる山道)を登らなければなりません。 

    片道40分ほどかかりますが、いやになるぐらいの上り坂。家臣や物資を運ぶ人は大変だったでしょうね。毎日の上り下り通勤は大変だったので、平日は山上に単身赴任し、週末は土佐町に下りる生活だったかもしれません。体力をつけたい人にはうってつけの勤務ですが、雨の日は大手道が濁流になりますので、つらいだろうなあ。 

    すごい縄張りの城を山上に作りあげ難攻不落の城でしたが、実戦で使われたのは1回だけ。幕末に天誅組の乱が起き、十津川郷士等1000名ほどが攻めてきましたが150名ほどで簡単に撃退してしまい、実力を発揮しました。

三木の干殺し 戦を土木に変える

miki201311.jpg豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。 

いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。 

神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。 

というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。 

戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと 

城巡りシーズン到来

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    いよいよ11月。暑い夏も終わり、ようやく城巡りのシーズンとなりました。 

    城といっても名古屋城や大阪城のような平城であれば季節は関係ないのですが、行こうと考えているのは戦国時代の城。日本にはたくさんの城があり、一説には全国に25,000~30,000の城があったと言われています。 

    江戸幕府による一国一城令の発布により各地で破城が行われました。破城とは城を崩し廃止することで城割ともいいますが、多くの大名は城にあった建物を壊し、また石垣や土塁の一部を壊してお茶をにごしました。江戸時代初期、まだまだ何が起きるか分からない時代です。いざという時に使えるように申し訳程度に城を壊しただけです。 

    ですので土塁や空堀がそのまま残っていることが多く、。田舎で城山とかいう地名がついている所には大概、城があります。破壊が進んだのは現代に入ってからでニュータウンやゴルフ場の建設で、戦国時代から残っていた貴重な城が破壊されてしまいました。津でも垂水城、渋見城などは跡形もありません。 

    そうは言いながら、まだまだ残っている城も多くありますが問題は城に行くには藪を掻き分けて道なき道を行かないといけないということ。とても夏場は城跡に入れません。ですので晩秋から冬が城巡りのベストシーズンになります。 

    写真は山城ではなく平城京近くにある平城・超昇寺城です。土塁と堀跡なんですが、こんな土と藪だらけの所へ行ってなにが面白いのかと人にはよく言われますが、「AKBのどこがいいの」とと五十歩百歩だと思っています。(笑)

生きている間に日の目を見ない修理記録

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    名古屋城では本丸御殿の公開が始まっていますが、歴代の修理記録が展示されています。 

    前に修理した大工さんらが、どこをどういう具合に修理したかを記録したもので修理した壁の中などに埋め込まれています。つまり記録は次に修理が行われる時にしか日の目をみません。後に続く人たちのために残すために書かれます。連綿と続く職人の世界ですね。 

    修理した内容や関わった大工などの名前が書かれています。墨書で書かれていて、例えば宝永7年(1710)の修理では瓦の葺き替えが行われたことなどが分かります。 

    なかにはユニークな墨書もあり、展示されていたのは昭和の時代に行われた修理記録。似顔絵が描かれています。佐藤栄作首相時代のようですので、まだ存命の方もいるでしょうな。まさか落書きが展示されるとは思っていなかったでしょう。

松江城

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せっかく出雲まで行ったので荒神谷遺跡まで足をのばそうという話があったのですが出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館へ行ったら、荒神谷遺跡の鉄剣がずらっと壁一面に並んでいました。おまけに加茂岩倉遺跡の銅鐸も勢揃い。こりゃ、現地まで行かなくてもいいなとなったので行先を松江に変更。
まずは定番の松江城へ。昔、三重県中小企業診断協会の旅行で松江へ行ったのですが時間の都合で城が見られなく、そのリベンジです。もっともAll Aboutのガイド記事「戦国武将とシステム作り」シリーズのイメージ写真になりそうな所ばかり撮っていました。

名古屋城 本丸御殿

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    午前中、時間があったので名古屋城・本丸御殿へ行ってきました。公開がはじまっています。本丸御殿は昭和まで残っていたんですが空襲で天守閣と共に焼けてしましました。 

    復元が始まったのですが御殿の全部ができあがったわけではなく玄関と表書院の部分公開。第2期は対面所、第3期は上洛殿ができ、全て公開されるのは平成30年になります。 

    部分公開と言いながら、中は広いですね。総檜(ひのき)造りで、できたばかりですから廊下もピカピカ。玄関や書院には狩野派の絵師により描かれた障壁画が復元されていて、なかなか華やかです。竹に虎の構図やら、こりゃ猫かなと思ったら麝香猫(じゃこうねこ)の画もありました。 

    名古屋城内では「おもてなし武将隊」の前田慶次と兵卒の踊舞(とうま)が城内を歩いていました。名古屋は秋だというのに残暑が厳しく、この暑い中をなんぼ軽量とはいえ甲冑をつけて歩くのは「ゆるきゃら」並みに大変でしょうねえ。 

名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ

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名古屋の中心部を斜めに走るのが飯田街道。 
主要道路を斜めに横切るので都会では珍しい五道の辻がいたる所にできています。これが名古屋で道に迷う遠因にもなっています。飯高街道は飯田ろ結ぶ目的があるのですが別名、駿河街道、岡崎街道とも言われ、徳川家康の命により軍事・産業用道路として整備されました。 
まっすぐ進むと岡崎に行きますので、いろいろと考えられていて、まずは飯田街道沿いの八事(やごと)。近くには名城大学があります。地下鉄の八事がありますが、ここが名古屋から一番近い峠になります。興正寺など寺が整備されていますが、万が一西国から攻められて名古屋城が抜かれた時に迎撃する拠点でした。 
尾張藩の重臣を有事の際に陣を構えることがきまっていたそうで興正寺には土塁が残っています。

御器所西城(尾陽神社)

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    吹上にある名古屋市新事業支援センターから白金にあるNavi白金に出かけてきました。Navi白金は名古屋市のビジネスインキュベータで、ベンチャー企業が入居しています。 

    JRで行くには中途半端なので行き帰りとも歩いていきました。白金と吹上の途中にあるのが御器所にある尾陽神社。御器所(ごきそ)は熱田神宮の神領で、神事に用る土器を調達したところから御器所と名付けられたようです。地下鉄御器所駅は少し離れたところで、最寄りの駅は荒畑駅になります。 

    御器所の尾陽神社は少し高台になっていて、遺構は何も残っていませんが御器所西城跡と。佐久間一族が作った平山城で、佐久間盛次の代になると織田信長に仕えました。 

    盛次の子が佐久間盛政で、勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれました。柴田勝家の甥でもあり、賤ヶ岳の戦いでは盛政は中川清秀の砦を急襲し、勝利をおさめますが前田利家の敵前逃亡もあり、秀吉に敗れます。廃城となりましたが明治になってから神社が建立されました。

贄崎砲台(津藩のお台場)

houdai201307.jpg津市の岩田川の河口にあるのが贄崎地区。昔は競艇場があり、子供の頃に父親に連れられて行ったことがあります。今はヨットハーバーや、セントレア行きの船が出たりと様変わりしています。 

この贄崎から少し川をあがった所に船溜まりがあり、この船溜まりをのぞむ丘の上に贄崎砲台がありました。いわゆるお台場です。戦後まで丘には松が生えていたそうですが、今は影も形もなく青果市場になっています。 

ペリー来航以来、国防が意識され、津藩では、幕命を受けて度会郡の二見町に3ケ所砲台を築いていました。志摩は鳥羽藩が台場を築いていました。また津藩は岩田川と塔世川に囲まれた地に城下地がありましたので海の玄関口を守るために贄崎砲台が築かれました。塔世川にかかる塔世橋近くにも西浦砲台が作られます。現在の市町村会館あたりだそうで、こちらも何の痕跡も残っていません。

浜松城(出世城)

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    浜松駅からえっちらおっちら歩いたところに浜松城があります。けっこう駅から遠いですね。 

    徳川家康が武田信玄に備えるために築いた城で、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。31歳の三方ヶ原の合戦にはこの浜松城から出陣し、武田信玄にたたきのめされ命からがら城まで逃げ戻ります。この時、敗戦して憔悴しきっている自分の姿を絵師に書かせ、生涯慢心を戒めるために持ち歩いたと伝わっています。 

    姉川の戦い、長篠の戦い、秀吉と争った小牧・長久手の戦いなど家康の命運を握った戦いも本拠地はこの浜松城でした。家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、徳川家とゆかりが深い譜代大名を配置。幕府の要職につくものが多く、浜松城は出世城ともよばれました。 

    二の丸などは学校などになっていますが、本丸は残っていました。天守閣は再建で、中は博物館になっています。天守閣の下の石垣が野面積みという古い石垣の積み方で、これは家康築城の時代のものです。野面積みは、なかなか残っておらず貴重ですね。