大極殿から徒歩3分のところにあると佐紀城

siro201305.jpg平城京跡には時々行っているんですが、まさか大極殿から徒歩3分のところに城があるとは知りませんでした。専門家派遣の後に時間があったので西大寺駅から歩いて行ってきました。 

場所は大極殿のちょうど北側。平城京時代の柱跡が植木で再現されているのですが、その北側に佐紀神社があります。ここが佐紀城跡。あまり大きな城ではないのですが社殿があるところが郭で、櫓台らしきものの跡や空堀跡がありました。室町時代に作られた城です。 

神社のすぐ南が佐紀幼稚園で、ここから大極殿がよく見えます。ちょうどお迎えの時間帯のようでお母さん方が子供を迎えに来ていたのですが、ヘンなおじさんがヤブなどを熱心に見ているので不審に思ったでしょうねえ。ヤブの奥に空堀があるんです。 

それにしてもさすがは奈良ですね。奈良公園の中にも城があったし、平城京跡のすぐ近くにもあるんですね。

神戸の大都会にある花隈城

hanakuma201304.jpgひょうご産業活性化センターで窓口相談。 

お昼休みに三宮駅からJR沿いに元町駅の方へ歩きました。元町駅の途中ぐらいから2階建分ぐらいの思いっきり坂になります。ずっと高台になっていて、少し行くと花隈公園。片道20分ぐらいですね。吉野家の牛丼を食べたらぴったし1時間でした。 

花隈は鼻隈と言ったそうで、六甲山の丘陵が海に突き出ている様子を「鼻」と言ったそうです。ここが花隈城跡。誰が築いたかは分かりませんが織田信長が毛利氏対策として荒木村重に命じて築城させたようです。本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城で元町駅あたりはずっと城でした。 

荒木村重が織田信長を裏切って有岡城の戦いが起きます。来年の大河ドラマが黒田官兵衛ですが、荒木村重を説得に行った黒田官兵衛ですが、うまくいかず、城の中に幽閉される事件が起きた戦いです。 

花隈城も荒木村重の支城でしたので、織田方に攻められ落城。その後は兵庫城が海沿いに作られ花隈城は廃城になりました。城跡といっても碑しかなく模擬石垣や模擬天守があるだけです。ですが、けっこうな高台ですので、今はビルで見えませんが当時は海もよく見えたでしょうね。神戸ポートタワーの先が見えていました。 

飯盛山城

iimori201303.jpg昨日は野崎城を見た後、そのままハイキングコースに入って飯盛山頂上へ登ってきました。 

天気予報は曇りでしたので、雨はそのうち止むだろと思っていたら、だんだんひどくなってきます。引き返すのもしゃくだし、ぬかるんだ山道をえっちら登っておりました。さすがに誰も登っていません。 

飯盛山山頂には四条畷の戦いで戦った楠木正行の銅像が建っています。この頂上付近が飯盛山城の本丸で、郭跡が残っていますが、飯盛山城は連郭式になっていて、かなり広大。所々には崩れた石垣が残っていました。 

こんな日に誰もいないと思っていたら雨の中をもう一人登っているおじさんがいて、一般人は絶対に気にしない郭跡などを見ていました。飯盛山城を見にきたようで同好の士ですなあ(笑) 

飯盛山城は河内平野を見下ろす山城のため、太平記の時代からありました。有名な四条畷の戦いもここが舞台の一つでした。飯盛屋城は歴史の舞台にたびたび登場し、信長よりも先に京都を掌握した三好長慶の居城になったり、最後は織田信長によって落城させられ廃城になったようです。 

野崎城

nozaki201303.jpg野崎と言えば桂春團治の十八番「野崎詣り」、上方落語の舞台です。野崎観音のある慈眼寺への参詣を野崎詣りと言いました。 

JR学研都市線の野崎駅から少し歩くと野崎詣りの慈眼寺があります。。寺の入口はえっちらおっちら石段を登った高台にあります。寺の裏側からハイキングコースがあり、寺の裏山へ登ることができます。少し登ったところにあるのが野崎城跡。野崎詣りをする人は多いのですが、こんな雨の日に城跡に登っている酔狂な人間はさすがにいませんね(笑) 

城跡は何も残っていないんですが郭跡などはそのまま見晴らし台になっています。堀切があるのですが、かなり深くなっていました。 

太平記に南朝側の楠木正行に対峙するための北朝側が陣をひいたと記録があります。戦国時代にもいろいろな文献に登場しますので合戦の舞台によくなったようです。確かに城跡からは四条畷や野崎が一望でき、戦略上の要害だったようです。 

筒井城

tutui201302.jpg近鉄・大和八木駅から西大寺駅に向かう途中、筒井駅という普通しか止まらない駅があります。高架駅になっています。 

駅の横が商店街になっていますが、かって一帯は筒井城という平城でした。室町時代~戦国時代の筒井氏の居城。筒井氏で有名なのが筒井順慶です。洞ヶ峠の逸話で有名ですが実際は山崎の合戦への強力を頼んだ筒井順慶を明智光秀が洞ヶ峠で待っていたのが真相のようです。筒井康隆が小説「筒井順慶」を書いていますが筒井一族というわけではなく同じ姓だからのようです。 

筒井城は大和の中心地にありますので、しばしば戦場の舞台となり攻城戦が5回もありました。信貴山の松永久秀などともよく争っていました。 

筒井城の中心部は蓮根畑になっていて「シロ畠」という名前がついています。筒井の殿様が住んでいたので遠慮して家を建てないと伝承され、現在も畑のままです。ちょうど発掘調査をしていました。城跡は残っていませんが、堀の跡が水路になっているなど、現在も当時の城の様子をうかがえる箇所がいくつかあります。 

筒井順慶は織田信長の部下となり筒井城から大和郡山城に移ります。筒井順慶は若くして亡くなりますが、筒井氏は秀吉の時代に伊賀上野に移封。やがて藤堂高虎が大坂の陣に備えて、伊賀上野城を築きますが、その前にあったのが筒井の伊賀上野城。現在も筒井時代の天守閣があった場所などが伊賀上野城に残っています。ちょっと分かりにくい場所なので、誰も行きません(笑) 

木造城

kidukuri201302.jpg久居(市町村合併で現在は津市になっています)の企業へ専門家派遣で行っていましたので、終わってから木造(こつくり)城に行ってきました。 

城と言っても田んぼの中に土盛りがあり石碑と案内板が建っているだけです。城の近くには木造神社や集落があり、ここらへんが根拠地でした。少し行くと大阪、伊勢、名古屋の分岐点である近鉄中川駅です。近くを雲出川が流れています。 

木造城の城主は木造氏、もともとは北畠氏でしたが2代目が京都住まいで足利将軍と親しかったため、本家北畠氏の南朝と対立しました。この時に木造城は北畠に攻められて落城。木造氏は幕府側の加勢を得て反攻し、国司北畠満雅が岩田川の戦いで討死することになります。 

そんな歴史もあり織田信長の伊勢進攻では、本家を攻める側にまわりました。北畠氏の最前線である天花寺城は雲出川の対岸に見えますので、戦国時代はここらへんが戦場になったのでしょう。 

本能寺の変の後は織田信雄に仕えましたが、秀吉と信雄が対立して小牧長久手の戦いが起きた時には秀吉に攻められて、また戦場になりました。 

木造氏の一人で伊勢進攻の指揮をした滝川一益に気に入られ娘婿になったのが滝川雄利。 織田信雄の伊賀攻めに尽力し、柏原城を攻めるために滝川氏城を築城しています。 

北条氏の城 小田原城

odawara2013.jpg石垣山一夜城から麓まで降りて、早川という名前の川を渡ると小田原城の総構えがあった場所。 

秀吉は最前線のすぐ近くに城を作ったんですね。一夜城から歩いて30分ほどで麓、そこから10分ほで総構えです。麓の最前線には山崎の合戦、北ノ庄攻めにも参戦した堀秀政が布陣していましたが病死してしまいます。陣をひいていた麓の海蔵寺にお墓があります。 

小田原城の総構えは2里半(約 9 km)と長く、空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものでした。今はほとんど痕跡がなくなりましたが、早川口には二重土塁が残り、当時の総構えがどんなものだったか実感できます。土塁はけっこう高く、町中を取り囲んでいました。西洋や中国の城と変わりませんね。この総構えで攻めてきた上杉謙信や武田信玄を撃退。 

小田原城では城の復元が進んでいて常盤木門や馬出門が出来ていました。江戸時代の雰囲気が楽しめます。天守閣はコンクリート製ですが、一番上に上がると目の前にあるのが雄大な太平洋と箱根の山々、そして一夜城のあった石垣山。一夜城跡を見ると車ぐらいの大きさなら動いているのも充分に見えます。北条氏にとってはめちゃくちゃプレッシャーだったでしょうね。 

鉄壁の総構えと一夜城のプレッシャー、こりゃ小田原評定になるはずです。

石垣山一夜城

isigaki201303.jpg東京駅から東海道本線のホームへ。熱海行きの普通電車に乗るんですが、やってきた電車が15両もありました。新幹線並みですね。さすがに東京はすごいなあ。 

JR早川駅で下車。ここから農道なんですが国道よりきれいな道沿いに30分ほど登ります。途中には参陣した武将の紹介があり、楽しめるようになっています。小田原攻めが行われた石垣城へ通じる道がそのまま農道になったようです。 

車で上まであがっていく横をテコテコ歩きます。なかにはスポーツ自転車で上がる猛者もいました。 

頂上近くにあるのが石垣山一夜城。以前は笠懸山という名前でしたが秀吉が総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。秀吉が工事中に白壁にみたてた白紙を貼った城を造り、周りの木を切ったので一夜で城ができたと北条氏が驚いたところから名づけられましたが、たぶん、そんなことはなく工事をしている所を見せながら心理戦に持ちこんだのでしょうね。 

目の前に小田原城が見えますが、当時は総構えになっていたので攻めるのはかなり大変。そこで支城を各戸撃破し、小田原城からいつでも見える石垣山にその頃、関東にはなかった総石垣の城を築き、威圧したのでしょう。 

本丸跡や曲輪跡などがきれいに残っていました。おすすめは一番奥にある井戸曲輪で、見事な石垣が残っていました。奥までくる観光客はほとんどいませんでしたね。 

ああ、いい運動だった!

桜町中将城

sakuramati201301.jpg滝川氏城のすぐ隣にあるのが桜町中将城

天正伊賀の乱で伊賀勢・最後の拠点となった名張の柏原城がなかなか落ちず、長期戦になりそうなため織田信雄が家臣の滝川雄利に命じて造らせた城。伊賀攻めの際に、織田信長は信忠を伴って織田信雄の陣所を訪れた記録が信長公記に残っており、この桜町中将城だったようです。

伊賀平定後は伊賀をおさめる拠点となりましたが本能寺の変後に使われなくなりました。織田信雄は、京都の屋敷が桜町にあったことから桜町中将と呼ばれ、これが城の名前になりました。

入口が分かりにくい城で、城の中は雑木林状態。土塁や堀跡ははっきり分かり、主郭は滝川氏城に比べると小さく、殿様の館として用いられたのでしょう。最寄駅は近鉄・美旗駅です。

柏原城(名張)

kasihara201301.jpg午前中、津での仕事が終わり、夜まで時間があったので大阪へ向かう途中の赤目口駅で途中下車して柏原城を見てきました。 

近鉄・赤目口駅から南側(赤目四十八滝方面)に少し行くと柏原という土地に出ます。ここに勝手神社があるのですが、柏原城の城主(滝野氏)が勧請したものです。勝手神社の北側に小さな道があり、100メートルほど上がると東側に水田が見え、水田の向こう側の丘の上に柏原城があります。水田の向こう側に城の案内板が建っていました。 

ここは天正伊賀の乱が終結を迎えた場所です。伊賀に攻め込んだ織田信長軍に対して、伊賀の土豪が最後の決戦地に選んだ場所。先日、行った織田方の滝川城から攻めた城です。織田軍3万に対し伊賀の土豪は1600人ほど。玉砕覚悟の戦いでしたが、最後に織田軍と伊賀勢の和議が成立し柏原城は開城されました。 

ネットで調べると城は藪だらけと書いてありましたが、最近、きれいに整備されたようで主郭まで簡単に登れ、土塁の中の木もきれいに切り取られ周囲の土塁や、当時から残る井戸もしっかり見ることができました。土塁に登ると堀切がありますが、高さは10メートル近く。この城を攻めるのは大変だったでしょうね。 

柏原城へ向かう水田の道には昨日の雪が積もっていましたが、見ると足跡がついていました。こんな田舎の山城を見に来る酔狂な人間が他にもいるんですね(笑)