午前中、津での仕事が終わり、夜まで時間があったので大阪へ向かう途中の赤目口駅で途中下車して柏原城を見てきました。
近鉄・赤目口駅から南側(赤目四十八滝方面)に少し行くと柏原という土地に出ます。ここに勝手神社があるのですが、柏原城の城主(滝野氏)が勧請したものです。勝手神社の北側に小さな道があり、100メートルほど上がると東側に水田が見え、水田の向こう側の丘の上に柏原城があります。水田の向こう側に城の案内板が建っていました。
ここは天正伊賀の乱が終結を迎えた場所です。伊賀に攻め込んだ織田信長軍に対して、伊賀の土豪が最後の決戦地に選んだ場所。先日、行った織田方の滝川城から攻めた城です。織田軍3万に対し伊賀の土豪は1600人ほど。玉砕覚悟の戦いでしたが、最後に織田軍と伊賀勢の和議が成立し柏原城は開城されました。
ネットで調べると城は藪だらけと書いてありましたが、最近、きれいに整備されたようで主郭まで簡単に登れ、土塁の中の木もきれいに切り取られ周囲の土塁や、当時から残る井戸もしっかり見ることができました。土塁に登ると堀切がありますが、高さは10メートル近く。この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
柏原城へ向かう水田の道には昨日の雪が積もっていましたが、見ると足跡がついていました。こんな田舎の山城を見に来る酔狂な人間が他にもいるんですね(笑)
カテゴリー: 城・山城
雪の滝川氏城(名張)
長久手古戦場
午前中に仕事が終わったので、以前から気になっていた長久手古戦場に出かけてきました。歴史で学んだ小牧・長久手の合戦の舞台です。
地下鉄東山線の終点「藤が丘駅」から愛知万博で有名になったリニモに乗り長久手古戦場駅へ。3つ目の駅が長久手古戦場駅。それにしてもすごい駅名をつけましたね。分かりやすくっていいんですが。
駅のすぐ近くに古戦場公園があります。ここが池田恒興や森長可が戦死した場所で、塚が残っています。公園内には郷土資料館があって小牧・長久手の戦いの展示があるのですが、展示を見ると戦は広範囲に行われていました。藤が丘駅からリニモ沿線が全部、戦場だったんですね。
長く陣がのびた秀吉軍は家康軍から攻撃を受け、各個撃破されてしまいました。第3隊の堀秀政だけは、いち早く丘の上に陣地を家康軍を蹴散らし、これが唯一の勝ち戦になりました。
桶狭間と同じで、当時のものは何も残っていませんが、歩くと実に起伏の多い土地だと分かります。少し高い丘などは、両軍どちらかの陣地で御旗山という家康が陣を置いた山に登ると長久手が一望できました。それにしても古戦場なので香桶や血の池公園などと物騒な地名も残っています。
阿保城(伊賀)
名張の企業へ専門家派遣。
少し早い目に出て近鉄青山町駅で下車しました。駅のすぐ近くを初線街道(奈良から伊勢を結ぶ街道)が走っており、昔は阿保宿がありました。阿保は「あほ」ではなく「あお」とよみます。青山町駅もできた当初は阿保駅という名前でした。
阿保宿には義左衛門の酒銘で有名な若戎酒造があります。”新酒あります”と店頭にあったので買おうと思ったら720mlは完売で一升瓶しか残っていませんでした。さすがに一升瓶をぶらさげて企業さんには行けないので断念。
この阿保宿を抜けたところに阿保城跡があります。住宅街からちょっと入った丘の上で、ちょっと分かりにくいところが入口。丘の上に登ると主郭が残っていました。虎口(城の入口)も明瞭で、主郭を取り囲む土塁は2m半ほどありました。
主郭の真ん中には「史跡 阿保頓宮跡」の碑が建っていました。頓宮とは斎宮へ向かう斎王が途中で宿泊した宮ですが、中世の城郭しか残っていませんね。住宅地のすぐ近くに主郭だけですが、よく城跡が残りました。
池の谷古墳(池の谷砦)
津の実家から国道23号線を伊勢方面(津)へ行くと垂水という場所があります。
垂水は津の中心市街を通らずに抜けることができるバイパス道路と合流するところで、いつも混んでいます。ここから南が丘方面に丘を登る道路があり、丘を登ったところにマルヤス南が丘店新鮮館というスーパーがあります。スーパーの後ろが高台になっていて今は住宅地になっていますが、ここにあったのが垂水城(北鷺城)。今は何も残っていません。
垂水城から少し行ったところに池の谷古墳という前方後円墳が住宅地のど真ん中にあるんですが、ここも高台の上にあります。古墳は見晴らしのよい所に作られましたので戦国時代はよく砦として使われました。この古墳が池の谷砦跡です。
垂水城は津近辺を支配していた長野氏の城で、南側の北畠と対立していました。この垂水城が最前線の城になります。池の谷砦は垂水城の出城か、北畠側が垂水城を攻めるために作った付城のようです。前方後円墳の円墳と方墳の間に堀切があると現地の案内板に書かれていましたが、ちょっと窪んでいるぐらいで、よく分かりませんね。
ただ眺めはめちゃくちゃよく、平清盛など伊勢平氏がよく利用していた安濃津の港がすぐ下に見えますし、伊勢神宮への街道も上から見下ろせます。南側を見ると伊勢中川あたりが見渡せ、先日、行った北畠の天花寺城もバッチリ見えますね。織田信長の伊勢攻めでは長野氏は信長側についてので、まさに垂水が両軍の最前線になりました。
宮山城址 三重県に残る小牧・長久手の合戦
先日、久居にある宮山城址へ出かけてきました。
敏太神社の裏手にある山城で、小牧・長久手の合戦の舞台。小牧・長久手の合戦というと愛知県の小牧、長久手だけが戦場と思っている人が多いのですが、三重県内もいろいろと戦場になっています。関ヶ原の合戦も同様で、前哨戦が津城で繰り広げられました。
宮山城を守っていたのは木造氏。北畠氏の一族だったんですが紆余曲折があって織田信長の伊勢攻め、つまり北畠攻めに参加しています。そんな経緯もあり本能寺の変のあとは織田信雄につかえていました。
宮山城は近くにある戸木(へき)城の北を防御するための城でした。小牧・長久手の合戦でこう着状態になったこともあり、秀吉は織田信雄の所領である伊勢攻めを行います。宮山城は蒲生氏郷によって攻められ落城しました。今度は戸木城を攻めるための付城になってしまいました。
戸木城は165号線をはさんだ反対側、現在の戸木小学校付近にあり、高台だった宮山城からはよく見えたでしょうね。宮山城址は敏太神社の裏手を登ると5分ほどで着きます。お稲荷さんがまつられていて、周りを土塁や空堀が囲んでいて、なかなか見応えがありますね。
奈良公園内にあるお城 西方院山城
冗談のような話ですが奈良公園の中にお城があります。
奈良公園には昔から何度も行っていますが、お城がよもやあるとは知りませんでした。少し前に奈良の城一覧を見ていたら奈良公園にあるのを発見。今日は朝から伊賀の企業へ行っていましたので関西本線での帰り、奈良駅で降りて城を見てきました。
場所は奈良ホテルの向かい側、瑜伽神社の裏手にあります。入口は奈良ホテルの駐車場なんですが、とんでもない場所で、調べて行かなければ絶対に分かりませんね。しかも主郭まで登らないといけないので、ちょっと大変です。でも見応えのあるお城で、二重になった空堀や土橋など見事に残っていますね。主郭からは興福寺の五重塔が見えます。奈良公園の一角なので主郭には鹿がいました。
このお城の名前は西方院山城(さいほういんざんじょう)。たった3日間という短命のお城でした。城が出来上がった3日間後に筒井氏が攻めてきて落城してしまいました。実は道路をはさんだ向かい側にある奈良ホテルにも昔、城があり、名前は鬼薗山城。遺構は何も残っていません。
天花寺城 三重の山城
近鉄中川駅から大阪に向けて出発すると川を渡った左側にこんもりとした森が見えてきます。この森は丘になっていて、ここが天花寺城跡。こんな所に山城があるって、全然知らなかったのですが、今、発売されている「三重の山城ベスト50を歩く」に出ていました。
現在でも名古屋、伊勢、大阪の分岐点になっている交通の要所ですので平安時代には既に城が作られていました。南北朝時代から伊勢国司であった北畠家が支配し、足利幕府の戦いでも天花寺城の名前が出てきます。
地名の由来となった天華寺が城のすぐそばにあり、天平時代に作られた伽藍がありましたが、織田信長の伊勢侵攻で焼けてしまいました。現在、天華寺は丘の上に移転しています。
道路の右手に見えているところが主郭のあるところで、藪の中に入ると堀切もしっかり残っていました。ずっと奥に進むと虎口もあり、なかなか見応えがあります。虎口というのは城の入口で、防御の要になるところです。と言っても藪の中にある単なる土の山なんですが(笑)写真を撮りましたが、単なる藪としか見えません。やっぱり現地で見るに限ります。
現在、道路になっているところも郭があったのですが、すっかり破壊されてしまいました。丘上からの眺めはよく、久居や伊勢湾がよく見えます。反対側は山が連なり、北畠の本拠地である多気につながりますので織田信長との戦いでは最前線になりました。
都会のど真ん中に残る末森城
お釈迦さんの舎利が奉納されている日泰寺のすぐ近くに小高い山があり、山上にあるのが城山八幡宮。ここには前から行きたかった末森城跡があります。
織田信長のお父さん、織田信秀が築城した末森城。三河の松平や駿河の今川に備えた城で、織田信秀は古渡城から移ってきました。古渡城は現在の東別院にあります。やがて織田信秀はこの末森城で亡くなりました。
城山八幡宮がある場所が本丸で、周りには空堀が掘られていましたが、これが見事に残っています。空堀の底まで降りて撮影した写真ですが、単なる道にしか見えませんね(笑)。けっこう深い堀になっているところもあり本丸をぐるっと囲んでいます。それにしても都会の真ん中によく戦国時代の遺構が残りましたね。
信秀が死んで、末森城の新しい城主になったのが信長の弟である信行。母の土田御前がウツケと呼ばれる信長よりも品行方正な信行を溺愛していたこともあり、家臣が二手に分かれて家督争いに発展。やがて稲生が原の戦いが起き、信長は信行派だった柴田勝家らと戦い勝利をおさめます。桶狭間の戦いが起きる4年前のことです。
前田利家の生誕地(荒子城)
午後から「あおなみ線」沿いの企業さんに専門家派遣で行く用事がありましたので、午前中に前から気になっていた荒子へ行ってきました。
前田利家が生まれた荒子城。城といっても戦国時代ですので堀で囲まれた館のようなもの。現在、城跡はなにも残っておらず、天満天神宮になっています。この天満天神宮は荒子城の中にありました。今は住宅街に囲まれた中にポツンと残っています。
すぐ近くにある近鉄・伏屋駅に前田という地名があり、こちらに前田城がありました。この前田城で前田利家が生まれたという説もありますが、中心になったのは荒子城でした。信長の清須城からもそれほど離れておらず、そばを流れている川沿いに清須まで移動することもできました。当時、海岸線がずっと内陸部でしたので、荒子城は海を守る南の拠点にもなっていたのでしょう。
前田利家は信長の命で越前(石川県)に移り、城を守っていた前田利長も越前に移ることtなり荒子城は廃城になりました。尾張荒子から前田利家に従って移住した人が住んだことから金沢に尾張町ができています。