木津砦

木津砦
木津砦

織田軍が天正4年(1576年)5月3日に木津砦に攻撃をかけます。第一陣が三好康長・根来衆・和泉衆、第二陣が塙直政・大和衆・山城衆でした。ところが石山本願寺の楼の岸砦から約1万が援軍にかけつけ、最終的に織田軍は崩壊し、織田方の天王寺砦が包囲される事態になります。

木津砦があった場所が今宮駅近くの出城と言う場所。今も地名が残っていてニトリの横に出城公園があります。このあたりに砦がありましたが遺構は何も残っていません。微高地になっているので、周りは沼かなにかになっていたのでしょう。石山本願寺や楼の岸砦は上町台地上にありましたが、木津砦は台地を降りた西側にあります。真田丸みたいな出城だったんでしょう。少し歩くとOMO7大阪(星野リゾート)があります。

楼の岸砦

天満橋にある「エルおおさか」に大阪府の総合就業支援拠点「OSAKAしごとフィールド」があり、昨日は「働く女性・働きたい女性のための相談会」が開催されていました。副業型創業の相談も多いということで大阪府よろず支援拠点から出張して相談しておりました。

楼の岸砦
楼の岸砦

「エルおおさか」は上町台地の端にあり、目の前の大川には八軒家浜船着場がありました。江戸時代、京都の寺田との間に船運が結ばれていました。戦国時代にエルおおさかの横の高台になった所にあったのが楼の岸砦です。そう石山本願寺の砦です。

天正4年(1576年)5月3日に織田信長軍が木津砦(今宮駅ちかくにありました)を攻撃したところ、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、雑賀衆が数千丁の鉄砲で銃撃を加えます。大和守護だった塙直政などが討死します。この後の大和守護を巡って松永久秀と筒井順慶が争うことになります。塙直政を打ち破った一揆勢はそのまま明智光秀らが守っていた天王寺砦に襲い掛かり、落城寸前のところに織田信長が駆けつけて救いますが信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷をおうことになります。

楼の岸砦でも激戦となり蜂須賀小六が活躍いています。砦跡はなにもなく坐摩神社行宮近くにあったと伝わっています。ちょうど工事中でした。

高木大山付城

高木大山付城
高木大山付城

三木ホースランドという乗馬教室などができる大きな公園があるのですが、ここの入口近くにあるのが高木大山付城です。ここも織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで、誰が守っていたかは分かっていません。道路のすぐそばにあり、土塁などは長年の風化で低くなっていますが、形は分かります。主郭の虎口が食い違いになっていたり、けっこう技巧的な縄張りになっています。

シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城
シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城跡も小林八幡神社付城や明石道峯構付城と同様に天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つのようです。誰が守っていたかはわかっていません。3つの郭から構成され郭を囲む土塁などが残っていました。案内板もあって分かりやすいし虎口も残っていました。

三木城攻めでは3回に分けて付城が造られましたがシクノ谷峯構付城跡は第二期に築かれた陣城群の一つになります。

明石道峯構付城

明石道峯構付城
明石道峯構付城

明石道が直下を通過する尾根の先端にあるのが、明石道峯構付城です。パターゴルフ場があって、ゴルフ場の横の山道を登っていくと3つの郭で構成された城に入れます。織田信忠が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたのかは不明です。東に広大な副郭があるので、ここに兵が駐屯したのでしょう。

主郭は土塁が全部をとりかこんでいて、虎口は東西にあり、西側の虎口には櫓台もありました。ここも「三木城跡及び付城跡・土塁」として国指定史跡となっていて、説明版などが充実しています。

小林八幡神社付城

城攻めでは拠点となる付城(陣城)を造るのがパターンですが、信長、秀吉は大々的な付城を造っていました。よく残っているのが三木です。天正6年(1578)~天正8年(1580)三木城主・別所長治と秀吉が戦った三木合戦です。三木城を取り囲むように約40ヵ所築かれたようですが、半分の20ヵ所が現存しています。こんなに残っているのは珍しいですね。

小林八幡神社付城
小林八幡神社付城

ということで新開地から神戸電鉄に乗り込んで志染駅へ。ここからちょっと行ったところにあるのが小林八幡神社付城です。主郭になっていたところが社殿になっていて、土塁はさすがに低くなったいますが、きちんと残っています。少し高くなっているところがあり、ここが櫓台だったようです。4つの郭で構成されていました。正7年(1579)4月に織田信忠の軍勢が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたかは伝わっていません。

鈴山城

五位堂駅から馬見丘陵公園へ向かう時にニュータウンの中を通る遊歩道が便利なんですが、この遊歩道に入ってすぐの所にあるのが鈴山城です。アクセスしやすいので3、4回は来ていますね。遊歩道を作る時に発掘調査され南北朝時代に造られたようで、城主などは伝わっていません。すぐ近くには瓦城があります。

鈴山城
鈴山城

遊歩道には案内も何もないので、調べてから行かないと入口はまず分かりません(笑)。遊歩道から城跡に入ると高さが4~5mほどある堀が迎えてくれます。ずっと堀が続いていいますが土橋から郭内に入ることができ、井戸などを見ることができます。北西隅には古墳を利用した櫓台状の高まりもあります。

取出山砦

鳥羽城の向かいにある日和山にあったのが取手山砦。久しぶりに登ったら、きれいに整備されていました。津波対策で市街地からすぐに避難できるように整備されたようです。鳥羽は国人だった橘氏が代々、住んでいて伊勢国司である北畠氏に属していました。鳥羽殿と呼ばれていたようで、出入りする船から関銭を徴収していました。織田信長が伊勢へ侵攻すると、北畠陣営だった橘氏は織田に味方した九鬼嘉隆に攻められて降伏します。

取出山砦
取出山砦

取手山砦、以前の郭はうっそうとした藪でしたが、きれいに整備されていました。堀切には橋が渡されていました。

鳥羽城

鳥羽城
鳥羽城

鳥羽城は九鬼水軍の城です。大手門が海に向かって作られ、さすがは水軍の城です。大手門は、鳥羽水族館になっていて本丸跡から鳥羽湾が一望できます。長らく鳥羽小学校や幼稚園などに使われていたので遺構は残っていませんが郭跡と石垣の一部が残っています。

鳥羽城・城主で有名なのが九鬼嘉隆で、織田信長や豊臣秀吉の水軍として活躍。関ヶ原の合戦では西軍についたので鳥羽湾の答志島で自刃しました。息子は東軍についていたので九鬼氏は存続しましたが、後継者争いが起き、幕府に志摩を召し上げられて摂津国三田藩と丹波国綾部藩に分かれました。

桜生城

桜生城
桜生城

銅鐸博物館から山手の道を進むと桜生(さくらばさま)城があり、近くを中山道(東山道)が走っています。城主は澤氏で現在も後裔が居住されています。澤氏についてはよく分かっていませんが秀吉の朝鮮出兵に従軍していたようです。

桜生城は3つの郭で構成されていて郭を取り囲む土塁や堀などが見事に残っています。近くに日吉神社がありますが、こちらにも堀跡などが残っていました。往時はかなり広かったようで南に「矢場」、南西に「下屋敷」という地名も残っています。