歓喜寺城は一城別郭(一つの城として運用しながら隣の山にも城がある)になっていて、もう一つ城があります。
歓喜寺城へ向かう途中に「佛の穴50m」という手書き看板があり、この看板の裏側にある山道を登ると歓喜寺城の隣山に登ることができます。頂上付近に郭がありますが、歓喜寺城がけっこう技巧的な城なのに対して、あんまり手は入れていない感じです。
堀切はありますが切岸などは甘いですね。眺めがよいので監視用の城だったのかなあ。
歓喜寺城は一城別郭(一つの城として運用しながら隣の山にも城がある)になっていて、もう一つ城があります。
歓喜寺城へ向かう途中に「佛の穴50m」という手書き看板があり、この看板の裏側にある山道を登ると歓喜寺城の隣山に登ることができます。頂上付近に郭がありますが、歓喜寺城がけっこう技巧的な城なのに対して、あんまり手は入れていない感じです。
堀切はありますが切岸などは甘いですね。眺めがよいので監視用の城だったのかなあ。
織田信長が浅井長政と対峙していた時に、浅井長政側の高島郡の攻略をすすめます。そのために明智光秀に作らせたのが歓喜寺城。天台系寺院である歓喜寺があった所で僧坊跡に三カ所、思い切り深い堀切を使って城郭化されています。
高島に攻め込むための兵員の駐屯地と圧倒的な最新の築城技術を国衆に見せて信長側になびかせるためでした。大手道に沿って石垣の壁になっていて、近江の国衆は驚いたでしょうね。すごいのは堀切で、ようこんなに掘りましたなあ、というぐらいの土木量です。
清水山城は三方の尾根上に郭が続く広大な山城ですが、それ以上にすごいのが麓の高台にある屋敷跡。
いわゆる根小屋なんですが、これがめちゃくちゃ規模が大きく谷を挟んで西屋敷と東屋敷があります。大きさは南北約350m×東西約550mで東京ドームでいうと4個分以上あります。歩きましたが広いのなんの!さすがに疲れます。
一辺を20mほどの土塁で区切られた方形の区画がたくさん残っています。西屋敷には「オウテ」という地名が残っており、道を登っていくと主郭にたどりつきますので大手道だったのでしょう。反対に進むと土塁に挟まれた狭い道となり「ダイモン」という地名が残っているので、ここに大門があったようです。この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
近江高島にある清水山城、信長公記に登場する「木戸の城」がこの清水山城と考えられています。大きな城で主郭までたどりつくのが大変。途中でギャーギャー騒いでいる声が聞こえ、何事かと思ったら野生の猿が走り回っていました。ようやく主郭までたどりつくと琶湖の竹生島や対岸の長浜も見られます。
主郭の周りには畝状竪堀が何本も掘られており、高島は浅井・朝倉と手を組んでいたので織田信長と対峙した時に整備されたのかもしれません。高島を攻めたのは明智光秀です。
近江源氏である佐々木氏は六角、京極に分かれますが他に佐々木高島がいます。この佐々木高島がさらに別れ「高島七頭(なながしら)」と呼ばれる七家に分かれます。この七家の筆頭が越中氏で清水山城はこの越中氏の城といわれています。
日爪城の麓にあるのが南谷遺跡。いくつもの段になった平坦地があり「ねごや」という地名がついています。
■根小屋とは
根小屋とは”山の根にある寝るための小屋”という意味で全国各地に「根小屋」という地名があります。山城の麓にあることが多く、城主や家臣の平時の館や戦時に住民が逃げ込む場所でもありました。城主は民衆の安全を保障しないといけないために避難地を用意していました。
日爪城の根小屋では土塁や堀がありますが、石仏が出土していますので寺坊の可能性もあります。明智光秀の日爪城攻めで焼け落ちたのでしょう。
和田谷の入口にあるのが殿山。階段があってずっと登ると展望台があり、ここが殿山城の主郭跡になります。すぐ横が足利義昭を匿った公方屋敷跡。
主郭近くに郭跡がいくつかあるのですが、公園として整備されているので往時の姿はありません。大体、階段で楽に登れるので城じゃないですねえ。
ということで尾根に出てみたら、これがピンポン!2つの堀切で見事に尾根筋を遮断していました。けっこう深い堀切で、こっちが往時の防衛ライン。帰りに「殿山城跡」の矢印が道に倒れているのを発見。堀切の方を指しており、ちゃんと案内していたんですねえ。和田谷、おそるべし!
和田支城1があるということは和田支城2もあります。
こちらは30mほどの単郭が中心で、和田支城1の北側にあります。城からは和田支城1も和田城も見え、城塞群で和田谷を防衛していたことがよく分かります。土塁も高く、堀切も見事。
ほとんどの城跡は案内も何もなく、ひたすら事前調査し、このあたりと辺りをつけて現地で山道などを探すしかないのですが和田谷はしっかりと案内板があり、城巡りするには最適の地域です。秋でも十分に回れるのでオススメです!
和田城の川を挟んだ対岸にあるのが和田支城1。和田には和田城を中心に谷全体の各地に城が造られ谷全体で防衛する形になっています。朝倉氏の一乗谷や同志社大学田辺キャンパス近くの普賢寺谷のようです。
和田支城1の主郭は東西25m、南北35mほで土塁もしっかり残っています。副郭や帯郭もしっかり残っています。住宅地から神社へ登る山道があり、登っていくと、この神社がある場所が主郭になっています。小さな城の案内などなく自分で調べるしかないのですが、和田はきちんと案内板が整備されています。
甲賀の和田の里があり、一番奥にあるのが和田城です。
和田氏のお城で和田氏で有名なのが和田惟正。覚慶(足利義昭)を興福寺から助けし、和田の地に匿います。上洛に向けて織田信長と交渉するなど、いろいろと骨をおりました。和田惟正はキリシタンを保護したことでも有名でルイス・フロイスと織田信長を仲介したのも和田惟正です。
やがて上洛した足利義昭によって池田勝正、伊丹親興と共に摂津守護の1人となり「摂津三守護」と呼ばれます。幕臣でしたので織田信長と関係が悪化することもありましたが、最終的には織田信長の家臣となります。三好三人衆の一人、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と一緒に戦いまずが、当時は池田氏家臣だった荒木村重に敗れ、討死します。
和田城は複数の郭で構成されており、虎口から入ると主郭へ入ることができますが、高い土塁で囲まれています。
昨日の大河ドラマ「麒麟がくる」では織田信長に報じられた足利義昭が上洛していました。足利家では家督相続者以外の子供は仏門に入るため、足利義昭は覚慶という名前で興福寺の一乗院に入っています。第13代将軍・足利義輝(向井理が演じてました)が三好三人衆に殺されてしまい、覚慶は興福寺に監禁されましたが、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出、向かったのが甲賀です。
甲賀に和田という里があり、和田惟政という幕臣の領地でした。興福寺から覚慶を救い出し和田の里に匿います。その匿った場所が和田公方屋敷跡として残っています。裏側に城があり、対面にも城が整備され防御は完璧でした。
■2年前に幻の上洛計画があった
大河ドラマでは光秀が信長に会っていますが、それ以前に和田惟政が信長に上洛をすすめていました。この時は六角義賢、織田信長、浅井長政、斎藤龍興に話をつけます。信長はこの時に上洛しようとしますが、話をつけたはずの齋藤龍興に阻まれて撤退。結局、六角と斎藤が足利義昭を見捨てることになり、足利義昭は最終的に北陸へ行くことになります。織田信長の上洛2年前に幻の上洛計画があったことは一般に知られていません。