分部神社(大溝城)

分部神社
分部神社

大溝城のすぐ横にあるのが分部神社。

津田信澄(信長の甥っ子)が本能寺の変の後に殺された後、城主が丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく替わります。大坂の陣が終わり元和偃武となって名実ともに江戸時代がスタートした元和5年(1619年)に分部光信が大溝城に入ります。このあと、分部氏は11代続き明治維新となります。

■津の分部氏
分部氏の本貫は伊勢国安濃郡分部村。織田信長が津を支配していた長野氏を攻めてきた時に兄の細野藤敦は安濃津城で徹底抗戦しますが、弟の分部光嘉は和睦派で信長の弟である織田信包に長野氏の養子に入ることを画策します。伊勢侵攻時代の信長はまだ兵力は十分ではなかったので基本戦略はM&Aで、織田信孝は神戸氏の養子、織田信雄は北畠氏の養子、そして織田信包は長野氏の養子となります。

織田信包が津城を造り天守閣を建てますが、出城として造ったのが伊勢上野城(津北部の安濃にあります)で分部光嘉はここをまかされます。関ケ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いでは津城城主である富田信高とともに奮戦しますが兵力差もあり和睦。関ケ原の戦いの後、この功によって2万国に加増されます。2代藩主・分部光信の時代、伊勢上野が紀州徳川家領になったため、近江高島(大溝城)へ移されます。

大溝城

大溝城
大溝城

京都橘大学の講座は午前中だけだったので、山科駅から湖西線に乗って近江高島駅へ。琵琶湖の北西にあります。 

駅のすぐ近くに大溝城があります。織田信長が高島郡を支配すると、甥の津田信澄に高島郡をまかせます。琵琶湖沿いに大溝城が作られましたが、縄張り(設計)は明智光秀が担当しました。天守台跡の石垣だけが残っています。 

■琵琶湖の城ネットワーク 
織田信長が琵琶湖の水運を支配するために琵琶湖の周りを平行四辺形になるように4城ネットワークを作りました。中心になるのは安土城で秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、そして大溝城で構成されています。それぞれの城から別の城の状況が見え、何かあれば軍船ですぐに駆け付けられるようになっていました。 

■津田信澄 
お父さんは信長の弟である織田信行。信長に謀反を起こしたため暗殺されます。柴田勝家は最初、信行派でしたが信長の乗り換えます。 

津田信澄は信長に仕え京都御馬揃えに参加しています。信長の命令で明智光秀の娘と結婚したことから本能寺の変の後、大坂城で長曾我部攻めの準備をしていた津田信澄は織田信孝と丹羽長秀に疑われ討ち取られてしまいました。 

岩﨑山城(北ノ庄城)

岩﨑山城(北ノ庄城)

八幡山城の「北の丸」脇から山道が出ていて、これが尾根沿いに百々神社まで行くことができる縦走路。途中に岩﨑山城(北ノ庄城)があります。

岩﨑山城は佐々木氏の支城ということでしたが発掘調査の結果、大規模な堀切や虎口が見つかり、どうも八幡山城と有機的な結びつきがあったようです。秀次の時代に八幡山城の北側を守るために佐々木氏の城に手を入れて有効活用したのでしょう。

縦走路は土橋の上を渡り、北側の土塁上に続いています。南側に郭が続いているのですが、これが藪だらけになっていて郭に入るのがなかなか大変。虎口などがあるはずですが、そこまでたどりつけませんでした。東側の石垣がある平虎口は見られました。岩﨑山城で有名なのが七つ池といわれる窪みで、水を確保するためのものだったのでしょうか、これは縦走路近くだったので見られました。

岩﨑山城から麓の北ノ庄神社に降りる道があったので、山を降り始めましたが誰も通らないため途中から藪と蜘蛛の巣だらけに。とりあえず道らしきところを通って麓へたどりつくと神社から少し離れたところへ到着(笑)。ハードな山城シーズンには、まだ早すぎたようです。

近江八幡山城

近江八幡山城

八幡山城ですが、なんてたってロープウェイ(近江鉄道)があるのがいいですねえ。片道4分(490円)乗車するだけで苦労せずに山城に到達できます。山城は好きですが、別に登山は趣味じゃないので山城まで楽に行ければ、それにこしたことはありません。ただそんな山城は岐阜城と松山城ぐらいしかなく、せっせと藪漕ぎしながら山道を登ることになります。

八幡山城を作ったのは秀吉で、秀次を入城させますが秀次が高野山で切腹した後に聚楽第とともに廃城となりました。信長が安土城を造った時に中山道より琵琶湖側に入った脇街道を整備し、安土と京都を結びました。近江八幡は安土に代わって、この脇街道や琵琶湖の水運など物流をおさえる拠点として造られます。脇街道は江戸時代に朝鮮通信使が通る道となったので朝鮮人街道とも呼ばれています。

八幡山城本丸跡は瑞龍寺となっていますが、石垣はそのまま残っていて枡形虎口などが確認できます。北の丸からは安土城、観音寺城がよく見え、西の丸からは琵琶湖が一望できました。ただ西の丸から出丸まで行こうと思ったら通行止めになっていました。

豊臣秀次館跡

豊臣秀次館跡

近江八幡の城下町を整備したのが豊臣秀次です。秀吉の姉の子で後継者がいなかった秀吉の養子となります。

本能寺の変で織田信長が亡くなり、その後の混乱で安土城が燃えてしまいました。ルイス・フロイトによると犯人は織田信雄が濃厚のようです。近江を支配することになった17歳の豊臣秀次は八幡山城を築き城下町を整備します。すぐ隣の安土城下の民衆を移し、楽市楽座を開設。琵琶湖がすぐ横ですので安土城と同様に水運を重視します。もっとも秀次についた宿老たちが優秀だったのでしょう。

八幡山城は詰の城で、山麓に居館が作られました。場所は市立図書館の裏手で八幡公園の一番西にある階段をひたすら登るとたどりつくことができます。ところが観光案内にも載っておらず看板もありません。というわけで誰もいません(笑)。

八幡公園も含め、平坦地の段が階段の両側に続いていますが、これが家臣団屋敷で、ところどころに石垣が残っています。一番上まで登ると石垣の壁があらわれ、これが秀次館跡。発掘調査で秀次が使っていた沢瀉紋(おもだかもん)が入った金箔瓦が発見されて秀次館跡と特定されました。なんで観光名所になっていないんでしょうね。

長光寺城(瓶割城)

長光寺城(瓶割城)

ようやく山城シーズンが到来しました。

ガチャコン(近江鉄道)に乗って武佐駅へ。駅から中山道の西宿を抜け工業団地の脇を通ると瓶割山の麓につきます。ここから山道に分け入って頂上まで登ると長光寺城があります。日吉神社裏から登るのが定番のようですが、工業団地のすぐ近くに案内版があったので、こちらから登りました。

広い主郭以外に4つほどの郭があり、主郭からは近江八幡城と琵琶湖を見ることができます。安土城もすぐ近くにあります。主郭の横には石垣の一部が残っていました。おそらく勝家の時代のものでしょう。

長光寺城はもともとは鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと言われていますが、織田信長の上洛にあわせ、1570年に長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。八風街道と中山道をおさえる城でしたので京都への路を確保する狙いがありました。

■瓶割城
信長に敵対する佐々木氏(六角氏)が攻めてきた時、柴田勝家は籠城して耐えましたが、味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割り背水の陣で討って出ました。これが「瓶割り柴田」の異名となりますが、どうも伝説のようですね。長光寺城は別名、瓶割城と呼ばれています。

近江 古城山城

古城山城
小堤城山城の頂上から尾根へ降りる道があります。道といっても、ほぼ崖になっていますので鎖がついていて昇り降りができるようになっています。
この尾根づたいの道をずっと500メートルほど行くと古城山城に着きます。名前の通り小堤城山城より先に出来た山城のようです。六角氏が築いて家臣の馬淵氏が守ったようですが詳細は不明です。
小堤城山城ができてからは出城扱いだったのでしょう。このあたりにあった岩蔵城もしくは弥勒寺城のようです。案内板には岩倉城となっていました。大きな土塁が巡っていました。頂上は周りが林なので眺望は楽しめません。

近江 小堤城山城

小堤城山城
野洲市に小堤城山城があります。山城では珍しく登山道が整備され、おまけに案内板も出ている!!
藪もなく、切岸を直登しなくても、道に沿って登れる山城です。楽ですな~あ!登山道の入口に尾根コースと曲輪コースがあり、迷わず曲輪コースを選択。大手道の両側に段曲輪が次々に並ぶ、なかなか壮観な山城です。雰囲気は安土城の大手道に似ています。けっこう大きな山城で堀切も巨大でした。曲輪には石垣が残っていて、虎口はきちんと折られ横矢がかかるようになっています。
小堤城山城を築城したのは六角氏の一族である永原氏と言われています。六角氏は近江源氏で鎌倉時代は南近江の守護でした。北近江の守護は京極氏でしたが浅井氏に台頭されます。浅井長政の小谷城に京極丸がありますが、ここで守護を遇していたようです。織田信長が清州城で守護の斯波氏を遇したのと同じですね。
六角氏は織田信長の上洛時に戦い破れ、拠点としていた観音寺城を捨て甲賀に逃れます。小堤城山城も織田方のものになってから改変されたかもしれません。

星ケ崎城(近江)

星ケ崎城(近江)
中山道の鏡宿を見下ろす鏡山の北端の支峰に築かれているのが星ケ崎城。
伝承では室町時代中頃に鏡氏(佐々木源氏)によって築城された山城で、常に暮らしていた館が麓の井上館で、こちらは詰城の模様。承久の変で鏡氏が滅んでからは六角氏が城主となったようです。織田信長が足利義昭の上洛で近江に攻め入った時に、六角氏が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたうちの一つという説もあります。
城はよく整備されていて主郭には石垣が残っていました山城に石垣があるのは珍しく、六角氏の時代のものでしょう。また主郭には「星ケ丘城跡」という石碑や説明版までありました。こんな山城ばっかりだと、どこが主郭跡か藪の中を探し回らなくてすむので楽なんですが。
頂上からは眺めがよく琵琶湖や新幹線が一望できます。近江八幡城などもよく見えます。

今も子孫が住む井上館(鏡城)

井上館(鏡城)
義経元服の地は鏡の宿場町にあり、領有していたのは近江源氏佐々木氏の一族である鏡氏です。
鏡の宿にあるのが井上館(鏡城)で、井上氏は鏡氏の支流にあたり、現在も城内に子孫の方が住んでいます。犬山城の成瀬家のようなものですね。近くに星ケ崎城があり、詰城が星ケ崎城で、こちらが日頃の屋敷跡だったのでしょう。
個人宅なので周りから眺めましたが、大きな単郭になっていて、高さ3~6mほどの分厚い土塁が周囲を巡っています。土塁の前には水堀と空堀があり、防御は完璧。門があった虎口の遺構もよく残っています。井上館の入口の立て札には鎌倉期と書かれていて、当時の武家屋敷(単郭の城)が残る貴重な遺構です。