大原城

大原城

大原城

甲賀駅の近くにある城跡で子孫が今も住んでいます。とは言いながら屋敷などは現代風で屋敷を取り囲む土塁や堀跡がそのまま残っています。

もともとは大原数馬が城主で大原氏は甲賀53家の一つになります。大原氏は今も健在で城跡を居宅しており中世から数百年も城を守り続けています。大原家では忍術書「万川集海」を伝えており、大原数馬らが江戸幕府に献上しました。いわゆる忍術技術書で、伊賀・甲賀で一子相伝とされた忍書からの抜粋を体系的に集大成したものです。

水蜘蛛はでてきますが手裏剣は登場しません。

補陀楽寺城跡(甲賀)

補陀楽寺城跡

補陀楽寺城跡

JR草津線に乗っていると甲賀駅に停車する手前に寺が見えて敷地内に土塁のようなものが見えます。前から気になっていたのでのぞいてきました。補陀楽寺はもともとは近隣にあったのが火災で現在地に移ってきたため、その前に城があったようですが、城に関しては皆目わかっていません。

東西南北を土塁で囲まれていましたが今は北側と東側の2ケ所に残っています。発掘調査の結果では甲賀に逃れた六角氏と織田信長が戦っている頃の遺物が出ていますが、はっきりしたことは分かりません。近くには杣街道(古代の東海道)が通り、JRの線路の反対側には市場陣山城があります。

高野瀬城

高野瀬城

佐々木六角氏に仕えた高野瀬氏の城が高野瀬城です。高野瀬氏は愛智氏の分家にあたり、愛智氏の本貫は尾張国愛智郡で愛智義成から始まります。義成のお父さん(義円)は源義経の兄になります。(頼朝とはお母さんが違います)義成のお母さんが常磐御前で母から愛智郡の所領を受け継いだようです。「鎌倉殿の13人」ではブラック義経にそそのかされた義円が墨俣川で討死にするシーンがでてきます。

■高野瀬城
愛智氏の分家が高野瀬へ移り、高野瀬氏を名乗ります。高野瀬城は近江鉄道・豊郷駅の近くにあり、現在は古河オートモーティブパーツの豊郷工場になっていますが一部だけ土塁が残っています。高野瀬隆重が佐々木六角氏の命令で肥田城を築きますが高野瀬城はそのまま使われたようです。この辺りは北近江の浅井長政と南近江の六角承禎の支配の拮抗する境の城でした。

ところが高野瀬氏が浅井長政へ寝返えり、怒った六角承禎が肥田城の水攻めをしますが失敗。織田信長と浅井長政が対立した時には織田方につきました。柴田勝家に仕え、越前出兵で討ち死にしたようです。

肥田城 水攻めの堤跡

有名な水攻めといえば秀吉による備中松山城、「のぼうの城」の忍城がありますが、他にも紀伊の太田城、近江では肥田城が水攻めになっています。肥田城は1503(文亀3)年に六角氏の命をうけて高野瀬隆重が築城しました。

ところが隆重の息子は浅井氏に従うようになり六角氏と対立します。六角氏は1559(永禄2)年に肥田城の周りに堤を築き、宇曽川や愛知川から水を引き込んで水攻めします。ところが水没間際に2ケ所が決壊し水攻めは失敗します。

■水攻めの堤跡
高野瀬氏のあとは蜂屋頼隆が城主となり1583年頃に、長谷川秀一が城主になっていますが、その後の記録がないので、この頃に廃城になったようです。彦根藩が新田開発したため肥田城は土塁と堀の一部しか残っていません。

肥田城

六角氏が水攻めで造った堤の一部が田んぼに残っているという情報を見つけて行ってきました。田んぼの一部に2メートルほどの土塁が残っていました。この土塁がそのまま農道になっていて、条里制でまっすぐな田んぼに変な曲線の農道になっていました。水攻めの堤跡が残っているんですね。

    吉田城

    岡村本家

    目加田城の近くにあるのが吉田城。豊郷町マップに掲載されていたので、ついでに寄ってきました。吉田城の遺構はなく碑しか残っていませんでしたが、岩倉川と子増川を外堀としていたようです。吉田城跡は岡村本家という酒造メーカーになっています。

    鎌倉時代、佐々木秀義の子である厳秀を祖とする吉田氏の居城です。室町時代、将軍・足利義尚が近江国守護・佐々木六角氏と戦ったとき、吉田城主が将軍側についた記録が残っています。鈎の陣で甲賀忍者が活躍した戦いですねえ。時代がすすんで1571年(元亀2年)比叡山焼討の年に織田信長が吉田城を攻撃し、落城するとそのまま廃城になったようです。吉田氏は浅井方だったんですかねえ。

    吉田氏の子孫が京都へ移住し、高瀬川などを開いた角倉了以が子孫にあたるそうです。角倉家の本姓は吉田氏で佐々木氏の子孫を名乗っていました。江戸時代、吉田は井伊家の所領となり、安政元年(1854年)彦根藩主・井伊直弼に命じられて酒造りをはじめ岡村本家がスタート。金亀というお酒を造っています。

    那須城(豊郷町)

    那須与一

    那須与一と言っても知らない人が多いでしょう。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では屋島の戦いはナレーションで終了、いきなり壇ノ浦の戦いになってしまいました。ネットでは「ナレ屋島で香川県民、涙目」などの声があふれました。屋島の戦いとは屋島に集結した平家を義経が破った戦いで、逃げる平家の船から扇が出され、それを見事に矢で射抜いたのが那須与一です。源氏方、平家方のどちらからも賞賛をあびます。

    ■那須城
    那須与一の次男である那須(石畑)宗信が佐々木氏の旗頭として石畑と木部(野洲郡)の領地をおさめ、豊郷町小学校のすぐ近くに那須城を築きました。城跡は現在は八幡神社になっています。

    ■江州音頭
    盆踊りで有名な江州音頭の発祥地の一つが豊郷町です。本屋大賞をとった「成瀬は天下を取りにいく」では最終章が「ときめき江州音頭」になっています。

    青地城(草津)

    青地城

    小槻神社に接する山上に築かれたのが青地城で、平山城になっています。主郭には志津小学校が建てられたため土塁などは、ほとんど無くなっていました。ただ郭と郭の間の堀切は残っており土塁の高さは8mほど。土塁に上がってみると小さな郭も残されていました。他にも堀跡などがしっかり残っていました。

    青地城を造ったのは青地氏で古代、近江国栗太郡を支配した土豪・小槻氏が鎌倉時代初期に佐々木氏の養子となって青地姓を名乗ったという説と、もう少し後の応仁の乱以後に青地氏が誕生したと諸説あります。栗太郡にあった青地庄を本貫としました。佐々木氏は京極と六角に分かれますが、青地氏は織田信長の上洛時には六角氏につきました。六角氏が信長に敗れ没落すると織田信長に仕えることになります。また森可成らととも宇佐山城の守将もつとめ、浅井・朝倉連合軍との戦いとなった志賀の陣で討ち死にしています。

    青地氏は織田信孝・蒲生氏郷に仕えた後、前田氏に仕えて加賀藩士となった模様です。永正四年(1507)京を逐われた細川澄元が近江へ逃れた時に青地城に匿われていますので頼りがいがあったんでしょう。

    隠岐支城Ⅱ

    隠岐支城Ⅱ

    甲賀の隠岐城塞群もいよいよ最後です。隠岐支城Ⅱは隠岐支城Ⅰの目の前の丘上にあり、砂坂城の東側にあります。隠岐支城という名前がついていますが本当に隠岐氏の郎党の城かどうかは分かっていません。ただ隣接した形で密集していますから同族なのでしょう。隠岐城塞群は隠岐城、隠岐支城Ⅰ、隠岐支城Ⅱ、隠岐支城Ⅲ、隠岐支城Ⅳ、砂坂城、打越城からなっています。あとで調べるとすぐ近くに大佐治北城、神保城がありましたが、こちらは行けていません。

    ■隠岐支城Ⅱ
    城の北側から切岸(早い話が崖)をよじ登っていきます。郭まで到達すると郭と郭の間には見事な堀切になっていました。ようやく主郭まで登ると、なんと畑になっていました。後で南側にまわると分かったのですが城跡には小道が整備され住宅がいくつか建っていました。なんだ、苦労せずに城に到達できたんだあ。

    隠岐支城Ⅰ

    隠岐支城Ⅱ

    砂坂城の東側に隣接してあるのが隠岐支城Ⅰです。砂坂城を降りて東側にある丘を登っていくと、切岸がありました。直登して郭に入れましたが竹藪で全体は見通せません。いったん降りて山道を進んでいくと農道があり、ここから郭に簡単に登れました。郭に入って進んでいくろ土塁があり、先ほど登った郭の段が見えました。

    打越城

    打越城

    打越城は隠岐城館群の一つです。隠岐支城Ⅲの近くにある農道を進み、高台に登っていくと香蓮寺があります。このお寺の背後に打越城があります。城の北側を佐治川が流れ、尾根状の地形となった段丘上に城はあります。適当に竹藪が伐採されていて中は明瞭に見ることができます。郭の周りを土塁と空堀が巡っており、角の部分は90度にきれいに曲がっています。途中、二重堀になっているようなところもあり楽しめます。打越城からは隠岐城や隠岐城館群を見渡すことができます。