
和歌山でお仕事だったので、まずは和歌山城へ
和歌山へ行くたびに寄っているのでたぶん10回以上は来ています(笑)
和歌山城を造ったのは来年の大河ドラマ主人公である豊臣秀長です。秀吉の紀州征伐のあと、秀長が紀伊もおさめることなりました。そこで虎伏山に平山城を築き拠点としました。これが和歌山城です。江戸時代になると徳川家康の十男・頼宣が入り、紀州徳川家となります。
城のあちこちに秀長時代の野面積みの石垣が残っています。もう少し後の切込みハギと混在するのが楽しめます。

和歌山でお仕事だったので、まずは和歌山城へ
和歌山へ行くたびに寄っているのでたぶん10回以上は来ています(笑)
和歌山城を造ったのは来年の大河ドラマ主人公である豊臣秀長です。秀吉の紀州征伐のあと、秀長が紀伊もおさめることなりました。そこで虎伏山に平山城を築き拠点としました。これが和歌山城です。江戸時代になると徳川家康の十男・頼宣が入り、紀州徳川家となります。
城のあちこちに秀長時代の野面積みの石垣が残っています。もう少し後の切込みハギと混在するのが楽しめます。
湯浅へ来たなら養源寺へ

ここは広城を作った紀伊国守護・畠山氏の「畠山御殿」でした。畠山政長が紀伊国守護所を大野から広に移したとされています。この守護所を守る詰城が広城でした。御殿の海側には養源寺堀が造られ、今も残っています。江戸時代には紀州藩主の御殿地として利用されました。
畠山政長といえば応仁の乱の主人公の一人です。室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城の守護でしたが従兄の畠山義就と争い、これが応仁の乱へとつながっていきます。戦いは京都を中心に行われましたが、やがて地方に飛び火します。守護が畠山氏なので紀伊も戦乱にまきこまれましたが,根来寺や湯河氏(幕府の奉行衆で御坊の亀山城が居城)を味方につけた畠山政長方が有利に戦いを進めました。
せっかく湯浅まで来たので観光地には全然、寄らずに高城山を目指します。

前回は湯浅城と白樫城には行けたのですが広城には行けなかったのでリベンジです。広城は高城山頂上にあり西郭と東尾根にある東郭群からなっていますが、西郭はミカン畑になっていて遺構は皆無です。ただ湯浅の町や海が眺望できます。すごいのが東郭で、なんせ堀切がすごい、そのまま竪堀になって地上まで続いています。腰郭や櫓台もありましたが、すごいのが高土塁で、すさまじい高さになっています。
これだけの土木量なので、築城したのは紀伊の守護の畠山氏です。応永8年(1401年)に畠山基国によって築かれたと云われていますが、本当のところは分かりません。

傭兵集団だった雑賀衆の本拠地が雑賀城で、弥勒寺山城のすぐ近くにあります。
現在の城跡山公園で、階段を登ると妙見堂があり、ここから和歌浦を眺めることができます。尾根沿いに和歌山市側へ行ったところの頂上に少し開けたところがあり、ここが千畳敷と呼ばれ、雑賀城があったところです。城主は鈴木孫市で、織田信長の雑賀攻めでは本陣が置かれました。すぐそばに弥勒寺山城が見えるので織田軍を挟撃することが可能でした。
信長の後に台頭した秀吉は中央集権化を進めて土豪による在地支配を解体しようとします。サラリーマンのように転勤命令で全国に赴任しなければなりません。先祖伝来の土地と切り離されますので、対立することになり、秀吉の紀伊攻めで雑賀衆は壊滅してしまいます。
秀吉の朝鮮攻めで、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったものの、朝鮮軍に投降し日本軍と戦ったとされる沙也可(さやか)は雑賀(さいか)ではないかという説もあります。

和歌山市にある和歌浦といえば万葉集にも歌われた景勝地です。ここを本拠にしていたのが雑賀衆。
弥勒寺山城を中心に砦網を築き織田軍と対峙しました。雑賀衆は分裂しており、織田信長軍は根来衆と雑賀三組を先導役に佐久間信盛・秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治等で組織し攻撃します。荒木村重・別所長治は後に信長と敵対しますし、根来衆と雑賀衆は後に秀吉と敵対することになり、めまぐるしく歴史は動きます。
弥勒寺山城近くを流れる雑賀川の渡河を堀秀政勢が行いましたが、さんざんに攻撃され戦線は膠着状態となります。結局は和睦のような形で決着します。
弥勒寺山は秋葉山城という名前で呼ばれており、現在は公園になっています。眺めはよく和歌山市内が一望できます。よく見ると帯郭のようなものが頂上近くに残っていました。

秀吉と家康が直接対決したのが小牧・長久手の合戦。
小牧・長久手の戦いと聞くと、尾張の一部で戦いが行われたイメージですが、応仁の乱や関ケ原合戦と同様に日本中で戦いがあり、和泉、紀伊でも戦いが行われました。
そもそもは雑賀衆と根来衆が家康の誘いにのったことにあります。根来衆、雑賀衆、粉河衆の連合軍総数3万が岸和田城を攻めます。城を守っていたのが中村一氏と松浦宗清で、なんとか守り抜きます。秀吉は急ぎ大坂へ戻り、秀吉自身による雑賀攻めが始まります。根来衆は僧兵1万といわれましたが各地で敗れ、秀吉は紀州の根来寺まで到達します。根来寺では、ほとんど抵抗はなかったようですが、この時に火事になってしまい、一部を残して焼け落ちてしまいます。のちに徳川家が天下をとり紀州徳川家が伽藍を復興させます。
根来寺は寺といいながら堀の代わりになる深い川や一部では土塁も残っており、塔頭も高台に配置され、攻めにくい構造になっています。写真は雑賀攻めを焼け残った大塔で火縄銃の弾痕が残っています。

醤油発祥地で有名な和歌山県・湯浅でセミナーをしてきました。セミナーは夜だったので、当然、昼過ぎに到着し、まず目指すのは湯浅城です。
湯浅城を造ったのは湯浅宗重で、平清盛が熊野詣のため紀州に来た留守を狙って、京都で藤原信頼・源義朝が挙兵。この時に平清盛に付き従って上洛し勝利をおさめます。そのまま清盛に仕えましたが平家が滅んでからは源氏についています。湯浅党は紀南を中心に拡がり、広氏、得田氏、糸我氏、保田氏などは同族になります。
湯浅城ですが入口に鍵がかかっていて書かれている電話番号に電話をすると鍵を開けてもらえます。グリーンソサエティという地元のボランティア(今、蛍の復活をしているそうです)グループが管理しているそうで、本当は鍵をかけたくないが山火事などが心配でということでした。そのまま案内してもらいましたが、きれいに整備されていて郭跡など案内板や冠木門が作られていました。主郭跡からは湯浅の町と海などが一望できます。
グリーンソサエティによると1週間ぐらい前にも見学したい人が来られ案内したそうですが、めちゃくちゃ城に詳しい人で、よく山城に登っているということでした。帰りに入山記録を見ると私の前にあったのが滋賀県立大学・中井先生のお名前。「城館調査の手引き」など、たくさんの本を書かれている中世城郭の専門家ですから、そら詳しいはずです。隣に名前を記載させていただきました。