
織田信長が越前一向一揆を収束させたあと、柴田勝家の甥である柴田勝豊が築城しました。柴田勝豊はこの後、近江長浜城主になりますが、秀吉と勝家が戦うことになった時、勝家との不和から離反して秀吉側につきました。
丸岡城は平山城で現存12天守の一つですが福井地震で倒壊したため、1955年に部材を再利用して再建されたものです。再建ですが昔の天守の姿をそのまま残していますから、2階、3階にあがるにはハシゴのような階段を使う必要があります。崖のような階段で上から縄がぶら下がっているので、これを頼りに登ります。
■一筆啓上
丸岡城の城主はいろいろ変わりますが、有名なのが本多成重です。というより本多成重の父親である鬼作左(本多作左衛門重次)が有名で、家康に従った戦いで陣中から奥さんに「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙を送ります。このお仙が本多成重の幼名です。
鬼作左ですが勇猛は世間にとどろいていました。岡崎奉行になった時に法令を住民が守らないと部下から相談がありました。法令が書かれた高札を見ると漢字ばかりの文章になっています。さっそく全部かなで書き、最後に「この法律を守らぬと鬼作左が怒るぞ」と書いたら効果てきめんでした。