
登ってみるまで大屋根リングが二段になっているとは知りませんでした。屋根はけっこう広いので高所恐怖症でも大丈夫です。って端には寄りませんでした。
東、西の両ゲートちかくの大屋根リングは人も多いのですが、皆さん、ちょっと歩いて降りるようで、北、南は、けっこうすいています。一周2kmで万博の各パビリオンを一通り眺めるには最適です。
登ってみるまで大屋根リングが二段になっているとは知りませんでした。屋根はけっこう広いので高所恐怖症でも大丈夫です。って端には寄りませんでした。
東、西の両ゲートちかくの大屋根リングは人も多いのですが、皆さん、ちょっと歩いて降りるようで、北、南は、けっこうすいています。一周2kmで万博の各パビリオンを一通り眺めるには最適です。
万博では昼食時、リング内のレストランなどは、どこも一杯です。割と穴場なのは各国パビリオンの出口付近にショップや軽食コーナーがあるケースがあり、各国料理を食べられ出口から入れます。テイクアウトの店やキッチンカーも出ています。
行った日はリング外側にあるリングサイドマーケットプレイス東がすいていて、サイゴン食堂でバインミー(800円?)とビール(900円)で昼食でした。万博価格で高いのですが、そうせざるをえませんね。
万博前にポップアップショップとして出展する事業者の相談があったのですが出店料が高く、高い価格にしても赤字になりそうで、赤字は広告宣伝費だと事業者は割り切っていました。入場前に弁当などを持って入るのがリーズナブルです。雨さえ降らなければ食べる場所はたくさんあります。
水谷IT支援事務所は福利厚生が充実しており社員旅行で大阪万博に行ってきました。もっとも従業員はゼロです。
先週の天気予報では、どしゃぶりの雨だったのが昨日になると曇に変わっていたので、きっと来場者が少ないと予想し出かけましたが甘かった(笑)まずは中央線で夢洲駅へ、本町駅と弁天町駅とからドヤドヤと乗客が乗り込んできます。
万博入口でのWifiつながらない問題は各社のアンテナを積んだ車を並べることで解決していました(笑)。手荷物検査&金属検査は空港と全く同じですね。入場のQRコードはスクリーンショットをとるのが鉄則です。
■平日は学校関係が多い
会場は小学校~高校の学校関係の来場が多く混雑していました。そうか平日は学校の引率があるんですね。そうそう、さっき来場100万人を突破したと発表していました。
大屋根リングは見ごたえありますが、一周して会場を巡っても1万5千歩ほどしか歩いていないので割とコンパクトです。各国の展示があるんですが、関西は国立民族学博物館と天理参考館があるんで、そちらの方が充実しています。ただ建物はけっこう凝っていて楽しんできました。
馬堀駅から少し行くと高台になっていて見晴というところがあります。地名の通り見晴がいいですね。今は住宅街になっていますが奈良時代の山陰道のすぐそばでした。一角にあるのが観音芝廃寺跡です。発掘調査され金堂や講堂跡がみつかり礎石などが復元されています。できたのが7世紀後半なので壬申の乱の頃ですね。300年ほど続きましたが平安時代には廃寺になったようです。秦氏が関わっていたのではと言われています。
■保津川開削
秦氏というと秦河勝が有名で聖徳太子の国造りを助け、広隆寺を創建します。秦氏は土地開発が得意なデベロッパーで、桓武天皇の平安京増設などに貢献します。嵐山にある大堰川の堰(葛野大堰)の原型は秦氏が作ったものです。嵐山までの保津川を開削し船運を整備したのも秦氏と言われています。丹波側の拠点として観音芝寺を作ったのでしょう。
ブラタモリを見ていると鈴鹿サーキット→白子→津と移動し、最後は江戸橋の常夜灯が出ていました。
江戸橋は藩主が参勤交代で江戸に向かう時、家臣がここまで見送りにきたことから江戸橋と呼ばれています。すぐ近くに近鉄・江戸橋駅があり橋を渡った先が三重大学ですから、近鉄が止まるたびに学生がどわーっと渡る橋になっていて、私も大学へ行くときによく使っています。
■江戸橋・追分
橋のたもとにあるのが安永六年(1777年)の銘がある常夜灯で、ここが追分になっています。関宿で東海道と別れた伊勢別街道が江戸橋で伊勢街道と合流します。番組では分かりやすいように「京街道」と言ってましたが、本来の京街道はブラタモリでもやっていた大津の追分から京都をバイパスして大坂へ至る道が京街道です。東海道から分かれますので京から来た道には間違いはないんですが
次回は津城と松坂なんですなあ。
保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。
亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。
住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。
乙巳の変-645年に起きたクーデター。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変の後に行われる政治制度改革を大化の改新と呼んでいます。
中大兄皇子と中臣鎌足が談山で密談し、三韓(新羅、百済、高句麗)からの使者が来日した式典にあわせて蘇我入鹿を暗殺します。今なら皇居で外国の特命全権大使が信任状を捧呈している最中に総理大臣を暗殺するようなものです。蘇我蝦夷は甘樫丘にあった蘇我邸を燃やし自殺します。昔からいろいろ説がありますが、結果的に一番得をしたのが孝徳天皇(軽皇子)なので首謀者ではないかと言われています。
飛鳥寺の横に入鹿の首塚があり、邸宅があった甘樫丘が見えますが、暗殺されたのはここではなく飛鳥板蓋宮になります。切られた首が飛んできて埋めたという伝説があります。
日本史には全然、出てきませんが蝦夷には蘇我善徳(蘇我馬子の息子)という兄がいて飛鳥寺の初代寺司を務めていました。業績を書くとまずいのか日本書紀には一文しか出てこない謎の人物です。
豊浦宮(とゆらのみや)
甘樫丘からちょっと行ったところに豊浦宮跡がありますが、飛鳥寺などの華やかさがないためか観光客は誰もいません。592年に推古天皇が即位した宮殿で推古天皇の祖父である蘇我稲目の向原の家がありました。
■仏教伝来の地
百済から仏像が送られ蘇我稲目がこれを受け入れて、向原の家を寺として安置しました。反対したのが物部守屋です。昔、日本史で習いましたね。その後、疫病が流行ったため物部氏、中臣氏が国神のたたりだと騒ぎたて仏像を難波の堀江に流し、寺は焼きはらわれます。この仏像が拾われて長野に運ばれて善光寺におさめられました。ほんまかいな。
仏像を捨てた難波の堀江ですが大阪の大川もしくは阿弥陀池(和光寺)、向原寺の横にある池などの諸説があります。
推古天皇の一代前の崇峻天皇は桜井から談山神社へ行く途中にある倉橋に宮殿をおいていました。ところが崇峻天皇は蘇我氏と対立し、馬子に暗殺されてしまいます。蘇我氏は本拠地である飛鳥に天皇を囲いこもうとしたようで、豊浦宮-小墾田宮-飛鳥岡本宮と宮が作られます。ここから飛鳥時代がスタートします。乙巳の変の後、孝徳天皇は大和の地を離れて難波宮へ移りました。
丘の上にある酒船石遺跡から降りると2000年に見つかった亀形石造物があります。昔は整備されていなかったのですが、今はきれいになって整備のために一人300円を徴収していました。斉明天皇が道教を信仰していたので、祭祀が行われた遺構とみられています。
■四天王寺の方が古い?
四天王寺からよく似た亀形石造物があります。境内にある亀井堂で「経木(きょうぎ)流し」が行われていて、古本市などが行わるとよく見に行きます。亀をかたどった石の水槽と、そこから出た水を受ける同じく亀の形をした石の水槽からなっています。
2019年に調査が行われ古墳時代の石棺などに用いられた「竜山石」でした。飛鳥時代には使われていたようで、亀形石造物より古いのではという説もあります。そんなものが今も現役で使われているんですね。
乙巳の変後に孝徳天皇は難波京へ遷都し、四天王寺は都の南限でしたので祭祀に使われていたのでしょう。
斉明天皇がつくった大運河です。あまりに大規模で民衆の負担が大きかったことから狂った心の運河(狂心渠)と呼ばれました。日本書紀に石上(いそのかみ)山まで運河をつくり、石上山の石を舟200隻で運び宮殿の東の山に石垣を造ったとあります。この東の山が石垣が見つかった酒船石がある丘だと考えられています。
石上山は天理にある豊田山のことで頂上には豊田城があります。発掘調査で狂心渠の流路が判明しつあり、飛鳥では飛鳥坐神社の西側にある小川が運河跡になります。当時の運河の幅は10mで深さは1.3mありました。京都の運河・高瀬川の幅が8mなので、それよりも大きいですね。先日の歴史探偵では斉明天皇はインフラ整備を行ったと評価が高かったのですが実際はどうですかねえ。
■有間皇子
狂心渠といえば有間皇子です。有間皇子は孝徳天皇の皇子で「天上の虹」では主人公の讃良(持統天皇)が最初に恋心を抱く相手でした。この有間皇子が蘇我赤兄にはめられます。
「天皇の政治には三失がある。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ目、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ目、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ目である」ピンポン!狂心渠の話です。謀反計画がすすみますが蘇我赤兄が中大兄皇子に密告しアウト。19歳で殺されてしまいます。
万葉集には殺される前の「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る」が残されています。