関ヶ原戦跡踏破隊

島津

北勢地域にあるCTY(ケーブルネット)のインスタを見ていると関ケ原戦跡踏破隊の話題がのっていました。

関ケ原戦跡踏破隊は郷土の先人の偉業を体験する青少年教育プログラムで、鹿児島県日置市の小・中学生が中心になっています。たどるのは島津軍の退路です。

■島津の退き口
関ヶ原の戦いで結果的に戦場に取り残される形となった島津軍が、後ろへ下がらず家康軍の敵中突破をして退却します。島津の退き口(しまづののきぐち)として有名ですが、薩摩に帰り着くまで辛酸な撤退戦になりました。島津軍は伊勢街道を下り近江、奈良を経由して堺へたどりつきます。

この島津軍の退却コースを2日間で学ぶコースで、今年でなんと66回目で、さすがは郷中教育の薩摩です。

神津嶽

枚岡神社奥宮

昨日、登った神津嶽(かみつだけ)にあるのが、河内一の宮である枚岡神社の奥宮。とっても古く、神武天皇が東征で生駒山を攻め上ろうとしてナガスネヒコに敗れますが、国土の平定を祈願するために神津嶽に天児屋根命(あめのこやねのみこと)と奥さんである比売御神(ひめのかみ)を祀ったと言われています。

■奈良の春日神社の元

天児屋根命は中臣氏(藤原氏)の祖神で、アマテラスが岩戸に隠れた時に祝詞を唱えたことから言霊(ことだま)の神とも言われていて、なんで神武天皇が天児屋根命を祀るのかよう分かりません。

天児屋根命と比売御神が勧請されて春日神社ができましたので枚岡神社は元春日とも呼ばれています。神津嶽の周りには古代祭器跡がいろいろと見つかっていて昔から聖なる場所でしたので、中臣氏がそんな物語を作ったのでしょう。神津嶽は林に囲まれていますが、少し降りた枚岡展望台からは大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路島が一望できます。

一望できるということは登らないといけないということで枚岡神社から枚岡展望台を経由して40分ほど山道を登らないとたどりつけません。この時期、息も絶え絶えになります。

神津嶽

猫

珍しく奥さんと休みが一緒の日曜日。

朝早くなら涼しいから生駒山登ろうという提案が!「エーッ、暑い中、山登りなんかやだあ!」と言う度胸はありませんので、ヘイヘイと後ろをついていくことに。朝早いから、涼しいというのはガセネタで、しっかり暑かったです。

ゼイゼイ、汗をかきながら登っている隣をトレイルランイングの練習をしている連中が追い抜いていきます。元気ですなあ!ゼイゼイ言っているのを哀れんだのか、生駒山頂はあきらめて神津嶽まで登って帰ってきました。帰って飲むビールは最高ですねえ。

サンジの海賊レストラン

サンジの海賊レストラン

奥さんがレストランの抽選が当たったとかでUSJに出かけてきました。フランス料理ということで行ったのですが、「サンジの海賊レストラン」という完璧に女性をターゲットにしたショー&レストラン。コンセプトはサンジが作った料理を味わう海賊レストランで、司会はバルトロメオがまわしていました。そこにルフィやゾロ、ルッチ、カク、トラファルガー・ロー、ベポまで登場するという騒がしいレストラン。

料理は前菜、メイン(魚か肉)、デザートでドリンクは女性がターゲットなのでカクテルが中心。メニューになかったのですが聞いたらビールもあるということでビールを注文。サンジは役になりきって男性客には不愛想に対応です(笑)。

料理はショー込みで一人7千円。テーブル席が53ですので7千円×2人×53席=848,000円。これが5ステージなんで1日424万円です。これを出演者8人、スタッフ15人、調理x人ほどでまかないます。

後期難波京 内裏正殿

後期難波京 内裏正殿

大阪歴史博物館の対面(大阪城の横)に店舗ができたのは知っていたんですが、その先に内裏跡が整備されていたんですね。大阪歴史博物館の上から難波京跡をみて気がつき、さっそく行ってきました。

飛鳥時代の前期難波宮と奈良時代の後期難波宮の遺跡が混在しており回廊跡が色で分かれていました。中央にあるのが後期難波宮の内裏正殿跡です。内裏とは天皇の私的空間で天皇が住み、儀式や執務を行う宮殿がありました。禁裏(きんり)とも呼ばれています。平城京の副都でしたので聖武天皇がたびたび来ておりました。

蘭奢待の匂い

蘭奢待

正倉院に保管されている香木に蘭奢待(らんじゃたい)があります。足利義満、足利義教、足利義政、織田信長、明治天皇らが切り取ったことでも有名です。今朝のニュースで香木の調査が行われ300種類以上の香りの成分が確かめられたという報道がありました。

もっとも調査が行われたのは去年で、ちょうど大阪歴史博物館で「正倉院 THE SHOW」が開催中です。蘭奢待のレプリカが展示され、匂いを嗅ぐことができます。先日、行ったのですが、ほのかな甘い匂いがしました。展示会出口に正倉院グッズの売店があったのですが蘭奢待クッションが5700円ほどで売られています。しかも切り口に織田信長拝賜之處と付箋がつけられていますが、これも再現されています(笑)。一瞬、気持ちが動きましたが絶対に使わないなあと購入を却下。

蘭奢待という名前は字の中に東大寺を隠した名称で、正倉院に最初から保管されていたと考えられていましたが、もっと後の時代のものと判明、なんで正倉院にあるのかが新たな謎になっています。

太子道

太子道

多神社のちかくを歩いていると太子道の案内がありました。

太子道とは、聖徳太子が斑鳩宮と飛鳥を行ききした古道で、筋違道とも呼ばれています。南北に対して斜めになった道が奈良盆地を通っていたんですが、市街地化でだいぶなくなりました。有名なのが田原本の宮古から近鉄田原本線・黒田駅の脇を通って伸びる道で、ほんまに斜めになっていろいろな道と交差しています。

太子道は20度傾いていて、発掘された法隆寺の若草伽藍も20度傾いており、蘇我馬子の嶋宮から、聖徳太子の斑鳩までがまっすぐ結ばれている仮説もあります。大陸からの使者が難波から大和川を遡って、まず出迎えるところが斑鳩宮でした。

多神社

多神社

多神社、正式名称は多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)と言いますが、こんな長い名前は覚えられないので、もっぱら通称の多神社で呼ばれています。

近鉄・笠縫駅のすぐ近くに一の鳥居があり、ここからけっこう歩いたところにあります。豪族だった多氏の氏神さんで祖は神武天皇の皇子ですので、神武天皇などを祀っています。発掘調査され境内からは縄文時代からの遺跡が見つかっていますから一等地だったんですね。

一族には古事記を編纂した太安万侶がいます。古事記は偽書で太安万侶など実在しないのではと言われた時代もありましたが、奈良の山奥にあった茶畑の開墾中に墓と太安萬侶と書かれた墓誌が見つかり実在した人物だと確認されました。

百済大宮

百済寺

奈良盆地のまんなかに百済という地名があります。

舒明天皇が639年に百済川のほとりに百済大宮(宮殿)と百済大寺の造営を開始します。日本書紀には西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺が子部神社の近くだと想定すると百済大宮は西側にあるはずです。子部神社の西を流れる曽我川が百済川の可能性があります。百済川の西にあるのが百済という地名、集落には百済寺があり三重塔が建っています。

この百済寺が百済大寺の故地という説もありますが、子部神社からちょっと離れているのでどうでしょうねえ。ただ舒明天皇の他の宮が飛鳥にあるのに百済大宮だけが遠く離れているのも不自然です。つまりよう分からんということです(笑)舒明天皇は翌年(640年)に百済大宮ができ遷りますが、その翌年(641年)には亡くなってしまいます。

百済寺の三重塔は鎌倉時代に建てられたようです。観光客はまずいないので、鄙びていて、おすすめですよ。

子部神社

子部神社

推古天皇の後を継いだのが舒明天皇です。この舒明天皇が建てたのが百済大寺でしたが建設途中で落雷による火災にあいました。

桜井市吉備池のほとりで見つかった吉備池廃寺が九重塔もある壮大な寺で、この百済大寺であると見られています。吉備春日神社からしか池に入る道はなく観光客は絶対に来ない場所にあります(笑)。

この百済大寺は舒明天皇が子部神社の木を伐払って九重塔を建てたため子部大神が恨んで堂塔を焼失させたという記録があります。ということで子部神社へ行ってきましたが吉備池廃寺から遠くにあります。日本書紀に西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。

子部神社の西に百済という地名が残っているので、舒明天皇が建てた百済大寺は子部神社の近くにあったようです。火災で燃えてしまったので、皇極天皇が夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺の百済大寺になったという説があります。