百済大宮

百済寺

奈良盆地のまんなかに百済という地名があります。

舒明天皇が639年に百済川のほとりに百済大宮(宮殿)と百済大寺の造営を開始します。日本書紀には西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺が子部神社の近くだと想定すると百済大宮は西側にあるはずです。子部神社の西を流れる曽我川が百済川の可能性があります。百済川の西にあるのが百済という地名、集落には百済寺があり三重塔が建っています。

この百済寺が百済大寺の故地という説もありますが、子部神社からちょっと離れているのでどうでしょうねえ。ただ舒明天皇の他の宮が飛鳥にあるのに百済大宮だけが遠く離れているのも不自然です。つまりよう分からんということです(笑)舒明天皇は翌年(640年)に百済大宮ができ遷りますが、その翌年(641年)には亡くなってしまいます。

百済寺の三重塔は鎌倉時代に建てられたようです。観光客はまずいないので、鄙びていて、おすすめですよ。

子部神社

子部神社

推古天皇の後を継いだのが舒明天皇です。この舒明天皇が建てたのが百済大寺でしたが建設途中で落雷による火災にあいました。

桜井市吉備池のほとりで見つかった吉備池廃寺が九重塔もある壮大な寺で、この百済大寺であると見られています。吉備春日神社からしか池に入る道はなく観光客は絶対に来ない場所にあります(笑)。

この百済大寺は舒明天皇が子部神社の木を伐払って九重塔を建てたため子部大神が恨んで堂塔を焼失させたという記録があります。ということで子部神社へ行ってきましたが吉備池廃寺から遠くにあります。日本書紀に西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。

子部神社の西に百済という地名が残っているので、舒明天皇が建てた百済大寺は子部神社の近くにあったようです。火災で燃えてしまったので、皇極天皇が夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺の百済大寺になったという説があります。

兜山古墳

兜山古墳

オフ会で泊まったのが鯖江にある三六温泉・神明苑。宿の近くに「歴史の道」があり、これが昔の北陸道なんですね。高台をずっと街道が続いています。この街道沿いにあるのが兜山古墳、直径70mもある円墳です。5世紀頃にできましたが古墳の一番上に八幡神社が建てられたため、住宅地なのに破壊をまぬがれました。他に2つの古墳が近くにあったのですが、こちらは残っていません。

兜山古墳は国史跡になっているので、きれいに整備され堀もきれいに残っています。頂上まで登ると眺めがいいですね。越前は継体天皇が出た地域で、兜山古墳は前方後円墳ではないので、このあたりの有力な首長墓とみられます。

総社大神宮

総社大神宮

武生(たけふ)にあるのが総社大神宮です。

■総社とは
総社は全国にありますがコスパ重視でできた神社です。国司が任国に赴任すると一ノ宮から二ノ宮、三ノ宮と土地の神様に順番に回って挨拶していましたが、やがてこれが形骸化。全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府近くの1ケ所に集めたものです。総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。

■紫式部ゆかりの神社
境内には越前国府の碑がありましたが、まだ正確な場所が判明していません。総社大神宮から100mほど離れた本興寺あたりではないかと発掘調査が行われています。越前国府といえば大河ドラマ「光る君へ」で藤原為時(岸谷五朗)が赴任し、紫式部がくっついていたところです。境内には紫式部ゆかりの神社というノボリが建っていました。

称念寺

称念寺

丸亀城から30分強、歩いたところに称念寺があり、新田義貞の墓で有名です。新田義貞は足利尊氏に敗れ、後醍醐天皇の息子である恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に逃れ北陸王朝(九州王朝はうまくいきました)の樹立を目指しましたが、藤島(福井市)の戦いで討死にし称念寺に葬られました。

■新田氏は徳川の祖
寺の一角に大きなお墓がありました。徳川家は上野国新田郡徳川(得川)郷出身で新田氏が先祖ということにしていますので江戸時代は徳川家の庇護をうけています。ほんまかどうかは分かりません。

■明智光秀が10年間いた
この称念寺の門前に住んでいたのが美濃を追われた明智光秀で寺子屋を開いて10年間ほど住んでいたようです。大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれていましたね。称念寺近くに朝倉氏の家臣だった黒坂備中守の館があり、まず黒坂氏に仕えていたようです。ここから足利義昭の側近までステップアップしていたんですね。

さすがに一乗谷までは遠いので朝倉街道沿いにも拠点(明智神社があるところ)があり、お玉(細川ガラシャ)が生まれたのには称念寺と明智神社の2つの説があります。

行くのが大変な蜾嬴神社

蜾嬴神社

蜾嬴神社

絶対によめません!正解は「すがる」神社です。

雄略天皇が養蚕をすすめるために、臣下の「すがる」に蚕を集めるように命じると、蚕(こ)を子(こ)と同じ音だったので、間違って子供を集めて天皇に献上しました。大笑いした天皇は「すがる」に連れてきた子どもたちを養育するようにいい、少子部連(ちいさこべのむらじ)という名を与えます。この少子部連すがるを氏神として祭った神社です。

宗我坐宗我都比古神社の前の道を北上すると、すがる神社があるのですが、Googleマップで調べて近くに行っても道がありません。探しまわると、民家の横に畦道のような道があり、これをたどるとピンポン!神社にたどりつきました。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

近鉄・大阪線と橿原線が交差する八木駅の一つ手前にあるのが真菅駅です。普通しか止まりません。

真菅駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。このあたりは曽我町で蘇我氏の出身地と考えられています。飛鳥へは皆さん行かれますが、こんな神社に行く人は、まずいませんね。

蘇我氏は蘇我稲目あたりから歴史に登場するようになりますが、それ以前についてはよく分かっていません。

ヤマト創世記の葛城氏が対朝鮮外交や渡来人の管理、大王家へ娘を妃として出す役割を担っていました。葛城氏が雄略天皇に滅ぼされると、これらの役割を継いだのが蘇我氏でした。後に蘇我馬子が祖先の地である葛城(天皇直轄地になっていた)を返してほしいと推古天皇に願って拒否された話があります。となると元は葛城で本家から分かれて曽我の地に移ったんですかねえ。

武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

能褒野(ヤマトタケル終焉の地)

能褒野神社

日本武尊(やまとたけるのみこと)といえば古代の英雄。景行天皇の皇子で、天皇にこきつかわれ熊襲や東国征討を行いました。智謀ということになっていますが、普通に読めば、だまし討ちです。伊吹山の荒ぶる神の討伐に向かいましたが、返り討ちにあい病身に。

大和へ向かう途中、能褒野(のぼの)で亡くなります。亡くなる前によんだのが「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」という歌です。能褒野陵の前方公演の隣に能褒野神社が造られました。

能褒野に葬られると白鳥に姿を変え大和の方向へ、日本書紀では御所(奈良)と羽曳野(大阪)に降り立ち、それぞれ白鳥陵が造られました。古事記は大阪だけです。景行天皇の都は纏向地域にあったのに、なんで大阪なんでしょうね。羽曳野からさらに鳳に降り立って大鳥大社ができたと社伝には伝えられています。

JR余呉駅

JR余呉駅

賤ヶ岳の各砦巡りでベースとなるのがJR余呉駅。駅では500円でレンターサイクルを借りられます。余呉駅から玄蕃尾城を目指す人も多く、登山道入り口までのマップもおいてあります。玄蕃尾城の登山口までけっこうな距離があり、たどりつく頃には体力を消耗します。

余呉駅のホームからは余呉湖が真正面に見え、この時期は水田と湖が一帯になっています。余呉駅は琵琶湖の北側にあり、約3万年前に琵琶湖から分かれたとされています。赤い屋根の小屋の向こう側に見えるピークが賤ヶ岳砦で、左手にあるのが中川清秀が討ち死にした大岩山砦です。