鷺森御坊

鷺森御坊

織田信長と石山本願寺との10年戦争、いわゆる石山合戦は石山本願寺側が和睦に応じ、門主・顕如が石山本願寺を退去することで終わりました。天正8年(1580年)、退去した顕如が入ったのが和歌山にある鷺森御坊です。南海・和歌山市駅からすぐの所にあり、今はそれほど大きな寺院ではありませんが、発掘調査で深さ3mの堀が巡っていたことが分かり、寺院というより平城になっていました。

顕如は天正11年(1583年)に貝塚御坊(願泉寺)へ移ります。天正13年(1585年)に秀吉から天満の地を与えられ、天満本願寺を建立します。天神祭りで有名ですね。天正19年(1591年)に秀吉から京都七条堀川の地が与えられ本願寺ができましたが、顕如が亡くなった後の跡目争いを利用して徳川家康が西本願寺、東本願寺に分離し、一向宗の力をそぐことに成功します。

和歌山市民図書館

和歌山市民図書館

南海・和歌山市駅に隣接して和歌山市民図書館ができていました。

中に入ったら、めちゃくちゃオシャレな図書館で、2020年にできたそうです。運営はカルチュア・コンビニエンス・クラブが行っています。1階は蔦屋書店とスターバックスが入っていて、そのままエスカレーターで上がると2階と3階が図書館になっています。ホテルのロビーのような雰囲気でオシャレですねえ。

歴史コーナーには「戦国合戦大事典」(新人物往来社)などが揃っていて充実していますね。「バグは本当に虫だった」もあったんですが開架じゃなく書庫に入っていました(泣)

杉山古墳

若草山

平城京を造営する時に古墳などを壊しましたが、大安寺では杉山古墳という前方後円墳を敷地に取り込んでいます。

大安寺では古墳を壊しながら麓に瓦窯を6基作っていました。奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いていたようです。前方部から土砂や葺石が運び出して資材調達に使っていたようですが、古墳そのものは残っています。

5世紀後半頃にできた古墳のようで公園として整備されていて登ることができ若草山などを一望できます。墳丘長は150メートルほどあったようですが、現在は120メートルほどになっています。

大安寺

大安寺

大安寺は2つの塔がある巨大な寺でした。塔の基壇跡がしっかり残っています。

大安寺は厩戸皇子(聖徳太子)が平群につくった熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が大本です。名前は祇園精舎にならいました。そこから百済大寺、高市大寺、大官大寺となり平城京遷都によって大安寺になりました。

舒明天皇が百済大寺を作りましたが建設途中で落雷による火災などにあったようです。これが子部大神の怨みと考えられ皇極天皇は夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺で九重塔とみられています。大安寺の失われた塔も九重の塔でした。

天平の甍(大安寺)

大安寺

辰市城から北上し、平城京の南限である九条を超えていくと大安寺があります。ちょうど本堂で神楽を演奏しながら舞が行われていました。

大安寺といえば普照(ふしょう)ですね。井上靖の「天平の甍」に苦難の道が描かれています。

許可なく出家する私度僧が多く、唐から戒律は伝わっていましたが不完全なものでした。そこで聖武天皇は唐から優れた僧を招くことにします。命をうけたのが大安寺僧だった普照と栄叡で養老5年(733年)に派遣される遣唐使に加わります。唐に滞在して10年目に鑑真と出会い、日本への渡航を要請します。快諾をえますが、そこからが大変で、日本への渡航が5回も失敗し鑑真は失明してしまいます。また749年には苦楽をともにした栄叡が唐で病死してしまいました。

6度目にしてようやく渡航が成功し、天平勝宝6年(754年)平城京に鑑真が到着します。普照が唐に渡って20年が経っていました。鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武天皇などに戒を授けます。やがて唐招提寺が建立されます。

じょうもん(中百舌鳥)

じょうもん

中百舌鳥(堺)でお仕事だったのでランチは「じょうもん」へ

中百舌鳥駅前に昔、セレソヴィー株式会社があり、ファイティング・コンサルタンツ研究会の根城でした。2010年頃から堺東へ移転するまでの6年間ほど中百舌鳥でした。この頃は今のように酒飲み集団に堕落する前でしたので14時から17時頃まで研究会を行ってから「じょうもん」へ移動して宴会していました。研究会3時間、宴会4時間というパターンでしたね。

「じょうもん」は今も健在で日替わり定食は750円でがんばっていました。提灯はなくなっていました。

正倉院展 孝謙天皇譲位の宣命

正倉院展

第77回正倉院展へ。いつものように最終で入館するオータムレイトチケットです、今年はレイト割という名前になっていました。平日は16~17時入館(18時に閉館)で、20年ぐらい前は16時すぎに行けばスイスイ入れましたが最近は16:20分ぐらいまで行列ができています。入口近くのお店でビールを飲んで、しばし待機し、16:30ぐらいに入館。会場内はまだまだ人でいっぱいでした。落ち着いて見るには17時前ギリギリに入るのがよさそうです。

■孝謙天皇譲位の宣命
今年の目玉は蘭奢待と瑠璃杯だそうで、人だかりがすごかったですね。それよりもすごかったのが孝謙天皇宣命の古文書です。宣命というのは天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書のことで、いわゆる詔勅が漢文体になります。内容は孝謙天皇譲位で天平宝字2年(758年)のものです。

■恵美押勝の乱へ
前年に藤原仲麻呂(恵美押勝)の権勢に危機感を抱いた橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)らが起こした乱が藤原仲麻呂に鎮圧され、孝謙天皇は「譲位の宣命」を発して、皇太子・大炊王(淳仁天皇)に譲位、上皇となります。この後に、恵美押勝と対立するようになり道鏡問題もからんで恵美押勝の乱となります。日本史で習いましたねえ!

この古文書で天皇となった淳仁天皇とも対立して廃され、孝謙天皇は称徳天皇として重祚します。

石切神社 

太鼓台

昨日、今日は石切神社(石切劔箭神社)のお祭りで太鼓台が巡行しています。21日には宵宮祭、22日には例大祭が行われます。

大阪のお祭りというと岸和田のだんじりが有名ですが、河内は太鼓台が多いですね。枚岡神社、石切神社、大賀世神社などで太鼓台の巡行が行われます。規模が大きいのが枚岡神社で秋郷祭りでは各町内から23台の太鼓台が宮入します。

大阪もやっとこさ涼しくなってきたので、石切さんにお参りに行ったら、町内を練り歩いた太鼓台が通っていました。

足助

足助の町並み

足助は山の中の街ですが、古代から街道が集まる交通の要衝です。信濃と結ぶ伊那街道、美濃と結ぶ美濃街道、尾張国への伊保街道、岡崎に向かう足助街道が通っています。ですので足助城は境目の城として今川、武田、松平(徳川)が争うことになります。江戸時代は足助陣屋がおかれました。跡地には何もありませんが徳川四天王で有名な本多忠勝の子孫である本多家が領していました。

足助川下流域両岸に発達した河岸段丘上に商店街が整備され、足助の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。愛知ではほかに有松が、三重では関宿が指定されています。バスで田舎道をずっと走っていくと急に伝統的な街並みが登場します。香嵐渓という紅葉の名所があるようですが、足助城以外に用事はないので街並みをざっと見てバスで豊田に帰ってきました。

枚岡駅

枚岡駅

2日間の祭りが終わり、太鼓の声も聞こえなくなって静かな朝ですね。関西の放送局では万博閉幕の話題をずっとやっています。

枚岡神社・秋郷祭 宮入は東高野街道の一の鳥居から始まりますが標高は10mほどです。ここから太鼓台をかついで40m登ると枚岡駅の踏切に到達し標高50mほどです。まあマンション13階分、登るようなものですね。踏切を超えると最後の急坂が待っていて枚岡神社の境内にはいりますが、ここが標高80mになり、麓から70mも登ることになります。

近鉄奈良線は瓢箪山駅を過ぎると線路は大きくカーブし、ここから登山鉄道になります。35.7パーミルもある急勾配に枚岡駅があり、ここから石切駅まで車窓から大阪平野を一望できるスポットになっています。