行くのが大変な蜾嬴神社

蜾嬴神社

蜾嬴神社

絶対によめません!正解は「すがる」神社です。

雄略天皇が養蚕をすすめるために、臣下の「すがる」に蚕を集めるように命じると、蚕(こ)を子(こ)と同じ音だったので、間違って子供を集めて天皇に献上しました。大笑いした天皇は「すがる」に連れてきた子どもたちを養育するようにいい、少子部連(ちいさこべのむらじ)という名を与えます。この少子部連すがるを氏神として祭った神社です。

宗我坐宗我都比古神社の前の道を北上すると、すがる神社があるのですが、Googleマップで調べて近くに行っても道がありません。探しまわると、民家の横に畦道のような道があり、これをたどるとピンポン!神社にたどりつきました。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

近鉄・大阪線と橿原線が交差する八木駅の一つ手前にあるのが真菅駅です。普通しか止まりません。

真菅駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。このあたりは曽我町で蘇我氏の出身地と考えられています。飛鳥へは皆さん行かれますが、こんな神社に行く人は、まずいませんね。

蘇我氏は蘇我稲目あたりから歴史に登場するようになりますが、それ以前についてはよく分かっていません。

ヤマト創世記の葛城氏が対朝鮮外交や渡来人の管理、大王家へ娘を妃として出す役割を担っていました。葛城氏が雄略天皇に滅ぼされると、これらの役割を継いだのが蘇我氏でした。後に蘇我馬子が祖先の地である葛城(天皇直轄地になっていた)を返してほしいと推古天皇に願って拒否された話があります。となると元は葛城で本家から分かれて曽我の地に移ったんですかねえ。

武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

能褒野(ヤマトタケル終焉の地)

能褒野神社

日本武尊(やまとたけるのみこと)といえば古代の英雄。景行天皇の皇子で、天皇にこきつかわれ熊襲や東国征討を行いました。智謀ということになっていますが、普通に読めば、だまし討ちです。伊吹山の荒ぶる神の討伐に向かいましたが、返り討ちにあい病身に。

大和へ向かう途中、能褒野(のぼの)で亡くなります。亡くなる前によんだのが「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」という歌です。能褒野陵の前方公演の隣に能褒野神社が造られました。

能褒野に葬られると白鳥に姿を変え大和の方向へ、日本書紀では御所(奈良)と羽曳野(大阪)に降り立ち、それぞれ白鳥陵が造られました。古事記は大阪だけです。景行天皇の都は纏向地域にあったのに、なんで大阪なんでしょうね。羽曳野からさらに鳳に降り立って大鳥大社ができたと社伝には伝えられています。

JR余呉駅

JR余呉駅

賤ヶ岳の各砦巡りでベースとなるのがJR余呉駅。駅では500円でレンターサイクルを借りられます。余呉駅から玄蕃尾城を目指す人も多く、登山道入り口までのマップもおいてあります。玄蕃尾城の登山口までけっこうな距離があり、たどりつく頃には体力を消耗します。

余呉駅のホームからは余呉湖が真正面に見え、この時期は水田と湖が一帯になっています。余呉駅は琵琶湖の北側にあり、約3万年前に琵琶湖から分かれたとされています。赤い屋根の小屋の向こう側に見えるピークが賤ヶ岳砦で、左手にあるのが中川清秀が討ち死にした大岩山砦です。

石の宝殿

石の宝殿

伊保からずっと北に歩いていくと宝殿山があり、古代から現代まで竜山石の切り出しが行われています。坂を登るととっても眺めがよい生石神社があり、ご神体になっているのが石の宝殿です。でっかい石の塊で、なんと幅や高さが7mちかくあります。ほんまにでっかい直方体の石です。ぐるっと一周できます。

おそらく古墳の石棺にするために切り出された巨石で、どういうわけか運ばれずにそのまま残り、生石神社のご神体になっています。石棺以外にも諸説あり、いまだに謎です。この大石は播磨国風土記に登場していますので飛鳥時代頃には存在していたようです。近くを川が流れているので船運で伊保まで運んで、伊保港から出す予定だったのでしょう。

高槻にある継体天皇陵(今城塚古墳)では3つの石棺が見つかり、一つは石の宝殿がある竜山石が使われています。遠くは阿蘇から馬門石が使われています。飛鳥にある益田の岩船も石の宝殿と同じぐらいの巨石ですので、まあ石棺でしょう。石の宝殿は名所となり江戸時代には参勤交代の途中で大名が参拝していました。

天理参考館

天理参考館

せっかく天理へ行ったので天理参考館に寄ってきました。正式名称は天理大学・附属天理参考館で、建物は天理教の独特のデザインになっています。入館料500円で誰でも入れます。

エントランスにはでっかいオルメカ石頭像があり、1階・2階が世界各国から集められた民俗・生活資料が展示されています。国立民族学博物館よりもちょっと小ぶりな感じです。

目的は3階で考古学フロアになっています。天理にある日本最大の前方後方墳である西山古墳や布留遺跡の展示が充実しています。一角に中国の古代のでっかい石碑などが並んだところがあり圧巻です。

山住神社(岩倉の語源?)

山住神社

叡電・岩倉駅近くにあったのが山住神社。拝殿はありますが本殿はなく磐座を拝む形になっています。磐座を拝む神社は日本各地にあり、有名なのが日本最古の神社と呼ばれる熊野の花の窟神社。新宮には火祭りで有名な神倉神社があります。奈良の大神神社も三輪山にある磐座がご神体です。

なんでも桓武天皇が平安遷都のとき京都の東西南北にある4つの岩倉に一切経を埋めて、結界をはったという説があるそうです。その一つが山住神社でなんだそうで。石蔵に経典をおさめたとあるので、これが岩倉の語源になったのかなあ。岩倉上蔵城跡にも蔵の字がはいっていて、上蔵という名前が気になりますね。

超国宝

超国宝

    連休合間の平日ならすいているだろうと夕方、奈良国立博物館へチケット売場もガラガラで正倉院展のオータムレイトよりも、すいていました。入口すぐに法隆寺の百済観音があって360度、眺められるようになっていました。

    この入口近くにあった小さな仏像ですごくって、光背の文字が読めるようになっていて止利仏師が物部大臣(蘇我馬子のこと)に送ったと記載されています。他にも求道僧円珍が持ち帰った物の一覧表もありました。七支刀が目的でしたが思ったよりも小さかったですね。

    岩倉具視幽棲旧宅

    岩倉具視幽棲旧宅

    京都市街の喧騒から離れた地域にあるのが岩倉です。今は叡山電鉄が走り住宅街になりましたが、昔は隠棲する場所でした。明治維新を取り扱ったドラマで必ず出てくるのが岩倉具視が隠棲していた建物です。

    坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らと語り合った鄰雲軒が残っていて中に入れます。岩倉具視は公武合体をすすめ、和宮降嫁を推進したことから尊皇攘夷派から敵視され、岩倉に隠棲します。

    岩倉具視は岩倉家の養子ですが、もともと岩倉家の先祖が岩倉出身で、岩倉具視の頃は岩倉とのつながりが薄かったのですが、縁があって廃屋を借りて隠棲することになります。薩摩、水戸、土佐藩士らが鄰雲軒を訪れ、慶応3年の王政復古はこの旧宅からはじまりました。

    鄰雲軒などの歴史をガイドさんが説明してくれるのですが、行った時は一人だけで、なかなか贅沢な時間でした。観光客があまり来ない穴場ですね。