西国街道をゆく(一文橋)

一文橋

西国街道が小畑川を渡るところにあるのが一文橋。山崎の合戦が行われた小畑川のずっと上流の方です。なんでも日本最古の有料橋なんだそうで通行料が一文だったことから一文橋と呼ばれました。今、見るとおとなしそうな川なんですが、何度も洪水により橋が流されることから架け替え費用の捻出のために通行料をとっていました。今は通行料を払わなくても通れます。

有料橋で有名なのが大井川にかかっている蓬萊橋で世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されています。テレビや映画のロケ地によくなっています。あとは祖谷のかずら橋ですね。十津川にある谷瀬のつり橋は無料で通れます。

西国街道をゆく(調子八角)

調子八角

西山天王山駅は2013年(平成25年)にできた阪急京都線の駅で長岡天神駅と大山崎駅の間にできました。住宅街や立命館中学校・高等学校があるので乗降客で賑わっています。駅を出ると交差点があって、調子八角という変な名前がついています。この交差点が西国街道と丹波街道の分岐点で丹波街道が調子八角で分岐し、大枝の沓掛まで進んで山陰道に繋がります。

■光秀が通る街道だった
亀岡城を出た明智光秀が本来は沓掛から丹波街道に入り、調子八角から西国街道を通って備中高松城を水攻めしていた秀吉の応援にいくはずが、沓掛からそのまま都へ入って本能寺の変を起こします。

■調子八角の由来
調子は山城国乙訓郡調子荘を本拠地とした調子氏に由来するそうです。もともとは下毛野氏だったそうで栃木あたりの豪族だったようです。八角は八角堂があったかという説などいろいろあります。交差点には元禄時代の道標が残っていて「右 あたご道」、「左 たんば道」と書かれています。西国街道から愛宕詣でするための道案内でした。

西国街道をゆく(神足)

神足駅

JR長岡京駅近く西国街道沿いの公民館前に神足(こうたり)駅の看板があります。1995年(平成7年)に神足駅から長岡京駅に駅名変更となり、それまで使われていた看板です。駅名が長岡京になっていますが大極殿跡などは阪急・西向日駅が近く、JR長岡京で降りると、かなり歩くことになります。神田神保町へ行こうと神田駅で降りるのと同じで学生時代にやりました(笑)。もっとも広い都ですから長岡京に駅が含まれていることは確かです。

神足は古い地名で桓武天皇が長岡京にいた時に夢を見ました。田村にあった池に天から神が降り立ち、都を襲おうとした悪霊を防いでいました。神を見ようとしても頭を上げられず足しか見えません。そこで神社を建て、これが神足神社となります。田村という地名も神足になりました。

西国街道をゆく(勝竜寺城)

勝竜寺城

山崎の戦いで敗北した光秀は勝竜寺城に入りますが、兵の脱走や離散が続いたため北門から脱出し坂本城を目指す途中、小栗栖の藪(山科)で農民の落ち武者狩りにあい命を落とします。脱走兵は西国街道を通って京都を目指し、長い列になっていたと宣教師が書き残しています。

勝竜寺城は南北朝時代からありましたが二重の堀など整備したのが細川藤孝です。ここは藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が結婚して新婚時代を過ごした城であります。勝竜寺城は公園になっていますが、少し離れた神足神社境内で惣構の跡が発見され、高さ6メートルを超える大規模な土塁・空堀が復元されています。

山崎の戦い 天正10年(1582年)6月13日

山崎宿

西国街道に山崎宿があり、摂津と山城の境に位置しています。写真付近にあったのが山崎西黒門跡で宿場の西門でした。山崎で有名なのが秀吉と光秀が戦った山崎の戦いです。山崎は隘路になっており新幹線、名神、阪急、JRが狭い場所に集中しています。光秀としては山崎宿で戦うのが有利なのですが、光秀は山崎では戦わないという禁制を山崎に発行していました。油座などで経済が発展していた山崎の経済力を温存したかったようです。ということで山崎を抜けた小畑川が戦場になりました。光秀は小畑川に布陣し、長篠の合戦を再現するつもりだったという説もあります。

■中国大返し
山崎の戦いは秀吉が中国大返しをして勝ったという雰囲気ですが、実際に戦ったのは摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興です。もっとも「信長様は生きている」というフェークニュースを秀吉がばらまき、摂津衆をつなぎとめたのが大きかったです。諸説ありますが、中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇して戦になった模様です。

最初は互角でしたが秀吉軍が到着したため光秀軍は総崩れになった模様です。また秀吉が毛利と和睦した時に黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせるなど、勝つためになりふり構わなかった秀吉が一枚上手でした。

大山崎油座

離宮八幡宮

織田信長の楽市楽座、習いましたね。「座」というのは営業を独占する権利で、座に加盟しないと商売ができませんでした。JR山崎駅前にあるのが離宮八幡宮に大山崎油座がありました。座の構成員は離宮八幡宮の神人で、灯油を石清水八幡宮に貢納する役目がありました。

司馬遼太郎の「国盗り物語」では、若き斎藤道三が、離宮八幡宮の油商人として登場します。永楽銭の間に油を通して、穴のふちに油がついたら、お代はいらないといった口上をして業績を伸ばします。実演販売の鏡ですなあ。もっとも最近の学説では親子2代で美濃の国主になったようで、油商人をもししていたなら道山の父親のようです。

海住山寺のサンクコスト

海住山寺

恭仁京近くに、海住山寺への案内がありました。山の中腹にある寺ということで、山の方を見ると、確かに中腹に白く巨大な看板のようなものが見えます。ちょっと登れば着きそうだなということで坂を登りはじめます。ようやく白い看板にたどりつくと高台なので眺めがよく加茂の街が一望できます。

■サンクコスト
たどりついた看板に海住山寺と大きく書かれていますが、単に参道の案内で、お寺の場所は、かなり坂を登ったところにあります。「えー、どうする! せっかくここまで登ったんだから最後まで登るか」と考え、坂登りを続けます。この、もったいないと考えることをサンクコスト(埋没費用)といいます。サンクコストとは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用を指します。今後に関する意思決定では、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断するのが王道ですが、そうはいきませんねえ(笑)。

ということでエッチラオッチラ登って五合目を通過。またかなり登って、ようやく海住山寺にたどりつきました。 聖武天皇の勅願で創建した寺のようで国宝の五重塔などがあります。

広小路キャンパス

京都の少し前の地図を見ていたら立命館大学・広小路キャンパスが載っていました。目の前には京都府立医大があり、御所の北側には同志社大学があります。京都は10人に一人が学生という「学生の街」で市政的に言うと税金が入らない層がたくさんいることになります。

広小路キャンパス

立命館大学・広小路キャンパスは1981年までありました。ある年齢層までには「二十歳の原点」(高野悦子)の原点ですね。赤い線は京都市電で、1977年に京都市電・河原町線がなくなり、翌年に京都市電全線がなくなります。

立命館大学・広小路キャンパスの少し北に昔、勤務していた専門学校があり、この界隈を10年ほどウロウロしていました。河原町今出川に地図専門店があったんですね。少し上がったところに善書堂という古本屋がありましたが、今は閉店しています。そうそう京都府立医大近くに荒神橋があり、伊藤蘭が出ていた「ヒポクラテスたち」(大森一樹監督)の冒頭はこの荒神橋からスタートしていました。

薩摩藩伏見屋敷

薩摩藩伏見屋敷

今は石碑しかありませんが丹波橋駅からずっと西に行ったところに薩摩藩伏見屋敷があります。寺田屋で襲われた坂本龍馬が深手をおって材木屋に隠れ、お龍が助けを呼びに行った先です。龍馬はこの薩摩藩邸に運び込まれます。傷がある程度、癒えると薩摩藩の計らいでリハビリのため、お龍と霧島(九州)へ向かいます。これが日本最初の新婚旅行になります。高千穂峰では天の逆鉾を抜こうという、迷惑行為をやっています。当時はSNSがなくて良かったですね。

NHK大河ドラマ「篤姫」ではが京の近衛家に仕えていた老女・幾島(松坂慶子)によって篤姫(宮崎あおい)が、お姫様養成のための特訓が行われた場所です。鳥羽伏見の戦いでは御香宮神社に本陣を置いたため、伏見屋敷は会津藩によって焼かれてしまいました。そうそう、龍馬は経済感覚が強く、討幕に動き出したら長崎運上所の金をおさえるよう土佐藩の佐々木高行事前に言っております。鳥羽伏見の戦いがはじまった時に亡き龍馬に従っておさえました。金がなけえば戦はできません。

琵琶湖疎水

琵琶湖疎水

琵琶湖から流れる水は瀬田川しかなく、瀬田川が宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に注ぎます。滋賀県人がよく使う脅し文句が「琵琶湖の水止めたろか!」という言葉。実際に3Dモデルを使ってシミュレーションをした人がいて、瀬田川の堰をとめると滋賀県の沿岸部と水田地帯がことごとく水没してしまいました。滋賀県にとっては経済的に大打撃になり、琵琶湖の水を止めるのは諸刃の剣です。よく似た話は奈良にもあり、大和川が大阪に流れだす亀の瀬で地滑りで起きて、自然ダムができると古代にあった奈良湖が誕生することになります。

シュミレーションでは琵琶湖の水位が30mあがると鉄道トンネルから琵琶湖の水が流れ出しました。瀬田川の堰をとめるのと同時に琵琶湖疎水もとめなくてはなりません。琵琶湖疎水は明治時代に作られ、蹴上発電所の電気で京都市電が走り、日本初の営業用電車となりました。山科駅の北側に琵琶湖疎水が流れていて散策路になっています。