♪私が訪ねた上野市(うえのまち)

♪くわ町、かや町、広小路、もすこし揺られて上野まち♪
昔、西岡たかしの歌で有名になった伊賀上野です。企業さん巡りで行ってきました。
近鉄・伊賀神戸駅で2両編成の電車に乗り換えて、上野市(うえのまち)を目指します。松本零士デザインの有名な電車でもあります。
上野の町が見えると桑町、茅町、広小路と住宅街の中を通り抜けながら止まっていきます。歌の通りですね。広小路の次が上野市(うえのまち)駅です。
久しぶりに行くと駅舎の中が変わっていました。帰りは上野市駅から伊賀上野へ出て、関西線で帰ってきました。 こっちのコースも鄙びて、いいですね。
おみやげに伊賀上野の銘菓、丁稚ようかん(桃青庵ふじさき)を買ってきました。甘くなくていいですね。酒のあてにして食べています。(笑)

大入道

昼から四日市へ出てIT窓口相談
今日のお昼は若鯱亭(チェーン店)のカレーうどん定食、ここのカレーうどんはちょっとクセになる味ですね。
四日市駅前の諏訪商店街の中にちょうど昔の東海道が走っており、そこに首が伸びたり縮んだりする大きな人形が置いてありました。 この人形はすぐ近くに諏訪神社があり、ここの祭礼が四日市祭で使われています。
四日市祭では京都の祇園祭のように各町内から山車が出ますが、この人形は中納屋町の「大入道」です。山車が動きながら首が伸びたり縮んだりします。他にも鯨船やカラクリなど と言いながら、まだ四日市祭を見たことがないんです(笑)

岩田の戦いで亡くなった北畠満雅(津市)

津は朝からずっと雨ですね。
実家のすぐ近くですが阿漕駅(津市)近くに「北畠満雅卿忠烈遺跡」と書かれた石柱があります。この一帯で南北朝の戦いが行われました。石柱の横には祠もありますが、そんなことがあったとは知らない人がほとんどでしょうね。
昔、日本史で習いましたが北朝方が「両統迭立」を提唱して南朝方と和解します。まあ南朝方がうぶいといいますか、結局は北朝方にだまされます。怒った伊勢国司・北畠満雅が南朝最後の天皇・後亀山上皇とその皇子を奉じて挙兵します。初戦で北畠方は破れ、阿坂城に籠城、結局包囲した足利軍と和議になりました。
和議の条件は次こそ南朝から天皇を出すという誓約でしたが、これも反故に。ほんまに甘いですね。そこで北畠満雅は再度挙兵をします。津に百五銀行本店がありますがその横を流れるのが岩田川です。この岩田川で北朝方と決戦となりました。(岩田の戦い)。結局、北畠満雅は壮絶な敗死を遂げ、これが南朝最後の大きな戦いとなりました。津は結城神社(結城宗弘)など南朝ゆかりの土地ですね。

七夕飾り

津市の中心市街地である丸の内を歩いていると、七夕の飾り付けがずらっと並んでいました。なかなか壮観ですね。
このあたりはちょうど藤堂藩の藩校である有造館があったところです。今は建物はなく津城の公園に有造館の門【入徳門】だけが現存しています。また昔はジャスコがあり、よく買物に行きましたが、これもなくなってしまい今は駐車場になっています。

夏越の祓(なごしのはらえ)

今日は津市内の企業まわり。
津城近くにある藤堂高虎をまつる高山神社へ行くと、境内に茅の輪がありました。1日早いのですが、さっそく潜って夏越の祓を。これで無病息災です。
さて用事が終わり昼飯を食べようと塔世橋近くにあるエベレストというお店へ。ここはインド・ネパール料理で、前から気になっていましたが初めて入った店です。
ランチメニューはいろいろありAセット(チキンカレー、サラダ、ナン)が850円でしたので頼みましたが、出てきたナンが大きい。通常の2倍はありますね。小さな店に店員は3名。皆、インド人のようです。

東紀州の相賀へ

朝、東大阪から津の三重県産業支援センターへ移動。支援センターの机の上にたまった書類をかたずけてから9時過ぎに担当者と出発。
目指すは尾鷲の手前にある相賀という場所です。車でひたすら峠を越えながら片道3時間かかります。東紀州は遠いな~あ。
要件は専門家派遣事業の申し込みがあった企業への事前ヒアリングです。先週、尾鷲で相談にのった企業で専門家派遣をすすめた先です。相賀は2004年台風の豪雨(津も大雨になりました)で大きな被害を受けた町で、この企業でも腰まで浸水となり、再操業するのに1ケ月以上かかったそうです。

伊勢のお木曳

今日は伊勢商工会議所でIT窓口相談
昼休み伊勢神宮の外宮へ出かけてみました。ちょうど遷宮に向けてお木曳が行われています。 境内には白い装束の神領民の皆さんがたくさん参拝されていて、お木曳自体は終わった後でした。外宮入口には各町の旗がはためいています。
遷宮は平成25年ですが、平成17年の山口祭からいろいろなお祭りが行われています。

壬申の乱

今日は奈良の八木駅経由で三重の桔梗が丘にある企業さんへIT相談に行ってきました。
八木駅からのんびり近鉄の各駅停車に乗って行きましたが、この近鉄のコースってちょうど大海人皇子が吉野を脱出して東へ向かったコースに重なります。
大海人皇子が吉野を出たのが672年6月24日。
大宇陀を抜けて榛原駅(菟田郡家)に着き、ここから現在の近鉄線に重なります。
榛原駅の次の室生口大野駅(大野)へ着いた頃には日が暮れてしまいました。先を急いでいる大海人皇子一行はそのまま三本松、赤目口を抜けて名張駅(隠郡)へ、着いたのは真夜中でした。ここから近鉄を離れて伊賀へ向かいます。着いたのは25日の夜明けでした。
今でしたら八木駅から名張駅って各駅停車でも30分ほどで着きますが、当時は大変だったでしょうねえ。

伊勢神宮(外宮)に神の通る道を発見!

今日は伊勢商工会議所でIT相談。
お昼、少し時間があったので外宮へお参りに。いつもは伊勢市駅から外宮へ行くのですが、先に月読宮をお参りにしてから行くことにしました。
月読宮をお参りして出ると、目の前の道に外宮への案内が、こんなことろから行けるんだとまっすぐな道を歩いていくと、これが「神路道」でした。
途中に案内があり、案内を読むと神路道とは豊受神社(外宮)から月読宮への神さんの通り道だそうです。道路の真ん中が石畳で、ここは歩いたらいけないという決まりになっています。
ずっと端っこを歩いたので大丈夫です。(笑) 神路道をまっすぐ歩くと外宮の鳥居に着きました。つまり月読宮の鳥居と外宮の鳥居が神路道をはさんで向かい合っているんですね。長らく三重におりますが、初めて知りました。(笑) 皆さんも伊勢へお参りするのなら、ぜひ月読宮から神路道を通ってみてください。