日本各地に神戸という地名があります。神社の祭祀を維持するにはお金がかかります。そこで神社に民戸を割り当て、税金を神社のために使う仕組みにしました。これが神戸です。
JR徳和駅(松阪から1駅目)近くに神戸神館神明社があります。一帯に伊勢神宮へ供祭料を貢納する神戸があり、収納するための神館があった場所になります。周囲を堀が巡っていて城郭にようになっています。
倭姫命が天照大神の御杖代として大和から伊賀、近江、美濃、尾張を巡り、伊勢の国に入り、最終的に伊勢神宮を創建しますが、伊勢の国のなかでもいろいろと巡っていました。飯野高宮で4年間、天照大神をお祀りしたとあり、この飯野高宮が神戸神館神明社ではないかと言われています。飯高の県造(あがたのみやつこ)であった乙加豆知(おとかづち)が倭姫命に神田と神戸を進呈し飯野高宮を造営したとあります。
第11代、垂仁天皇の時代となりますので。日本武尊などより前の時代です。垂仁天皇陵は近鉄・西大寺駅から1駅目の尼ヶ辻駅のすぐ隣に見えます。神戸神館神明社が祀っているの天照大神、豊受大神、倭姫命、乙加豆知命で、内宮、外宮へ行かなくても一カ所ですみます。
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姓や氏長者って何なの?
京都府の南にある井出町で有名なのは橘諸兄の旧跡。山城・井出城はマニアには有名ですが、一般的にマイナーな存在です。
そうそう橘諸兄、日本史で習いましたね!
■本貫って何?
姓で有名なのは源平藤橘です。その橘氏の初代氏長者(橘氏の筆頭)が橘諸兄になります。武家に足利氏、新田氏、多田氏という名前がありますが、みな、姓は源氏。誰もが源だと呼ぶ方も大変です。そこでつけたのが名字(苗字)。
下野国にあった足利荘の出身だったので土地の名前をつけて足利氏と名乗ります。名字(苗字)の由来となった土地を本貫と呼びます。ですので多田氏の本貫は摂津国の多田で、姓は源です。
■斎藤さんの故郷 斎宮
藤原氏も同様で伊勢国の藤原なんで伊藤となります。こっちは国レベルなんで、けっこうアバウトですね。伊勢の斎宮頭だった藤原叙用(のぶもち)に由来するのが斎藤(斎宮頭の藤原)です。
近鉄で普通しか止まらない斎宮駅近くに「全国の斎藤さんの故郷 斎宮」とでっかい看板を出せば、伊勢神宮へ行く途中の斎藤さんが絶対に気になって地域活性化になるんですが、明和町の人は、動きませんね。和歌山の藤白神社は鈴木さんの故郷として全国から集客しているのにもったいない!
■豊臣秀吉 あんたはえらい!
源平藤橘に新しい姓が増えたことがあります。それが豊臣。もともと秀吉は征夷大将軍を狙っていて信長に追放されていた足利義昭(源氏の氏長者)に頼みましたが断られます。
方向転換し、源氏ではなく藤原(近衛)となり関白に就任します。ところが天下人となっても藤原の氏長者には頭があがらないことになります。そこで朝廷から豊臣という新しい姓をもらい、自分が氏長者になってしまいました。よう、こんなことを考えつきますなあ。
大門商店街
津の中心市街地にあるのが大門商店街。日本三大観音のひとつと言われている津観音の門前にある商店街で、昔の伊勢街道が通っています。仁王門の前なので大門商店街といいます。関ケ原の戦いの前哨戦である安濃津の戦いでは、こごが激戦の地となりました。
先日から大門商店街を覆っていたアーケードの撤去作業がはじまっています。私が子供の時は映画館もあって賑わった大門商店街ですが、多くの商店街と同様に空き店舗が増えています。
ほとんどの商店街は高度化資金問題というものがあります。商店街では振興組合を作っていてアーケードなど皆が共通で使う施設などを整備しています。当然、タダでは作れませんので、どこからか借りてきなければなりません。これが高度化資金という低利融資です。
■高度化資金の返済が大変
融資なので借りたら返さないといけません。右肩上がりの時代は問題なかったのですが、商店街への集客が減ってくると中には商売をやめ別に売ってしまう事業者や、場合によっては夜逃げもあります。
30社で振興組合を組織していても10社減ると、借金返済を残った20社で払わざるをえません。新しく店舗を買った事業者に請求できればよいのですが、売る方は早く売りたいので高度化資金の話はしていません。買った側はそんな話は聞いていないになります。また、全国チェーンの居酒屋などが買うと店長で決裁できず本部に連絡しても、のらりくらりで支払わないところがあります。地元出身の店長は板挟みで苦労することになります。
アーケードの撤去を眺めながら、そんなことを思っておりました。
2つある大市神社
実家のすぐ近くにあるのが津市岩田の大市神社。小さな頃はお神輿を担いだ思い出もあります。
岩田の大市神社のずっと西側にある安濃にも大市神社があります。岩田の大市神社は郷社ですが安濃の大市神社は式内社になっています。昔、安濃の大市神社にあった大松が洪水で流れ、下流の岩田川で拾い上げられたことから、この松が縁で岩田の大市神社ができたという話があります。神社が流れて松に引っかかったという話もあります。岩田の大市神社は江戸時代の古地図にも載っていて、現在と同じ場所に川松社という名前でありました。川で拾った松という意味ですかねえ。
大市神社の主祭神はオオイチヒメノミコト(大市比売命)ですが、この大市という名前はもともと大和朝廷発祥の地である巻向にあったようです。伽耶出身の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)で敦賀(つるが)の語源となった人がいます。日本書紀や古事記にも登場する、超有名人物です。このツヌガアラシトの後継が「新撰姓氏録」に載っていて、大市首が後継です。ですので大市氏は本来、巻向あたりにいたようですが、この大市氏の一部かどうか分かりませんが、なんで安濃に来たのかは分かりません。
明応地震で壊滅した安濃津
津は伊勢平氏発祥の地で平清盛のお父さんである平忠盛が生まれたところです。津から京都へ出て平家の一時代を築きます。津はまた良港としても有名でした。平家物語には、平清盛が安濃津から熊野参詣した話が出てきますが、大きな出世魚の鱸が船に飛び込んできたと書かれています。
安濃津は良港でしたが室町時代に発生した明応地震で壊滅しました。井伊直虎で盛り上がっている浜名湖も淡水だったのが、この時の津波によって湖と海がつながってしまいました。
安濃津は良港で街道が通っていましたので、安濃津を見下ろす山沿いに城が築かれました。それが垂水城、小森城、小森上野城です。小森城、小森上野城は住宅地になってしまい、城山という地名だけが残っています。垂水城は最近まで残っていましたが、マルヤス南が丘店の建設で破壊されてしまいました。
この垂水城攻めで使われたのか、前方後円墳を利用した池ノ谷砦だけが、かろうじて残っています。
御城番屋敷(松坂)
松坂城に建物は残っていませんが、搦手には御城番屋敷が江戸時代のまま残っていて、現在も人が住んでいます。松坂城は蒲生氏郷が築きましたが、最終的には紀州藩が支配していました。ここを舞台に起きたのが紀州藩田辺詰与力騒動です。
■辞職して浪人に
発端は徳川頼宣が紀州に赴任した時、徳川家康に仕えた横須賀党という武士団が徳川頼宣につけられて紀伊に赴任しました。赴任場所は紀伊田辺で、田辺詰与力となり田辺城主である安藤家から扶持をもらうことになります。
横須賀党の面々は出向扱いで、紀州藩直属の直臣だと思っていましたが、扶持を出している安藤家は自らの家臣と思っています。これが200年にわたる諍いとなります。幕末に安藤家がいよいよ締め付けしてきたので、与力衆20名は集団で辞職し、浪人してしまいます。
■明治維新ですべてチャラ
一橋慶喜を巻き込むなど、紀州藩への復帰運動を行い、6年かかりましたが紀州藩直臣となり松坂の御城番になることができました。そして住んだのが新しく建てられた御城番屋敷です。職場復帰できたので、これで万々歳なんですが、しばらくして起きたのが明治維新。今度は士族全体が失職になってしまいました。士族授産で得た資産を元手に合資会社苗秀社を作り、明治の荒波を乗り切っていきます。現在も苗秀社は存続しています。
名張城
IT導入補助金セミナー(AMIC)
桑名商工会議所・会員交流会
昨夜は桑名商工会議所の会員交流会。
第1部で10社のPRがあり、PRが終わってからのコメントを頼まれていたので出席しました。コメンテーターは4名でしたが、うち1名は自身もPRするという面白い構成になっていました。さすがに自分でPRして、コメントするわけにはいきませんので、そのコメントはこちらにまわってきました。
なかなか華やかなイベントで、ウチも東大阪商工会議所会員なんですが、こんな交流会をやってくれないかなあ。第2部は会場後ろに20社ほどの展示ブースが設けられていて、展示ブースの見学会。
第3部は交流会ですが、乾杯前に、津軽三味線の生演奏。杉山大裕という23歳の奏者で、なかなかのイケメン。競技会でも優勝しており、優勝した曲の演奏もありました。桑名のユルキャラ「ゆめはまちゃん」によるPPAPもありました。
さすがに桑名から帰る間に、酔いはすっかり醒めてしまいます。
土田御前のお墓(四天王寺)
”津に信長のお母さんの墓があるの”という声があったので、三重県産業支援センターすぐ横の四天王寺に行ってきました。津藩・藤堂家の菩提寺です。ここに土田御前(信長のお母さん)の墓があります。土田御前の子供は信長、信行、秀孝、信包、市、犬といわれています。
織田信行は信秀からつけられた家老・林秀貞、柴田勝家と共に信長に反逆し、土田御前のとりなしで許しをえましたが、再度の反逆で信長に討たれました。本能寺の変のあとは孫になる織田信雄のもとにいましたが、この時は清州城にいたのでしょう。やがて、織田信雄と徳川家康が組んで小牧・長久手の戦いが起き、織田信雄は秀吉と和睦。小田原攻めの後に家康が関東に移され、空いた三河・遠江に尾張から移るようにいわれたのを拒否。これで改易されてしまいました。
居場所がなくなった土田御前はこの時に信長の弟である信包(三十郎)のところへやってきたのでしょう。信包は織田信長の伊勢攻めで中勢地域の名家・長野工藤家に養子にはいることで乗っ取った人物で、当時は津城にいました。土田御前は津で亡くなり、四天王寺に墓ができることになります。