伊勢神宮の式年遷宮では、木遣り歌を歌いながら台車に乗せた神木を引っぱるお木曳きが行われ、テレビなどで放映されました。
内宮、外宮の式年遷宮は終わりましたが、伊勢の国では、まだまだお木曳きが行われています。行われたのは関宿(亀山)と桑名。
関宿には東海道と伊勢別街道に分かれる東の追分があります。京や近江からお伊勢参りに行くには東の追分で伊勢別街道に入り伊勢を目指します。ここが伊勢神宮への西からの玄関口にあたります。東の追分に建っているのが鳥居。
鳥居の近くには、「これより伊勢へ」「外宮まで15里」と刻まれた石の道標が建っています。式年遷宮の際に、内宮の宇治橋が建て替えられますが、この宇治橋の鳥居の旧材を活用して、東の追分の鳥居が建て替えられます。つまりリサイクル。宇治橋の鳥居も、さらに20年前は内宮正殿の棟持柱でした。
江戸を出て熱田神宮の宮宿から七里の渡しを船で渡り、上陸するのが桑名。ここに伊勢国一の鳥居が建っていて、ここが伊勢へ向かう東側の玄関口になります。この鳥居も宇治橋の鳥居(おはらい町側)のリサイクル。さらに20年前は外宮正殿の棟持柱でした。
つまり棟持柱が20年建つと宇治橋の鳥居になり、さらに20年建つと伊勢への入口のとなる鳥居へリサイクルされます。土曜日に関宿で、日曜日には桑名でお木曳きが行われ、鳥居が建て替えられました。関宿などの旧鳥居はさらに全国の神社などへリサイクルされます。阪神大震災後で神戸の生田神社の鳥居が被災しましたが、この時は関宿の鳥居が使われました。
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三重県庁がある吉田山の名前の由来
2週間ぶりに三重県産業支援センターへ。
三重県産業支援センターが入居している三重県合同ビルの隣のビルが吉田山会館、三重県庁がある山を吉田山とよんでいますが、この吉田って人の名前だったんですね。
戦国時代に吉田六左衛門重勝という人物がいて、代々、弓術家の家系。近江・六角氏の家来でしたが、主君と争いになり、家伝が絶えることを危惧した父親が重勝に弓術の奥義を授けて京都に移らせました。
吉田重勝は多くの武将と交際し、細川幽斎とは特に親しかったようです。重勝の号は雪荷で、吉田流弓術雪荷派の祖となります。雪荷から免許を受けた武将には、細川幽斎、蒲生氏郷、豊臣秀長・秀次、宇喜多秀家らがいます。
重勝の子供が吉田元直で豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、秀長がなくなると浪人となって京都に在住。吉田元直が浪人していると聞いた藤堂高虎が招き、子孫は代々、藤堂家の弓術師範となります。吉田家は代々、六左衛門を称し、この吉田家に与えた土地が現在の県庁がある土地で、吉田山と呼ばれるようになったそうです。へ~え、家臣の名前が由来だったんですね。
もちろん三重県庁・職員の皆さんは全員がご存知でしょう。
水軍が移り住んだ久留島(津市)
津の実家周辺の地名が岩田。今はすっかり住宅地になってしまいました。
岩田は、もともと伊勢神宮の料地であった岩田御厨があった所。御厨とは神の台所という意味で、神饌を調進する場所や神饌を調進するための領地を意味します。
この岩田の一角にあるのが久留島。秀吉の朝鮮出兵では日本水軍の大将が藤堂高虎だったので、村上水軍の一派、来島水軍の将兵の一部が藤堂高虎に従い、そのまま住んだ所だそうです。すぐ近くには伊予町があり、こちらは藤堂高虎の前の領地だった伊予からついてきた町人が移り住んだところ。
そういえば日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎が戦勝報告を伊勢神宮にするために軍艦を引き連れ、上陸したのが津の港。水軍の大将だった藤堂高虎にあこがれていたようです。阿漕駅から伊勢神宮へ向かいました。
岩田と言えば有名なのが「岩田川の戦い」。伊勢の国司だった北畠の三代目が北畠満雅です。南朝方で、岩田川で足利幕府と戦い、討死してしまいます。これにより北畠氏の勢力が弱まりました。
大阪で住んでいる枚岡も南朝方(楠木正成)が敗れたところですし、いろいろとご縁がありますなあ。
かぎろひ(クラブツーリズム専用の団体列車)
今日は伊勢の企業まで出張相談。帰りに宇治山田駅に行くと「かぎろひ」がホームに止まっていました。
クラブツーリズム専用の団体列車「かぎろひ」です。2両編成で、年間を通して旅行会社が専用に使う団体列車は「かぎろひ」が国内初です。
クラブツーリズムとは近畿日本ツーリストの社内ベンチャーで生まれた中高年向けの国内外ツアー。ダイレクトマーケティングが特徴で、情報誌「旅の友」の宅配および新聞広告で集客しています。現在は近鉄の子会社になっています。
「かぎろひ」ですが時たま近鉄沿線で見かけることができます。
熊野古道センター
今日は三重県産業支援センターの仕事で尾鷲へ。
少し前まで国道42号線をひたすら走って峠をいくつも超えていかなければなりませんでしたが、高速道路が開通し、津からだと1時間少しで到着するようになりました。もっとも車窓はあまり楽しめず基本的にトンネルばっかりです。
IT相談に支援センターの職員と行ってきましたが、企業さんが尾鷲のはずれでしたので熊野古道センターで時間調整をしておました。
尾鷲といえば日本の平均降水量の2倍という雨の多い地域で木がよく育つため尾鷲ヒノキが有名です。そこで熊野古道センターは尾鷲ヒノキ・熊野杉という地場産の材料が使われて、なかなかすごい施設になっています。巡礼の道である熊野古道などを紹介。
熊野古道センターのすぐ横にはバイキングランチをしている「夢古道おわせ」があり、温泉にも入れますので、ぜひ尾鷲へ!
新年会(三重県産業支援センター)
昨晩は津駅近くの「バンブー」という居酒屋さんで新年会。
参加者は三重県産業支援センター内の北端にいるメンバーです。経営支援課の 経営向上班(小規模事業者向け経営革新支援)と新事業支援班(ファンド、創業補助金、設備資金貸付)。
私の机は経営向上班の一角にあります。そうか経営支援課という名前だったんだあ(笑)三重県産業支援センターには週に1回も行っていない状態で、久しぶりに支援センター・メンバーとの飲み会。
飲み放題で、なかなか、おいしい料理でした!
名張生まれの江戸川乱歩
「ハッハッハッハッ、明智君」といえば怪人二十面相です。今なら名探偵コナンですね。
明智小五郎、怪盗二十面相、少年探偵団とくれば江戸川乱歩。江戸川乱歩は名張市生まれで、生家跡は商店街から細い路地を奥に入った一角で今は公園になっています。もともとは武士の家系で祖父の代まで藤堂家の藩士でした。
小さい時に父の転勤で転居したので名張にはあまり足跡がありませんが、鳥羽造船所に勤めるなど三重県とは縁はけっこう深い作家です。鳥羽の離島から発想を得て「パノラマ島奇談」。鳥羽の後、上京し、団子坂上で兄弟三人と三人書房と名づけた古本屋を始めます。これが「D坂の殺人事件」となります。探偵文壇の大御所になってから生まれ故郷の名張を訪れています。
これが随筆「ふるさと発見記」になっています。
“私の生家の跡は、新町という大通りの裏手にあった。四間くらいの小さな借家だったという。家主は名張の城代の侍医で、その医院の裏に幾軒かの貸家が建っていた、その一つを父が借りたのである。”
名張にある造り酒屋・木屋正酒造から「幻影城」というお酒が出ています。
伊勢へ
IT窓口相談で伊勢商工会議所へ。
写真は伊勢商工会議所1階の様子です。たまには近鉄ではなくJRの「快速みえ」に乗って伊勢へ行こうとしたのが失敗。
津駅は定刻通りに出ましたが、高茶屋駅ー松阪駅間が強風のため減速運転となり、結局25分遅れで伊勢市へ到着。商工会議所横に新しくできた店でランチをと思っていたら時間ギリギリで、お昼はなしでした。(泣)
1食、抜いても全然やせませんが(笑)
関西とは鈴鹿関の西のこと
関西の語源は関の西側という意味。関というのは不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関(弁慶の愛発超えで有名)の三関のことで関宿には鈴鹿関がありました。ですので鈴鹿関の東側にある四日市、桑名、名古屋は古代では関東でした。
鈴鹿関がどこにあったのか長らく謎でしたが「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)ちかくにある観音山麓から西城壁跡が見つかりました。観音山から城山を通って鈴鹿川まで長い城壁が続いていたようです。古代の関は江戸時代の箱根の関のようなイメージではなく、ずっと城壁が続き、現在の関宿をすっぽり囲んでいました。
→ 亀山市史(鈴鹿関の再現動画)
「壬申の乱」の大海人皇子の時代には関宿には鈴鹿郡家がありました。壬申の乱の後に鈴鹿関が整備されます。
大海人皇子は吉野から逃れて、鈴鹿郡家までたどりついたところで、ようやく東国に入ったと安心します。伊勢国司が応援に出迎え、近江軍に対抗するために鈴鹿の道を封鎖します。ここで合流したのが近江京を抜け出してきた大津皇子。後に持統天皇の謀略で謀反の疑いをかけられ二上山に葬られる、あの大津皇子です。当時は9歳ぐらいでしたのでお供がいたとしても大変だったでしょう。
江戸時代の宿場が残る関
日曜日、セミナー前に関宿を歩いてきました。
東海道53次の47番目の宿場町「関宿」は、まさに江戸時代のオープンセット。町屋が200棟以上も現存し、東海道で唯一、往時の町並みが残っています。中山道の奈良井宿も趣きありますが、関宿は規模が大きいですね。
東海道と大和道が分岐する西の追分から、東海道と伊勢別街道が分岐する東の追分までの約1.8kmに街並みが続きます。東の追分にある鳥居は20年に一度の式年遷宮の際に、内宮にある宇治橋の鳥居が新調されますが、それをリサイクルしたもの。もう一つの鳥居は桑名の七里の渡し跡にある鳥居にリサイクルされます。東の追分から伊勢別街道に入ると、そこから伊勢神宮の神域でした。
関宿を全部歩くと、けっこう時間がかかりそうだったので、関駅から西の追分まで歩きましたが、まあまあ距離がありました。
精一杯がんばることを「関の山」と言いますが、語源になっているのが関の山車。全盛期には16台ありましたが、現在は4台となっています。山車が壮麗で、これ以上は豪華にできなかったことと、山車をこれ以上、大きくすると道を巡行できなくなることから「関の山」という慣用句が生まれました。