天理参考館

天理参考館

せっかく天理へ行ったので天理参考館に寄ってきました。正式名称は天理大学・附属天理参考館で、建物は天理教の独特のデザインになっています。入館料500円で誰でも入れます。

エントランスにはでっかいオルメカ石頭像があり、1階・2階が世界各国から集められた民俗・生活資料が展示されています。国立民族学博物館よりもちょっと小ぶりな感じです。

目的は3階で考古学フロアになっています。天理にある日本最大の前方後方墳である西山古墳や布留遺跡の展示が充実しています。一角に中国の古代のでっかい石碑などが並んだところがあり圧巻です。

超国宝

超国宝

    連休合間の平日ならすいているだろうと夕方、奈良国立博物館へチケット売場もガラガラで正倉院展のオータムレイトよりも、すいていました。入口すぐに法隆寺の百済観音があって360度、眺められるようになっていました。

    この入口近くにあった小さな仏像ですごくって、光背の文字が読めるようになっていて止利仏師が物部大臣(蘇我馬子のこと)に送ったと記載されています。他にも求道僧円珍が持ち帰った物の一覧表もありました。七支刀が目的でしたが思ったよりも小さかったですね。

    入鹿の首塚

    入鹿の首塚

    乙巳の変-645年に起きたクーデター。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変の後に行われる政治制度改革を大化の改新と呼んでいます。

    中大兄皇子と中臣鎌足が談山で密談し、三韓(新羅、百済、高句麗)からの使者が来日した式典にあわせて蘇我入鹿を暗殺します。今なら皇居で外国の特命全権大使が信任状を捧呈している最中に総理大臣を暗殺するようなものです。蘇我蝦夷は甘樫丘にあった蘇我邸を燃やし自殺します。昔からいろいろ説がありますが、結果的に一番得をしたのが孝徳天皇(軽皇子)なので首謀者ではないかと言われています。

    飛鳥寺の横に入鹿の首塚があり、邸宅があった甘樫丘が見えますが、暗殺されたのはここではなく飛鳥板蓋宮になります。切られた首が飛んできて埋めたという伝説があります。

    日本史には全然、出てきませんが蝦夷には蘇我善徳(蘇我馬子の息子)という兄がいて飛鳥寺の初代寺司を務めていました。業績を書くとまずいのか日本書紀には一文しか出てこない謎の人物です。

    豊浦宮

    豊浦宮(とゆらのみや)

    豊浦宮

    甘樫丘からちょっと行ったところに豊浦宮跡がありますが、飛鳥寺などの華やかさがないためか観光客は誰もいません。592年に推古天皇が即位した宮殿で推古天皇の祖父である蘇我稲目の向原の家がありました。

    ■仏教伝来の地
    百済から仏像が送られ蘇我稲目がこれを受け入れて、向原の家を寺として安置しました。反対したのが物部守屋です。昔、日本史で習いましたね。その後、疫病が流行ったため物部氏、中臣氏が国神のたたりだと騒ぎたて仏像を難波の堀江に流し、寺は焼きはらわれます。この仏像が拾われて長野に運ばれて善光寺におさめられました。ほんまかいな。

    仏像を捨てた難波の堀江ですが大阪の大川もしくは阿弥陀池(和光寺)、向原寺の横にある池などの諸説があります。

    推古天皇の一代前の崇峻天皇は桜井から談山神社へ行く途中にある倉橋に宮殿をおいていました。ところが崇峻天皇は蘇我氏と対立し、馬子に暗殺されてしまいます。蘇我氏は本拠地である飛鳥に天皇を囲いこもうとしたようで、豊浦宮-小墾田宮-飛鳥岡本宮と宮が作られます。ここから飛鳥時代がスタートします。乙巳の変の後、孝徳天皇は大和の地を離れて難波宮へ移りました。

    亀形石造物

    亀形石造物

    丘の上にある酒船石遺跡から降りると2000年に見つかった亀形石造物があります。昔は整備されていなかったのですが、今はきれいになって整備のために一人300円を徴収していました。斉明天皇が道教を信仰していたので、祭祀が行われた遺構とみられています。

    ■四天王寺の方が古い?
    四天王寺からよく似た亀形石造物があります。境内にある亀井堂で「経木(きょうぎ)流し」が行われていて、古本市などが行わるとよく見に行きます。亀をかたどった石の水槽と、そこから出た水を受ける同じく亀の形をした石の水槽からなっています。

    2019年に調査が行われ古墳時代の石棺などに用いられた「竜山石」でした。飛鳥時代には使われていたようで、亀形石造物より古いのではという説もあります。そんなものが今も現役で使われているんですね。

    乙巳の変後に孝徳天皇は難波京へ遷都し、四天王寺は都の南限でしたので祭祀に使われていたのでしょう。

    狂心渠(たぶれごころのみぞ)

    狂心渠(たぶれごころのみぞ)

    斉明天皇がつくった大運河です。あまりに大規模で民衆の負担が大きかったことから狂った心の運河(狂心渠)と呼ばれました。日本書紀に石上(いそのかみ)山まで運河をつくり、石上山の石を舟200隻で運び宮殿の東の山に石垣を造ったとあります。この東の山が石垣が見つかった酒船石がある丘だと考えられています。

    石上山は天理にある豊田山のことで頂上には豊田城があります。発掘調査で狂心渠の流路が判明しつあり、飛鳥では飛鳥坐神社の西側にある小川が運河跡になります。当時の運河の幅は10mで深さは1.3mありました。京都の運河・高瀬川の幅が8mなので、それよりも大きいですね。先日の歴史探偵では斉明天皇はインフラ整備を行ったと評価が高かったのですが実際はどうですかねえ。

    ■有間皇子
    狂心渠といえば有間皇子です。有間皇子は孝徳天皇の皇子で「天上の虹」では主人公の讃良(持統天皇)が最初に恋心を抱く相手でした。この有間皇子が蘇我赤兄にはめられます。

    「天皇の政治には三失がある。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ目、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ目、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ目である」ピンポン!狂心渠の話です。謀反計画がすすみますが蘇我赤兄が中大兄皇子に密告しアウト。19歳で殺されてしまいます。

    万葉集には殺される前の「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る」が残されています。

    酒船石

    酒船石

    飛鳥の主目的は酒船石遺跡です。

    NHKの「歴史探偵」では酒船石を3Dスキャンで作った復元モデルで実験を行っていました。水を流すと笹舟をがくぼみに沿って流れていき、ランダムな穴に入ることから斉明天皇が占いに使ったという説でした。笹舟石が酒船石になったという説があり、これにのっとった実験でした。

    酒船石、昔は「三つ目がとおる」でも描かれていましたね。酒船石は小高い岡の上にありますが、新たに岡の中腹から石垣が見つかり展示されていました。日本書紀に「宮の東の山に石を累ねて垣とす」に該当すると考えられています。というと斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)はここだったんですね。ということで酒船石よりもこの石垣を見るのが目的です。

    ■両槻宮
    日本書紀には「田身嶺(多武峰)の上の両つの槻の樹の辺り」と記述があり、談山神社から少し歩いた念誦崛(ねずき)にある石垣が両槻宮かなと、見に行きましたが、山の上の不便なところに宮を作る理由がさっぱりでした。酒船石の丘なら話が分かります。となると日本書紀の記述はどう考えるんですかねえ。

    甘樫丘

    甘樫丘

    甘樫丘へ

    標高は140mほどで頂上から大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)や二上山がよく見えます。奈良平野で動きがあるとよく分かるので、飛鳥時代は見張り台があったのでしょう。麓に蘇我蝦夷、入鹿の邸宅があり、蘇我氏が活躍していた頃の遺構が先日、発見されました。

    甘樫丘から反対側を見ると多武峰と飛鳥寺がよく見えます。645年に乙巳の変で入鹿が中大兄皇子らに暗殺されますが、入鹿の首塚が甘樫丘の真下に見えます。入鹿が殺された飛鳥板蓋宮とは少し離れています。蘇我蝦夷は邸宅に火を放って自害します。乙巳の変はよく分かっていませんが、一番得した人物から考えると軽皇子(孝徳天皇)が糸を引いていたのでしょう。

    矢田丘陵へ

    生駒山

    先週・土曜日は珍しく奥さんと休みが一緒だったので「生駒山に登ろう」という提案が

    誤解している人が多いのですが、山城は好きでも山に登るのは疲れるだけなので、ごめんこうむりたいと思っています。山城が山の上にしかないので仕方なく登っているだけです。

    生駒山は標高642mもあり、2時間以上ひたすら登りです。これは御免こうむりたいと「飛鳥の甘樫丘に登ろうと」と提案して飛鳥へ行ってきました。甘樫丘は標高148mです。

    昨日・土曜日も、はたまた珍しく休みが一緒で再度、生駒山の提案が....

    こりゃ甘樫丘レベルではダメかなと矢田丘陵へ。矢田丘陵は生駒山の東側にある丘陵で、東大寺・二月堂から観光客が「生駒山が見える」と言っていますが、あれは矢田丘陵です。

    萩の台駅から矢田峠(標高340m)を目指します。ゆるやかな登りで30分ほど登ればよいので生駒山より楽ですねえ。縦走路があり、アップダウンを繰り返しますので、けっこう足にきます。ここをトレインランニングする酔狂な人間が何人かおりました。

    亀石

    亀石

    飛鳥のシンボルといえば亀石

    歩道のすぐ横にドデンと置いてあります。斉明天皇時代に朝鮮半島から来た石工によって作られたそうなので、ざっと1400年間は飛鳥にあります。ユーモラスな顔ですが、なんの目的でこんなものを作ったのかよく分かっていません。

    飛鳥時代には幅12メートルの東西道路が通っており、何らかの目印だったんですかねえ。昔から亀石は有名で江戸時代に発行されたガイドブック「大和名所図会」にも出てきます。