訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)

訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)

桜井に戒重(かいじゅう)という地域があります。敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)があったと伝わっています。敏達天皇は欽明天皇の皇子で、物部尾輿、蘇我稲目が活躍した時代です。

欽明天皇が百済の聖明王から仏像と経典を受け取り、蘇我稲目が祭ることになりました。その後、廃仏派の物部尾輿と崇仏派の蘇我稲目の対立しますが、ちょうど疫病が流行したため仏を祭ったからだと物部尾輿が敏達天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させて豊浦寺(向原寺)を燃やします。

■善光寺
仏像は難波の堀江に捨てられたのですが飛鳥から、わざわざ難波に仏像を運んで大川にまで捨てにいったんですかねえ。豊浦寺の前に池があるので、こちらに捨てたという説もあります。この仏像を拾い上げたのが本田善光で、信濃の家に持って帰って、おれが善光寺になりました。

敏達天皇はこれが心労になったのか病で亡くなり、仏教問題は次世代に引き継がれます。厩戸皇子(聖徳太子)のお父さんである用明天皇が即位し、蘇我馬子らが物部守屋を滅ぼします。実際はそんな単純な話ではなく半島情勢なども大いに影響していたのでしょう。

大和三山をゆく(5) 天の香具山

國常立神社

標高は152.4メートルで登りやすい山です。神武東征では大和に入る前に、この山の土で土器を作り天津神を祀ったことから大和平定できたと言われ呪術的な山になっています。有名なのが持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」ですね。

中ツ道はこの香具山山頂を起点にしており、山頂には天地開闢の際に出現した最初の神をまつる國常立(くにとこたち)神社があります。あまり眺望はよくありませんが、木々の間からちょこっと大和の街が見えるぐらいです。

天香山命(あめのかぐやまのみこと)という神さまが神武天皇が危機の時に布都御魂という刀を渡して助けます。布都御魂は石上神宮のご神体になっています。この天香山命は尾張氏の先祖で壬申の乱では大海人皇子に味方し、継体天皇の奥さんも尾張氏で熱田神宮の横にある断夫山古墳はこの奥さんのお墓という説があります。

大和三山をゆく(4) 紀寺跡

紀寺跡

本薬師寺跡から東へ向かうと香具山の麓に紀寺跡があります。紀とついているので紀氏の氏寺と考えられています。紀氏は生駒郡平群町にあった紀里出身の古代豪族で紀氏の有名人といえば古今和歌集や土佐日記で有名な紀貫之ですね。

紀寺のある場所は藤原京の左京8条2坊全域(4町)で発掘調査で金堂跡、講堂跡、回廊および南門跡が見つかり、南門・中門・金堂・講堂が一直線に並んでいました。四天王寺式の伽藍配置ですが、実際に本当の紀寺かどうかはよく分かっていません。

平城遷都で移転し、元興寺の南にある璉珹寺が紀寺跡と言われていますが、こっちも本当かどうかわかっていません。

大和三山をゆく(3) 本薬師寺跡

本薬師寺

畝傍山から香具山を目指して東へ。途中にあるのが本薬師寺跡です。といっても跡地が拡がっているだけです。東西に2つの塔があり、金堂がある薬師寺と同じ伽藍になっています。平城京への遷都で西の京へ移築され薬師寺になったと言われていましたが、そうとも言えるし新たに西の京で薬師寺が作られた痕跡もあり、移設したのか別に作られたのか、よう分かっていません。ただ西の京の薬師寺と区別するために本薬師寺と呼ばれています。

金堂があった場所には小堂が建っていて、その前に金堂の礎石などが並べられています。塔の向こう側に畝傍山をみることができます。

大和三山をゆく(2) 畝傍山

畝傍山

橿原神宮から畝傍山に登る登山道があります。畝傍山の標高は198.8メートルで大和三山では一番高いのですが、山頂の眺望はそんなによくありませんが、木々の間から天香久山や耳成山が見られます。畝傍とは「火がうねる」の意味からきており古代から火山だと分かっていたようです。

帰りは山頂から違う道を降りることに、途中の分岐があり、そうそう以前に登った時は左を選んでしまい、えらい急坂を降りることになって最後は道なき道を行くことになったところです。今回は学習済ですので右を選んで無事に下山できました。

大和三山をゆく(1) 橿原神宮

橿原神宮

珍しく奥さんと休日が一致。「大和三山へ行こう」という申し出に「ハイハイ」と応じたのはよいのですが、まさか三山すべてに登る強行軍になるとは(笑)

とりあえずは畝傍山の麓にある橿原神宮です。明治23年(1890年)明治天皇が創建しました。大きな干支の絵馬があります。

■神武天皇陵
日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。

幕末、尊王攘夷から天皇陵探索の気運が拡がりました。神武天皇陵の候補地として塚山説・ミサンザイ説・丸山説の三説があり、最終的に孝明天皇がミサンザイの地に決定しますが、藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳(現綏靖天皇陵)や丸山説も有望です。つまりよう分からんということです。

■皇紀
辛酉(しんゆう)は「かのえとり」とも呼ばれ天命が改まると考えられました。60年ごとに訪れる辛酉の年が21回めぐる1260年ごとに、この世を揺るがす大革命が起きる考え方があります。明治から考えると601年が辛酉の年で推古天皇と聖徳太子の時代でした。そこから、さらに1260年を遡った紀元前660年を神武天皇の即位とし、これが皇紀になります。

杉山古墳

若草山

平城京を造営する時に古墳などを壊しましたが、大安寺では杉山古墳という前方後円墳を敷地に取り込んでいます。

大安寺では古墳を壊しながら麓に瓦窯を6基作っていました。奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いていたようです。前方部から土砂や葺石が運び出して資材調達に使っていたようですが、古墳そのものは残っています。

5世紀後半頃にできた古墳のようで公園として整備されていて登ることができ若草山などを一望できます。墳丘長は150メートルほどあったようですが、現在は120メートルほどになっています。

大安寺

大安寺

大安寺は2つの塔がある巨大な寺でした。塔の基壇跡がしっかり残っています。

大安寺は厩戸皇子(聖徳太子)が平群につくった熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が大本です。名前は祇園精舎にならいました。そこから百済大寺、高市大寺、大官大寺となり平城京遷都によって大安寺になりました。

舒明天皇が百済大寺を作りましたが建設途中で落雷による火災などにあったようです。これが子部大神の怨みと考えられ皇極天皇は夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺で九重塔とみられています。大安寺の失われた塔も九重の塔でした。

天平の甍(大安寺)

大安寺

辰市城から北上し、平城京の南限である九条を超えていくと大安寺があります。ちょうど本堂で神楽を演奏しながら舞が行われていました。

大安寺といえば普照(ふしょう)ですね。井上靖の「天平の甍」に苦難の道が描かれています。

許可なく出家する私度僧が多く、唐から戒律は伝わっていましたが不完全なものでした。そこで聖武天皇は唐から優れた僧を招くことにします。命をうけたのが大安寺僧だった普照と栄叡で養老5年(733年)に派遣される遣唐使に加わります。唐に滞在して10年目に鑑真と出会い、日本への渡航を要請します。快諾をえますが、そこからが大変で、日本への渡航が5回も失敗し鑑真は失明してしまいます。また749年には苦楽をともにした栄叡が唐で病死してしまいました。

6度目にしてようやく渡航が成功し、天平勝宝6年(754年)平城京に鑑真が到着します。普照が唐に渡って20年が経っていました。鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武天皇などに戒を授けます。やがて唐招提寺が建立されます。

正倉院展 孝謙天皇譲位の宣命

正倉院展

第77回正倉院展へ。いつものように最終で入館するオータムレイトチケットです、今年はレイト割という名前になっていました。平日は16~17時入館(18時に閉館)で、20年ぐらい前は16時すぎに行けばスイスイ入れましたが最近は16:20分ぐらいまで行列ができています。入口近くのお店でビールを飲んで、しばし待機し、16:30ぐらいに入館。会場内はまだまだ人でいっぱいでした。落ち着いて見るには17時前ギリギリに入るのがよさそうです。

■孝謙天皇譲位の宣命
今年の目玉は蘭奢待と瑠璃杯だそうで、人だかりがすごかったですね。それよりもすごかったのが孝謙天皇宣命の古文書です。宣命というのは天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書のことで、いわゆる詔勅が漢文体になります。内容は孝謙天皇譲位で天平宝字2年(758年)のものです。

■恵美押勝の乱へ
前年に藤原仲麻呂(恵美押勝)の権勢に危機感を抱いた橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)らが起こした乱が藤原仲麻呂に鎮圧され、孝謙天皇は「譲位の宣命」を発して、皇太子・大炊王(淳仁天皇)に譲位、上皇となります。この後に、恵美押勝と対立するようになり道鏡問題もからんで恵美押勝の乱となります。日本史で習いましたねえ!

この古文書で天皇となった淳仁天皇とも対立して廃され、孝謙天皇は称徳天皇として重祚します。