甘樫丘

甘樫丘

甘樫丘へ

標高は140mほどで頂上から大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)や二上山がよく見えます。奈良平野で動きがあるとよく分かるので、飛鳥時代は見張り台があったのでしょう。麓に蘇我蝦夷、入鹿の邸宅があり、蘇我氏が活躍していた頃の遺構が先日、発見されました。

甘樫丘から反対側を見ると多武峰と飛鳥寺がよく見えます。645年に乙巳の変で入鹿が中大兄皇子らに暗殺されますが、入鹿の首塚が甘樫丘の真下に見えます。入鹿が殺された飛鳥板蓋宮とは少し離れています。蘇我蝦夷は邸宅に火を放って自害します。乙巳の変はよく分かっていませんが、一番得した人物から考えると軽皇子(孝徳天皇)が糸を引いていたのでしょう。

矢田丘陵へ

生駒山

先週・土曜日は珍しく奥さんと休みが一緒だったので「生駒山に登ろう」という提案が

誤解している人が多いのですが、山城は好きでも山に登るのは疲れるだけなので、ごめんこうむりたいと思っています。山城が山の上にしかないので仕方なく登っているだけです。

生駒山は標高642mもあり、2時間以上ひたすら登りです。これは御免こうむりたいと「飛鳥の甘樫丘に登ろうと」と提案して飛鳥へ行ってきました。甘樫丘は標高148mです。

昨日・土曜日も、はたまた珍しく休みが一緒で再度、生駒山の提案が....

こりゃ甘樫丘レベルではダメかなと矢田丘陵へ。矢田丘陵は生駒山の東側にある丘陵で、東大寺・二月堂から観光客が「生駒山が見える」と言っていますが、あれは矢田丘陵です。

萩の台駅から矢田峠(標高340m)を目指します。ゆるやかな登りで30分ほど登ればよいので生駒山より楽ですねえ。縦走路があり、アップダウンを繰り返しますので、けっこう足にきます。ここをトレインランニングする酔狂な人間が何人かおりました。

亀石

亀石

飛鳥のシンボルといえば亀石

歩道のすぐ横にドデンと置いてあります。斉明天皇時代に朝鮮半島から来た石工によって作られたそうなので、ざっと1400年間は飛鳥にあります。ユーモラスな顔ですが、なんの目的でこんなものを作ったのかよく分かっていません。

飛鳥時代には幅12メートルの東西道路が通っており、何らかの目印だったんですかねえ。昔から亀石は有名で江戸時代に発行されたガイドブック「大和名所図会」にも出てきます。

飛鳥おもいで堂

飛鳥おもいで堂

飛鳥へ行ったついでに飛鳥おもいで堂へ寄ってきました。

飛鳥って果物や野菜などは販売していますが、意外におみやげ物が少ないのです。飛鳥おもいで堂では店主が3Dプリンターを使って埴輪グッズなど、様々なオリジナル商品などを作っています。

場所は石舞台古墳へ向かう道の途中にあるCafeことだまの裏側(駐輪場、駐車場)にあり、倉庫を改造した建物です。って、初めて行ったのですが(笑)

店主は西川さんという中小企業診断士仲間です。

→ 飛鳥おもいで堂

猿石

猿石

久しぶりに飛鳥へ出かけてきました。飛鳥駅の近くに吉備姫王墓があり、ここに猿石があります。以前に来た時は木々が生い茂っていたのですが、きれいに整備され見やすくなっていました。猿石はもともとは赤穂浪士の討入があった元禄15年(1702年)に田んぼから掘り出されました。

今昔物語集にも出てくるので欽明天皇陵の麓に昔からあったようです。高取城の入口にも猿石があり、掘り出された猿石群の一つだったものが高取城の築城時に運び去られたといわれていますが諸説あります。

雪の談山神社

談山神社

天気がよさそうなので、未踏の北山城(多武峰城塞群の一つ)を目指すことに、まずはベースになる談山神社を目指します。桜井駅からバスで深い山に入っていくと、あたりは雪だらけ。昨日、積もったんですね。十三重塔など社殿は雪だらけ。

晴れているので木の枝に積もった雪がボコボコと爆弾のように落ちてきます。

お水取り

奈良に春の訪れを告げる「お水取り」です。

お水取り

■お水取りとは
3月12日深夜に二月堂の前にある閼加井屋(あかいや)に水を汲みにいくことから「お水取り」と呼ばれるようになります。この水は若狭国から10日かけて地下を通ってやってきます。「お水取り」は修二会(しゅにえ)という不退の行法で3月1日から14日まで行われます。修二会が始まったのは大仏開眼の年である天平勝宝4年(752年)。不退の行法ですので以来、途絶えることなく続き今年は1274回目になります。

修行を行うのは11人の僧侶で練行衆と呼ばれます。以前、NHKが練行衆の修行に密着した番組を放映していましたが深夜まで五体投地などすさまじい行法をやっていました。有名な火の松明は練行衆が二月堂に登廊を登る時の道明かりです。これが江戸時代ぐらいから大きくなり練行衆を先導する童子の見せ場としてパーフォーマンスされることになります。

■スケジュール
練行衆登壇の30分前になると二月堂付近の木々などに消防ホースで大量の水が掛けられます。20分前になると修二会の解説があり、その後に英語、中国語による短めの解説があります。ハングルはないんですねえ。直前になると付近のライトが消え、真っ暗な中、鐘が響き、二月堂への長い回廊を大きな火の松明に導かれて練行衆が登廊していきます。

いよいよ童子が火の松明を振り回しますが、その前に大きな木を打ちつける音がします。内陣に入る前に練行衆が木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす儀式で、これを合図にテレビでよく見る松明の行事が始まります。松明自体は20分ほどで終わりますが、練行衆は夜明け前まで修行を続けます。

帰りは観客が一斉に移動するので、なかなか大変です。南大門を通らずに横に抜ける道で奈良駅を目指すと早く帰れます。

磐余若桜宮

磐余若桜宮

上之宮遺跡から下っていき桜井駅が近づいてくると稚櫻神社があり、ここが第17代履中天皇の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)比定地です。

境内には桜井の名前の元になった「櫻の井」という井戸もあります。日本書紀によると履中天皇は磐余池を造り、船遊びをした時に杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、磐余稚桜宮としたとされています。ところが磐余池がどうもずっと西にある東池尻・池之内遺跡(中ツ道沿いにあります)だったようですので、近くにある磐余稚桜神社が磐余若桜宮のようです。こっちも高台になっています。

上之宮遺跡

多武峰街道を少しはずれて上之宮遺跡へ

上之宮遺跡

河岸段丘の上ですので高台になっていて住宅地の真ん中に公園があります。このあたりから6世紀末ぐらいにつくられた大きな邸宅跡が見つかりました。邸宅だけでなく庭園も整備されていて石組みによる園池遺構が見つかり復元されています。水の祭祀場遺構という説もあります。

■聖徳太子の上宮?
遺跡が見つかった時、大騒ぎになったのが聖徳太子の上宮(かみつみや)ではないかという報道です。聖徳太子が幼少の頃、磐余(いわれ)に住んでいました。宮殿は上宮と呼ばれ、聖徳太子は上宮厩戸豊聰耳太子と呼ばれていました。日本書紀によると斑鳩に移るまで住んでいたようで、父である用明天皇の磐余池辺犨槻宮の南に上宮があったということです。

磐余池辺犨槻宮の伝承地が2つあり、1つが石寸山口神社周辺で、もう一つが吉備春日神社です。これなら上之宮遺跡が南側にあるので上宮の可能性が高くなります。ところが2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池ではないかといわれています。伝承地のずっと西にあります。こうなると上之宮遺跡は東南になりますので、このあたりを拠点にした安倍氏関係かもしれません。

崇峻天皇陵

崇峻天皇陵

倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。

明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。

尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。