桃太郎は奈良生まれ

竹取物語には藤原氏告発本という側面がありますが、同様に”おとぎ話”にはいろいろな側面があります。

桃太郎
桃太郎

桃太郎といえば鬼ケ島への鬼退治で有名ですが、一説には吉備津彦命による温羅退治伝説であると岡山では宣伝していますが諸説あります。

■吉備津彦命は奈良生まれ
孝霊天皇の皇子なので都があった黒田廬戸宮で生まれたといわれています。近鉄田原本線・黒田駅のすぐ近くです。吉備津彦命は四道将軍の1人となり、西道に派遣されます。

纏向遺跡の発掘で吉備が大和政権設立に貢献した強国ということが分かっていますが、どっかで方針があわなくなったのか吉備は政権に攻められる側となります。この時に吉備津彦命が派遣され温羅退治伝説になったと言われています。吉備津神社縁起物によれば犬飼という名前の部下がいたのと猿飼部、鳥飼部の一族を引き連れていたそうで、これが犬、猿、キジとなっていきます。ほんまかいなあ(笑)。

天平の疫病

疫病シリーズNo2は737年に起きた天平の疫病です。天然痘の大流行でした。

長屋王邸跡
長屋王邸跡

天平年間、藤原不比等には4人の息子がいました。武智麻呂、房前、宇合、麻呂で藤原四兄弟と呼ばれています。同じ頃に台頭していたのが長屋王。父親は壬申の乱で大活躍をした天武天皇の長男である高市皇子です。奈良そごう(その後イトーヨーカ堂→ミ・ナーラ)があった場所が長屋王邸で平城京極近の一等地です。

■長屋王
長屋王邸では夏には氷室から氷を運ばせて楽しむ生活をおくっていましたが、今でいう商家(邸宅+会社)のような家でした。平城京の東市、西市にも店を出していて、弁当(笥に入れて販売。今でいうホカ弁)と酒を出品していました。お米がたくさんあったので付加価値をあげて稼ぐ、なかなかの商売人です。

長屋王に近い人物が大伴旅人ですが、藤原四兄弟によって大宰府に追いやられます。大伴旅人が大宰府で行った梅花の宴での歌から令和となりました。軍事一族の頭である大伴旅人を追いやってから藤原四兄弟が無実の罪で長屋王を密告し長屋王は滅びます(長屋王の変)。

■法華滅罪之寺
長屋王の変の後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原政権を樹立します。ところが天平の疫病で四兄弟とも病死。長屋王の祟りと皆が噂します。一番ショックを受けたのが光明皇后で貧しい人に施しをするための悲田院、医療施設である施薬院を設置して慈善を行います。法華滅罪之寺(法華寺)を建立し、藤原氏の罪を何とかしようと邁進しました。

出雲神が祀られた大神神社

奈良東部に桜井があり南には飛鳥、北には邪馬台国畿内説の最優良候補である纏向遺跡があります。古代の超一等地で、ここに鎮座するのが大和一ノ宮・大神神社です。ご神体は三輪山です。

三輪山
三輪山

■疫病が原因だった
崇神天皇の時代、国中に疫病がはやり死者がたくさん出ます。いろいろと祈祷しましたが効果はありません。崇神天皇の夢に大物主神があらわれ子孫である大田田根子(おおたたねこ)に自分を参らせたら、うまくいくと言われます。大田田根子を探し出し、大物主神を祀らせたところ疫病が収まりました。こうしてできたのが大神神社です。

■疫病の原因は出雲神の祟り?
崇神天皇は実在した可能性のある最初の天皇で、有名なのが四道将軍の派遣で全国を掌握をはたします。ですので、「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれています。

不思議なのが高天原から天下った神様が天照大神など天津神で、子孫が天皇家です。中心地である三輪山に天津神を祀るのが筋ですが、なぜか国津神(土着の神様)である大物主神を祀ることになります。

しかも大物主神の別名は大国主大神です。そう出雲大社の祭神です。無理やり国譲りをさせたので、疫病の原因は祟りだと思ったんでしょうかねえ。

太子道

太子道
太子道

先週のブラタモリは斑鳩の法隆寺が舞台でした。もともとあったのが聖徳太子の斑鳩宮で現在の東院伽藍の場所に建っていたようです。今の法隆寺は堂塔が真南に面していますが、法隆寺から東院伽藍に向かうとまっすぐな道になっておらず、今も少しずれています。当時は伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていましたので斑鳩宮も同様だったのでしょう。

このずれをずっと伸ばしていくと20kmほど離れた飛鳥になります。斑鳩と飛鳥を結んだのが太子道(筋違い道)で上ツ道、中ツ道、下ツ道が南北を結ぶ道に対して太子道だけが20度ずれた斜道になっています。痕跡は現在も残っていて、保津の環濠集落から近鉄・田原本線の黒田駅へ向かうあたりにきれいに残っています。現地に行けば単なる細い車道なんですが(笑)。

五条野丸山古墳

五条野丸山古墳
五条野丸山古墳

近鉄・岡寺駅のすぐ近くにあるのが五条野丸山古墳。奈良で最大、全国でみても第6位の巨大な前方後円墳です。よく整備されて、上まで登れます。

丸山古墳には2つの石棺があり、被葬者は蘇我稲目などの名前があがっていましたが、飛鳥都塚古墳がどうやら蘇我稲目の墓のようですので、欽明天皇&堅塩媛(きたしひめ)堅塩媛(きたしひめ)の夫婦墓説が濃厚です。

欽明天皇といえば百済から仏教が伝わり、蘇我稲目と物部尾輿による崇仏派、排仏派の争いを巻き起こすことになります。任那が滅亡した時でもあり半島情勢が大変な時の大王でした。

奈良湖の亀石

亀石
亀石

多武峰城塞群の出口が飛鳥の岡寺となります。帰りは近鉄線に出るしかないので、久しぶりに飛鳥をぶらつき、ついでにユーモラスな顔をしている亀石を見てきました。

古代、奈良湖があった時代、當麻の蛇と争って負けたことから水を吸い取られ奈良湖の亀が皆、死んでしまいました。哀れに思った村人によって造られたのが亀石だそうです。亀石の頭は南西を向いていますが、西(當麻)を向いた時に、奈良湖が復活するといわれています。万城目学あたりが小説に書きそうな題材です。

飛鳥や當麻は高台で奈良湖はもっと標高の低い郡山などの一帯のはずなので、亀石の奈良湖伝説はあまりあてにならないですね。

談山神社・西口 食違虎口

談山神社・西口
談山神社・西口

談山神社の西入口(飛鳥側)にある喰違虎口です。

虎口というのは入口のことで、喰違はまっすぐに侵入できず折れて侵入させる仕掛けです。これで攻撃力が落ちます。身近な例ではトイレ入口ですね。あれが喰違虎口です。神社で使われているのは珍しいですねえ。

大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていますが、出陣シーンなどに櫓門が使われており、まっすぐに進む形式です。もう少し工夫がほしいですね。そうそう麒麟というのは織田信長のことで信長の花押(サイン)が麒麟の「麟」をモチーフにしています。

この花押を使いだしたのが13代将軍である足利義輝が三好三人衆らに殺害され、室町幕府が崩壊した時点です。”俺が平和な世の中を作る”と考え天下布武とあわせてスローガンとしたようです。

談山神社

談山神社
談山神社

中大兄皇子&中臣鎌足が起こした蘇我入鹿暗殺事件。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変と呼ばれています。乙巳とは丙午(ひのえうま)と同様に干支の組み合わせのことで645年を指します。

法興寺(現在の飛鳥寺)で蹴鞠があった時、中大兄皇子の靴が脱げ、それを拾って差し出したのが中臣鎌足。これが縁となって2人はクーデタに邁進していきます。密談を行ったのが飛鳥の東側にある多武峰という山々です。

中臣鎌足が亡くなってから、長男の定慧和尚が留学中の唐より帰国し父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。これが談山神社(たんざんじんじゃ)となります。入山料は一人600円で社殿には多武峯縁起絵巻が表示されています。教科書で有名な蘇我入鹿の首が飛ぶシーンを久しぶりに見ました。

高鴨神社

高鴨神社
高鴨神社

佐味城の麓にあるのが高鴨神社という、とっても古い神社で全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社です。鴨氏一族の発祥の地になっています。

高鴨神社の祭神は大国主命の子供の味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのかみ)で迦毛大神(かものおおかみ)ともいいます。大物主神(大国主命)の子孫である大田田根子の孫である賀茂積命が奉じて、代々賀茂(鴨)氏が祭祀にあたりました。

この大田田根子という人物がなかなか不思議で、崇神天皇の時代に疫病や災害がつづいた時,天皇の夢にあらわれたのが三輪山の大物主神。疫病は自分の仕業であること、自分の血を引く大田田根子に祭られれば収まると告げます。そこで大田田根子を祭主にすると疫病がやみました。この大田田根子が鴨氏、三輪氏の祖となります。

神武東征によって天津神が大和を支配したはずが、大国主命は出雲神社の祭神でもあり国津神の代表です。それが大和のど真ん中にある三輪神社の祭神でもあり出雲の影響が色濃く残っています。この出雲なんですが桜井から東へ少し行った所に出雲があり、相撲の創始者である野見宿禰はこの出雲の出身と言われています。

佐味城

佐味城
佐味城

御所の鴨神にあるのが佐味城。

1567年(永禄10)には筒井方の城だったようです。この年、三好三人衆・筒井順慶連合軍と松永久秀が戦っていましたが松永久秀は押され気味で三好三人衆と筒井連合軍が陣取っていた東大寺を攻め大仏殿が燃えてしまいます。大仏が燃えたのは松永久秀のせいじゃなかったんですが信長が家康に松永久秀を紹介する時、三悪事の1つとして大仏を焼いたことにされてしまい世間に喧伝されてしまいました。「麒麟がくる」でもこのシーンが出てくるでしょうね。

劣勢の松永久秀に味方するため、河内守護・畠山高政と根来衆が大和へ侵攻し、筒井方であった佐味城を攻めましたが、反撃に遭って撤退したようです。

【とっても変わった山城・佐味城】
佐味城は金剛山山麓に張り出した台地状の尾根を利用して築かれた城ですが、城への道が分からない。山道があったので進んでみましたが途中で藪だらけに、とりあえず地理院地図アプリを見ながら、尾根の頂上を目指します。早い話が直登です(笑)。息も絶え絶えで、ようやく土塁にたどりつき高さ10メートルほどの土塁を登ると城の中に入れました。

佐味城は全国的に見ても一風変わった縄張りになっています。中心になっている郭が一番西側にあり、あとは碁盤の目になっていて整然と区画された土塁囲みの土壇が並び、家臣の屋敷跡だったようです。四日市に保々西城があるのですが、少し似ています。この屋敷跡のような郭がたくさんあり、しかも一番外側は高い土塁や堀で防御されています。ただ中央の大手通りみたいなところはまっすぐで城の外にもそのまま続いていて、ひょっとすると寺院跡を城に造り替えたものかも分かりません。