飛鳥おもいで堂

飛鳥おもいで堂

飛鳥へ行ったついでに飛鳥おもいで堂へ寄ってきました。

飛鳥って果物や野菜などは販売していますが、意外におみやげ物が少ないのです。飛鳥おもいで堂では店主が3Dプリンターを使って埴輪グッズなど、様々なオリジナル商品などを作っています。

場所は石舞台古墳へ向かう道の途中にあるCafeことだまの裏側(駐輪場、駐車場)にあり、倉庫を改造した建物です。って、初めて行ったのですが(笑)

店主は西川さんという中小企業診断士仲間です。

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猿石

猿石

久しぶりに飛鳥へ出かけてきました。飛鳥駅の近くに吉備姫王墓があり、ここに猿石があります。以前に来た時は木々が生い茂っていたのですが、きれいに整備され見やすくなっていました。猿石はもともとは赤穂浪士の討入があった元禄15年(1702年)に田んぼから掘り出されました。

今昔物語集にも出てくるので欽明天皇陵の麓に昔からあったようです。高取城の入口にも猿石があり、掘り出された猿石群の一つだったものが高取城の築城時に運び去られたといわれていますが諸説あります。

雪の談山神社

談山神社

天気がよさそうなので、未踏の北山城(多武峰城塞群の一つ)を目指すことに、まずはベースになる談山神社を目指します。桜井駅からバスで深い山に入っていくと、あたりは雪だらけ。昨日、積もったんですね。十三重塔など社殿は雪だらけ。

晴れているので木の枝に積もった雪がボコボコと爆弾のように落ちてきます。

お水取り

奈良に春の訪れを告げる「お水取り」です。

お水取り

■お水取りとは
3月12日深夜に二月堂の前にある閼加井屋(あかいや)に水を汲みにいくことから「お水取り」と呼ばれるようになります。この水は若狭国から10日かけて地下を通ってやってきます。「お水取り」は修二会(しゅにえ)という不退の行法で3月1日から14日まで行われます。修二会が始まったのは大仏開眼の年である天平勝宝4年(752年)。不退の行法ですので以来、途絶えることなく続き今年は1274回目になります。

修行を行うのは11人の僧侶で練行衆と呼ばれます。以前、NHKが練行衆の修行に密着した番組を放映していましたが深夜まで五体投地などすさまじい行法をやっていました。有名な火の松明は練行衆が二月堂に登廊を登る時の道明かりです。これが江戸時代ぐらいから大きくなり練行衆を先導する童子の見せ場としてパーフォーマンスされることになります。

■スケジュール
練行衆登壇の30分前になると二月堂付近の木々などに消防ホースで大量の水が掛けられます。20分前になると修二会の解説があり、その後に英語、中国語による短めの解説があります。ハングルはないんですねえ。直前になると付近のライトが消え、真っ暗な中、鐘が響き、二月堂への長い回廊を大きな火の松明に導かれて練行衆が登廊していきます。

いよいよ童子が火の松明を振り回しますが、その前に大きな木を打ちつける音がします。内陣に入る前に練行衆が木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす儀式で、これを合図にテレビでよく見る松明の行事が始まります。松明自体は20分ほどで終わりますが、練行衆は夜明け前まで修行を続けます。

帰りは観客が一斉に移動するので、なかなか大変です。南大門を通らずに横に抜ける道で奈良駅を目指すと早く帰れます。

磐余若桜宮

磐余若桜宮

上之宮遺跡から下っていき桜井駅が近づいてくると稚櫻神社があり、ここが第17代履中天皇の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)比定地です。

境内には桜井の名前の元になった「櫻の井」という井戸もあります。日本書紀によると履中天皇は磐余池を造り、船遊びをした時に杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、磐余稚桜宮としたとされています。ところが磐余池がどうもずっと西にある東池尻・池之内遺跡(中ツ道沿いにあります)だったようですので、近くにある磐余稚桜神社が磐余若桜宮のようです。こっちも高台になっています。

上之宮遺跡

多武峰街道を少しはずれて上之宮遺跡へ

上之宮遺跡

河岸段丘の上ですので高台になっていて住宅地の真ん中に公園があります。このあたりから6世紀末ぐらいにつくられた大きな邸宅跡が見つかりました。邸宅だけでなく庭園も整備されていて石組みによる園池遺構が見つかり復元されています。水の祭祀場遺構という説もあります。

■聖徳太子の上宮?
遺跡が見つかった時、大騒ぎになったのが聖徳太子の上宮(かみつみや)ではないかという報道です。聖徳太子が幼少の頃、磐余(いわれ)に住んでいました。宮殿は上宮と呼ばれ、聖徳太子は上宮厩戸豊聰耳太子と呼ばれていました。日本書紀によると斑鳩に移るまで住んでいたようで、父である用明天皇の磐余池辺犨槻宮の南に上宮があったということです。

磐余池辺犨槻宮の伝承地が2つあり、1つが石寸山口神社周辺で、もう一つが吉備春日神社です。これなら上之宮遺跡が南側にあるので上宮の可能性が高くなります。ところが2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池ではないかといわれています。伝承地のずっと西にあります。こうなると上之宮遺跡は東南になりますので、このあたりを拠点にした安倍氏関係かもしれません。

崇峻天皇陵

崇峻天皇陵

倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。

明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。

尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。

倉梯柴垣宮

倉梯柴垣宮

下居出城跡から多武峰街道を下っていくと倉橋という集落があります。倉橋は高台なので桜井や耳成山が見え、遠くには二上山がのぞめます。ここに第32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(クラハシシバガキノミヤ)の伝承地があります。倉橋は倉梯と書かれていました。崇峻天皇は暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です、犯人は東漢駒、蘇我馬子が命じたといわれています。蘇我馬子に擁立されて即位したのに、えらい梯子外しです。

倉橋はけっこうな高台で飛鳥からも離れていますので、蘇我氏や大夫(マヘツキミ)と距離をとらざるをえない事情があったのでしょう。倉橋から飛鳥に出るには談山神社まで登って西に下るか、多武峰街道を下って上の宮から山田道に入るしかないです。崇峻天皇の後は推古天皇が即位します。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。

正倉院展2024

夕方からインバウンドで賑わう奈良へ。

正倉院展

東向商店街を歩くと修学旅行生以外、日本語が聞こえてきませんなあ(笑)。明治以来120年ぶりに保存修理工中の五重塔を抜けて奈良国立博物館へ。正倉院です。16時過ぎからレイト割(昔はオータムレイトチケットでした)になりますが16時30分過ぎに入れば誰も並んでいませんし、会場も混んでいません。

■天平時代の盗難届
面白いのが古文書で棚卸の記録など、いろいろありましたが盗難届がありました。下級完了が天平7年(735年)に左京職へ提出した文書です。服はもちろん酒器、弓など家財も根こそぎやられていました。

盗難届を受理した左京職から東市司に盗品は市で売りさばかれるから目を光らせておくように出した命令書もありました。無事に見つかったかどうかまでは分かりません。